6-9「どうか、もう一度だけ」
「何が?」
小山さんは私を振り返って、怪訝そうな顔をする。周がみんなの前で小山さんに話しかけたあとの教室で、それぞれが部活に行ったあと、忘れ物を取りに戻ってきた私と小山さんは二人きりになった。
「あの、事件の犯人。殺したのは自分って言ってたから、本当なのかなって思って」
「嘘だと思うなら池高さんも殺してあげようか」
「えっ」
私がつい身を引くと、彼女は「冗談だよ」と笑った。笑い事ではないと思う。彼女の目には、本当に人を殺してしまいそうな迫力があった。
「……あの、も、もうひとついい?」
「なに?」
「周と、どんな関係だったのかなって、思って」
話している間にクラスメイトが入ってくるのではないかと、気が気でなかった。小山さんはそんなことは気にしていないようで、「そっちが本命ね」、ゆったりと喋った。
「わたしたちの関係に名前は付いていないと思うよ」
言葉はやけに刺さった。私にはない特別な関係があるのだと見せつけられた気になった。
なんで私じゃなかったのだろう。私は周が好きだったし、一緒に死ぬこともできた。
人間としての、明確な役割がほしかった。誰かのために生きていいことをたしかに実感できれば、私はもっと上手く呼吸ができているはずだった。
周のお母さんに息子が自殺しようとしていることを説明したが、泣き喚くだけだったから無理に交番へ連れて行った。「家族じゃないんですかっ」自分の声が情けなく響いて、笑えた。私は新幹線の領収証と白紙の遺書を手がかりとして持っていき、スマートフォンの写真を提供した。昔から両親は写真を撮らなかったらしく、彼女は写真を持っていなかった。
捜索願というものは存在しなくて、今は行方不明者届と呼ばれているらしい。領収証からは周が今朝のうちに広島へ発ったことがわかり、携帯の位置情報からは現在広島の三次というところにいることがわかった。お巡りさんは泣いている私を慰め、身なりの汚い母親を怪訝そうに見た。
居場所を詳細に調査するという話と向こうの県警と連携を取るという話が出ている間に、三時間が経っていた。進捗があったら連絡しますという言葉を一割だけ信じて、警察署をあとにした。
周が働いているというアルバイト先に連絡をしたが、先月辞めた、という情報しか得られなかった。目的なく歩いて、偶然見覚えのある道に出たので、記憶に照らし合わせながら歩道を進んでいった。
道は土手に続いていた。対岸には背の高いビルがいくつも見えた。私と世界を隔てるように、間には大きな川が流れている。日は暮れ始めたばかりなのに、曇っているせいで余計に暗く見えた。
涙は涸れることなく頬を濡らした。ぼやけた視界のなかで、対岸の光が踊っている。
ぽつ、と一つ目の雨が降ってからは早かった。私は制服ごとびしょ濡れになって、あっという間に体温を奪われる。このまま凍死してもよかった。
スマートフォンを取り出し、チャットアプリを立ち上げる。早退した私を心配するメッセージが数件、見えた。それらを全部無視して、周とのトークを開く。雨粒が画面を覆って、上手く操作できない。指先はどんどん冷えていく。
呼び出し音は長く続いた。
「応答がありませんでした」のポップアップに、「かけ直す」と「ボイスメッセージ」の二択がくっついている。前者を選択して、かけ直して、また前者を選んだ。
「なんで、出ないの」
私は大人が嫌いだった。大人になりたくなかった。大人は、自立しなければならない。それを当たり前に口にできる人はよっぽど甘く育てられたのではないかと思う。自分のために生きることを強要されるこの風潮は、息苦しかった。
私は誰かのためを名目に、自分を生かす理由づくりがしたいだけだった。出来損ないの自分に生きる意味を見出せない。だから周を利用し、生を掴もうとした。
自己肯定感の低さが原因と言われても、どうしようもない。「なんでこんなこともわかんないの」と言われても、私にとっては「こんなこと」ではない。
叫びたくても、嗚咽に邪魔されて、声にならなかった。
周は一人で生きられない。だから誰かに必要とされたかったのではないかと思う。奔放な母を見て育ったから、恋愛とは別の方法で愛を欲した。それを与えられるのは小山さんしかいない。たしかにあの二人は特別だった。
それでも私は、彼に証明してやりたい。愛とか恋とか、そういう一見不安定そうな感情でも、きちんと君を必要とできる。
へたくそな笑顔を浮かべるくせに、彼はいつも、別れ際は名残惜しそうな顔をした。花火大会の日の、中身のない「僕も好き」を思い出す。当時は、彼の気持ちが冷めたのだと思った。
今なら違うとわかる。彼は自分が愛に溺れ、その先で必要とされなくなることを怖がった。そして内面に秘めた苦しみを盾に、私と距離を取ることを選んだ。
私が生きるために周を利用していたことをちゃんと話して、周の汚い部分もちゃんと聞いて、そうすれば今度こそ私たちはわかり合える気がした。
私には周が必要だった。小山さんが言ったとおり、私は精神病だった。でも、それは生きるための病だ。一緒に過ごしている間、彼を免罪符に私は生き延びることができる。周も、私を理由に生きてほしい。
もう一度だけ、わかり合うチャンスがほしかった。
この土手は、以前、周と花火大会を見た場所だ。土手は湾曲する川に従って曲がり、綺麗な弧を描いている。対岸には東京の景色が広がっていて、こちら側に比べると、背の高い建物が多かった。
遠く、高架を、新幹線が通った。あれは、広島に行くだろうか。線路に忍び込んで、跳び乗ることはできないだろうか。
なんだかどうでもよくなって、私は制服のまま、土手の芝生に寝転んだ。とっくに服の内部まで濡れていると思っていたので、背骨に沿って服の濡れる感覚がしたとき、すこし驚いた。ブレザーは意外と、撥水性がある。寝転がったことで、土や芝生に含まれていた水が、背中の縫い目から浸透したのだろう。
私はいつまでも凍死しなかった。このまま死なないのが不思議だった。すべてが尽きて、死んでしまいたかった。スマートフォンの電源ボタンを押す。時刻は十九時五十五分だった。広島までの終電はもうなくなった。
「……え」
突然スマートフォンが着信を示して、私はつい、飛び上がった。急いで携帯を確認する。
画面には『お母さん』と表示されていた。今すぐ応答して苛立ちをぶつけてやりたいところだったが、急にその気力がなくなって、拒否のボタンを押した。
今すぐにでも周から着信があるかもしれない。だから、充電を温存しておく必要がある。これ以上の消費を抑えるため、トークを開いて母をブロックした。新着メッセージは『いつまで外にいるつもり?』から始まり、『いい加減にして』で終わっていた。
家に帰る気はなかった。リビングの暗がりで見た、母の顔を思い出す。ざまあみろ、と思った。お前の娘はここで死ぬんだ。
涙が止まらなくて、明日は目が腫れることが心配だった。死んだら誰にも会わないからいいか、とも思った。私の内側で明日を想像する自分と、このまま体温を失って死にたい自分が共存している。
対岸を眺めているうちに、時間の感覚がなくなった。膝が震えて、歯が鳴る。警察からの連絡は来ない。
もし、周が死ぬなら、最後に伝えたいことがあった。私の生きる理由が彼にあることを知ってほしかった。重たい腕を動かして、冷えて感覚のなくなった指先を使い、最後の、文章を入力する。
既読はなかなか付かなかった。最後に周に電話を掛けて、呼び出し音がしている間に、私の意識はまどろんだ。
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