【第9話】 キケンな婚約者
いや、いや、ない、ない。
ヴィーリアがわたしの婚約者? 一体なんの話? ヴィーリアは儚げな美しすぎる少女のはずでしょ? それなのに婚約者って? クリムス侯爵の次男? なんのこと?
「お嬢様!?」
突然、部屋を飛び出したわたしにベルが驚くのもかまわずに、ほぼ全速力で食堂へと走った。
勢いよく食堂の扉を開ける。お父様とお母様、シャールが驚いたようにこちらを見た。
「お、おはようございます」
「……おはよう、ミュシャ。……どうしたのだね? そんなに慌てて、なにかあったのか?」
お父様がコホンと咳払いをした。それから隣に座る白銀色の髪の青年に、まだ子どもっぽさが抜けないようで申し訳ない、と話しかけた。青年はにこやかに微笑んで肯く。
……本当なの?
「おはよう、ミュシャ。早く座りなさい」
「……はい」
呆れ顔のお母様に促されて、白銀色の髪の青年の隣の席に着く。
「おはようございます。お姉さま。……早くヴィーリア様に会いたかったのでしょう?」
お母様の隣に座るシャールはまだあどけなさの残る仕草でわたしをからかった。
「あ、ははは。そうなの……」
もごもごと答えて、ちらりと隣の青年に視線を移す。
白銀色の艶やかな長い髪を耳の下で弛くひとつに結んでいる。白磁器のように滑らかな肌と、すっと通った高い鼻筋。ふっくらとした形の良い唇。整った卵型の小さい輪郭は、昨夜見た時よりも固い線に代わっていた。首に浮き出ている喉仏は男性の証だ。黒いスーツに包まれた体躯は細身ながらも
「それは嬉しいですね。私もお会いしたかったですよ。ミュシャ様」
そう言って、ヴィーリアはにこりと微笑んだ。
「ちょっと! 婚約者ってどういうことなの?」
「その方が都合が良いので」
味なんてまったくわからなかった朝食を終えた後、散歩に行ってきます、と強引にヴィーリアを連れ出した。
秋の始めの陽射しは澄んでいる。少し冷たい乾いた空気は肌に心地よい。
屋敷から裏奥にある湖に向かう木漏れ日の
「貴女には婚約者はいないでしょう? ……ああ、誰かお好きな方でも?」
「そんな人はいないけど……」
「では問題はありませんね」
そういう問題じゃない。先に当事者本人にひと言、言っておいてくれてもいいでしょうに。
上目遣いで恨めし気に睨んでみる。それに、それに。
「………ヴィーリアってば、男の人だったなんて!」
「人ではありませんが」
「それは、そうだけど!」
「女性だと言った覚えもありませんが」
「それも、そうだけど!」
ヴィーリアは拳で手のひらをぽんと叩いた。瞳が弧を描く。
「もしかして、昨夜の私の方がお好みで……?」
「そういうのでもないけど!」
完全にからかわれている。
「……貴女が私を召喚したときは、あの姿を維持するのが妥当でした。しかし、契約後に十分に依代をいただきましたので、本来の姿をとったまでのこと」
「……うう」
そう言われてしまうとさすがになにも言えない。ナイフで指を深く切ることが怖くて、皮膚に滲んだ少量の血液で召喚したのは自分だ。
それに……男性だと知っていたのなら、一緒の寝台で眠ることはしなかった。
「私の姿がお気に召しませんか?」
昨夜のことに気を取られていて、小石につまずいてよろけたわたしの腰を、さりげなく支えながら訊く。
「そんなことは、ない、けど……」
少女の姿をしたヴィーリアは同じくらいの背丈だった。しかし、今のヴィーリアはわたしより、頭ひとつ分ほどはゆうに高い。見上げるようで首が痛くなりそうだ。
「それはよかった」
木漏れ日が白銀色の髪に透ける。陽の下で見るヴィーリアの瞳は、濁りのない深い色のアメジストのように美しい。急に心臓が跳ねたように感じて、慌ててヴィーリアから視線を逸らす。なんだか調子が狂ってしまう。
「だけど、クリムス侯爵の次男なんて」
クリムス地方を領地に持つアロフィス侯爵家は、うちのような社交界とも距離をおいている田舎の底辺貴族にまで名前が知られているほどの有名な一族だ。代々魔術師の家系で、歴史書に名を残す魔術師を何人も輩出している。現当主はリューシャ公国軍魔術師団のなかでも、それなりの地位にいる方だったように記憶している。よりにもよってそんなお方の次男を騙るなど、大胆すぎるのではないだろうか。
