【第8話】 朝と魔法陣
瞼にかかる光で目を覚ました。ぼんやりと目を開ける。薄く開いたカーテンの隙間から漏れた、秋の朝の透明な陽差しが寝台に届いていた。窓の外からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
今、なん時頃だろう?
昨夜は寝台に横になってからも、なかなか寝付けなかった。身体は疲れていたのだが神経が
そこまで思い出して意識が急にはっきりとする。そうだ、ヴィーリア! ブランケットを跳ねのけて寝台に飛び起きる。きょろきょろと部屋中を見廻すが、ヴィーリアの姿はない。寝台の隣は空になってから、だいぶ時間がたったような気配だった。
まさか、本当に夢とかじゃないよね?
とっさに左の手を開き、薬指につけたナイフの傷を探す。薬指の先に薄く白い線が入り、傷は確かにそこにあった。ほっと安心しながらも、寝台を降りて壁の姿見の前に立つ。
黒檀色の髪をひとつにまとめて持ち上げて、ちりちりと疼く左の耳を出す。たしか、耳の後ろに金貨ほどの大きさに刻印したと言っていた。鏡の前で顔や首をかたむけながら、耳を折るようにして鏡を覗き込む。
―――あった。
左耳の後ろ、ちょうど耳たぶの上から、金貨ほどの大きさで朱い魔法陣が刻まれていた。入れ墨のようにも見える。
これからは髪の毛は結い上げられない。万が一見咎められでもしたら、なんと言い訳をすればいいのだろう。
入れ墨は傭兵や、ここリューシャ公国からはさらに南方の国の者たちが、己の逞しい肉体を誇示するため、またはより美しく見せるために好んで肌に彫るものだ。しかしリューシャ公国には入れ墨の文化はない。
……まあ、でも、いいかな。どうせ社交界なんて出る気はないから、公都にも行かないし。もし見つかってしまったら、染料で悪戯に描いて消えなくなったとでも言っておこう。
指で耳の裏の魔法陣を撫でる。昨夜から――ヴィーリアに魔法陣に口づけられて、血を吸われてからちりちりと疼いている。微かに熱をもっているようだった。
△▽△▽△
『ミュシャ。貴女の涙もいいですが……。やはり血のほうが……』
紫色の光彩が妖しく、美しく光る。魅入られてしまい目がはなせなくなった。両の眦から流れた雫を冷たい舌で掬われた。それからわたしの髪をおもむろに耳にかけ、ヴィーリアは左耳を噛んだ。噛まれているとはいっても、甘噛みのようで痛みはない。
柔らかく冷たい唇が耳を
『……これくらいいただければ。召喚に必要な血液は量よりも質が大事とはいえ、いささか少なすぎましたから』
ちろりと唇の隙間から小さく赤い舌をだした。ふっくらとした唇についてしまった血を舐めとった。本当に、血を吸っている……。
とっさに後ずさり、耳を押さえた。
『……ヴィーリアは
『その呼ばれ方も好ましくはないですね。しかし……そうではありませんが、そうでないとは言えません』
なんなの? その謎かけのような答えは。
『先ほど、力を使ったので。貴女が召喚時に魔法陣にふりかけた分では、到底足りなかったのです』
『それって……じゃあ、ヴィーリアがなにか力を使うたびに、こうやってわたしの血を吸うってこと?』
『……使った力の大きさにもよりますね。ああ、それとご存じなかったのかもしれませんが、願いの成就を見届けるまでは私はこちらにいますので。私とこの世界を繋ぐために定期的に、貴女の血液か体液をいただきます』
……ご存じなかったです。
書いてなかったですよ。あの読み手にやさしくない
『それと、先ほどの質問の続きですが……。命をまっとうされた貴女を、私がお迎えするまでは自由なのか? という』
『そう……そうね』
『自由です。ですが制限はあります』
神殿に入れなくなること。司祭に触れられなくなること。祝福と治療が受けられなくなること。ほかの、人の理の外の者との契約ができないこと。
これらのことを覚えておいてくださいとヴィーリアは言った。
ヴィーリアはそうは呼んでほしくはないと言ったが、神聖と関わることができないのなら、どう考えてもそれとしか思えない。
『……なにか?』
『いいえ、なんでもないわ』
花がこぼれるような笑みとは反対の、禍々しい悪寒を思い出して慌てて首を振った。
『じゃあ、もし、神殿に入ろうとしたら?』
『物理的に弾かれます』
『司祭様に触れようとしたら?』
『弾かれます』
『祝福や治療を……』
『弾かれます』
……最後の質問は食い気味に返された。ヴィーリアは難しい顔をしている。
『……ミュシャ、
ヴィーリアは瞳を伏せる。長い睫毛の影が白い肌に落ちた。部屋の暗さと
『面倒なことになりたくなかったら、できるだけ神殿には近づかないでください』
『わかったわ。でも、契約を邪魔されるってどういうこと?』
『契約が白紙に戻されます』
『……そんなことができるの?』
紫の瞳は鋭い視線を投げてよこした。
『くれぐれも変な気は起こさないように。貴女は私と契約をしたことをお忘れなく』
『大丈夫。わかっているわ』
機嫌を損ねないようにと、愛想よく微笑んでみた。
『……神殿側もただの親切心で介入してくるわけではありません。あくまで向こうの都合です。……振り回されると、せっかくの願い事が滅茶苦茶になりますよ?』
これは警告? 神殿に関わったら、ヴィーリアはわたしの願いを破棄してしまうということなのだろうか。
『少々、脅かし過ぎましたか? ほら、また眉間が……』
意地悪そうに哂ったヴィーリアの冷たく細い指先が、こつんとおでこを弾いた。
△▽△▽△
着替えを終えて髪を梳いていると、コンコンコンコンと四回、部屋の扉が控えめに叩かれた。このノックの音はベルだ。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
「起きているわ。どうぞ入って」
「失礼します」
半分以上の屋敷勤めの者たちに退職勧告をしたときに、身の回りのことと、できることは自分たちで行うと家族で決めた。その時にベルは屋敷に残ってくれた。
「朝食の支度ができました。食堂にお越しください。今朝は早いうちにお嬢様の婚約者のヴィーリア様が到着されています。すでにお待ちですよ」
「……? ベル? 今なんて言ったの?」
鏡の前で髪に櫛を通す手を止めて尋ねる。なにか、最後のほうの意味がわからなかった。
「朝食の支度ができました、と申し上げました」
「そのあと」
「食堂にお越しくださいませ、と」
ベルはソバカスがチャーミングな、なかなかに天然なところがある娘だ。
「いや、そのあと」
「ああ、お嬢様の婚約者のヴィーリア様がすでに食堂でお待ちになっていますよ、と」
……………………?
「ええと? ベル? わたしに婚約者なんていたかしら?」
「まあ、お嬢様、まだ寝惚けていらっしゃるのですか?」
「いや、まあ、あの、それに、ヴィーリアって……?」
「はい。半年前にご婚約されたクリムス侯爵の次男、ヴィーリア・アロフィス卿ですよ。いい加減にきちんと目を覚ましてくださいましね」
……………………はい?
***
(注)
△▽△▽△でまとめてある箇所は回想です。
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