「問題はありません。私は数年前に迎えられた庶子、ということになっていますので」
「……そうなの?」
勝手に庶子になりすまし、いつのまにか婚約者にもなっている。ヴィーリアにとっては、指をひとつ鳴らせば済むことなのかもしれない。だけど、事前になにも知らされていないわたしとしては、状況を呑み込むまでにいささか居心地の悪い思いをすることになる。できればそういうことは前もって教えてほしい、と伝えると、ヴィーリアは深い紫色の瞳を細めた。
「ミュシャ、貴女は召喚者であり契約者ですが、
「……でも、わたしだって心の準備が必要だもの」
願い事を叶えてもらう身だからあまり文句も言えない。しかし、対価は支払わなければならないのだから、いうなればわたしはヴィーリアのお客様ではないだろうか。これは取引なのだから、顧客のいうことにも耳を傾けたほうがいいと思う。そのほうが
「まあ、貴女の言うことも一理ありますね。……今後はなるべく気をつけましょう」
「よかった! そうしてもらえると助かるわ」
これでせっかくの食事の時間に、訳のわからないまま黙って座っていることも、大好物のベリージャムをのせたパンケーキを、砂を噛むような気分で味わうこともなくなるだろう。
「それに、あまり気をもむこともありません。ここを去るときには、彼らの中から私に関する記憶は消していきます。細かい記憶も徐々に、都合のいいように修正されていくでしょう」
……そうなのか。
魔術とはなんと便利なものだろうと思う反面、改めて恐ろしいものだとも感じた。
「心配しなくても貴女の記憶は消しませんよ。忘れられたら困りますので」
流すように向けられた視線が、なんだか艶めいて見えたのは気のせい……?
しばらく歩くと、木漏れ日が眩しい小路の先に湖が姿を現した。
森に囲まれた湖の後方には、美しい絵画の背景のように、リモール山脈とユーグル山脈が連なって
この時期には
湖には桟橋と小さいボート小屋がある。今では使われていないため、ところどころ木が腐り、崩れている。
「昔は夏になると、家族でボートに乗って涼をとったのよ」
木陰で昼食をとり、シャールと裸足で駆け回った。お父様は湖に釣糸を垂らして魚を釣った。お母様は大きな日除けのパラソルの下で、にこやかに微笑んでいた。懐かしい思い出だ。ここ数年は領地の立て直しや金策に忙しく、そのような夏を過ごしていなかった。
「……貴女は家族の誰とも似ていないのですね」
「あれ? 話していなかったかしら? わたし、養女なの」
お父様もお母様も、シャールも淡い金色の髪をしている。お父様の瞳は青い。お母様とシャールの瞳は緑色だ。一方、わたしの髪は黒檀色。瞳の色は琥珀色だ。顔立ちも違う。
「ここの土地の人はほとんど知っていることよ。わたし、ライトフィールド男爵家の門の前に置かれていたんですって」
十九年前、男爵夫妻は結婚されてまだ間もない頃だった。先代の男爵だったおじい様も、爵位を息子であるお父様に譲った直後だった。リモールは新領主様誕生に、お祝いの宴が連日、
そんなまだ浅い春の頃。霞が濃い早い朝、門の前で小さく鳴く声が聞こえたらしい。野良猫が仔猫でも産んだのかと、庭番が様子を見に来た。そして、おくるみに包まれて籠の中に入れられたわたしを見つけた。
人が好く善良な男爵夫妻は新婚にも関わらず、これもなにかの縁だからと、自分たちの子どもとして育てることに決めた。二年後にシャールが産まれてからも、お父様とお母様は、シャールとわたしを分け隔てることなく慈しんで育ててくれた。
「わたし、お父様とお母様とシャールには本当に感謝しているの」
振り返るとヴィーリアは、不思議なものを見るようにわたしを眺めていた。
「……それなのに貴女は自分の魂を差し出したのですか?」
「それはどっちの意味? 血が繋がっていないから? それともこんなに大切に育ててもらったのに?」
「そうですね……。両方の意味です」
「ふふふ。だからよ」
わたしが笑うと、ヴィーリアは目を細めて困ったように呟いた。
「……やはり、変わった人ですね」
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