6-8「白紙」
先生からクラスメイトが自殺したという話を聞かないから、彼らはすぐには死なないという確信があった。無駄にしてしまった時間のぶん、周の捜索を急ぐ必要がある。
彼がいなくなってちょうど二週間が経ったその日、私は担任に言って周の住所を教えてもらった。一度連れていってもらったことはあるが、それだけで覚えられるほど記憶力はよくない。
最初は「個人情報だから」と渋っていた担任も、私が「周と付き合っている」と伝えたところ、周の無断欠席を解決できるならと教えてくれた。私たちの関係がとっくに終わっているということを、担任が知る術はない。
恋人というだけではきっと不十分だったが、私の成績がこの学校のうちではいいことが上手く機能したのだと思う。住所を教えてもらったあとに早退する旨を伝えたが拒否されたので、朋海と千歳だけに伝えて勝手に帰った。
私の家族は終わった。周さえ取り戻せれば、学校生活なんてものはどうでもいい。これまで私は、人のために間違えないように生きてきた。次は、他でもない私が生きるために道を間違えてみたかった。
教えてもらった住所はただの記号の羅列でしかない。マップアプリで検索して、ようやく学校からのルートがわかった。一旦家に帰り、駐輪場から自転車を引っ張り出す。しばらく乗っていなかったせいで、ペダルを漕ぐときいきい鳴った。動いてくれればその後壊れてもいい。
周の居場所はわからない。先生は家に行ったけど誰も出ないと言っていた。もし応答がなかったとしても、なんとか侵入して部屋を捜索させてもらい、居場所の手がかりを見つけてやる。それくらいの覚悟があった。
この日の関東は晴れのち曇りで、明日は曇りのち晴れだった。ところによって雨が降るかもしれない、という予報もある。現在晴れ渡ってはいるが、気圧はすでに落ち始めているのか、頭にはヒビが入ったような痛みがあった。
家に周のお母さんはいるだろうか。理由は何だってよかった。周のお見舞いに来たので入れてください。こじつけでもいい。最悪、無理に押し入ってもよかった。窮屈で規則正しい生活なんて手放してもいい。
私が私を肯定するために必要なのは、これまで謳歌してきた生活ではなかった。
自転車のペダルを踏むたび、身体に風が纏わり付いた。自転車には推進力が働き、私の身体は後ろに置いていかれそうになる。懐かしい高架下の道を、偲んでいる余裕はない。
「あっ」
マップに目を落とした一瞬のせいで、目の前のポールに気づけなかった。視界が大きく回転したあと、あまりの衝撃に声が漏れる。ぶつかった場所から順に痛みが伝染していき、苦しさに大声が漏れそうだった。周囲に人がいないのが幸いだった、と思う時点で私はおかしいのかもしれない。
車輪の空回りする音が聞こえた。スカートからはみ出た脚には、寒さのせいか、骨に響くような痛みが続く。三月なのにどうしてこんなに寒いのかと腹が立った。思いっきり地面を叩いて立ち上がり、スマートフォンを拾う。画面は割れているが、マップに影響はない。
今度はちゃんと道を頭に入れて、もう一度ペダルを踏んだ。
自殺志願者の誰しもが苦しくなるほど悩んでいるわけではないと思う。殺人や自殺に必要なのは勇気ではなく、その一瞬、狂うことだった。私には狂気が足りない。正常を何よりも重んじるあまり、狂いきれなかった。
周は狂うことの閾値が低かったのではないか。彼には、死を日常の一つとしてカウントしてしまうような不安定さがあった。だから苦しみに幕を下ろす最終手段ではなく、いくらかある手段の一つとして、最も手頃な自殺に手を伸ばした。
周の家は学校から自転車で三〇分の、小さな白塗りのアパートだった。客用の駐輪場は見当たらなかったため、入居者用と思しきスペースに自転車を停める。鉄製の階段を登るとき、かん、かんと小気味いい音がした。
周の家は二階の端っこで、ピザ屋やスーパーのチラシがポストからはみ出していた。息を吐き出し、チャイムを押す。反応を待って数える一秒、二秒、先ほどの擦り傷が今になって痛み出した。先生が言ったとおり、返事はない。
もう一度チャイムを鳴らして反応を窺う。間抜けな電子音は開放的な廊下に悲しく響くだけで、最初と同じ結果に終わった。
もしかしたら鍵を隠しているかもしれない。ガスメーターの下、ポストの内側、物置きらしきスペース。一ヶ所ずつ丁寧に探し、手が真っ黒になってきたころ、二周目の捜索が終わった。
こんなことなら周の鍵を盗んで合鍵を作っておけばよかった。そういう発想が浮かんで、自分でも可笑しかった。
でも、やろうと思えばできる立ち位置にいたから不思議だ。教室は、人の善意で成り立っている。それが前提にあることをきちんと理解しなければ殺人事件は起こるし、いじめも発生する。
手が詰まったことにどうしようもない苛立ちが湧いてきて、鉄製の扉を思いっきり蹴った。ばあん。音は隣の団地にも聞こえたのではないかというくらい響く。周りに人はいないから、音の正体が私だということを誰も気づけない。
ふと思い立って、握ったドアノブは、私の手に従ってくるりと回転した。きいい、と音を立てて扉はあっけなく開放される。あっけなさすぎて笑いそうだった。
「あ」
開けた先にはダイニングテーブルとキッチンがあって、視界の端っこ、冷蔵庫の前で蹲る人影と目が合った。人がいる。周の母親だ。どうしてインターホンに反応しないのだろう。それより周は。
疑問は吐き出されるより先に、女性の「だ、誰ですか」という掠れ声に遮られた。以前は存在感を消すのに必死だったが、こうして面と向かってみると目元は周に似ている、ような気がする。
「彼女です。周の」
怯えたような表情は、彼女をより老いて見せているように感じた。二重の目は大きくて、鼻や輪郭のバランスもいい。若いころは綺麗だったんだろうな、と思う。
「周はどこですか」
家は、数年前に家族で行った温泉街の匂いが微かにした。足元には請求書らしき封筒が散らばっている。周の生活を想像し、心が黒くなった。踏んでいた封筒から、足はどかさなかった。
「入ります」
周の居場所を答えない時点で会話が成立しないことがわかった。だから私は靴を脱ぎ、返事があるより先に玄関を上がる。この空間で、私は池高咲という着ぐるみを脱いでいた。周のためという免罪符があるからなのか、この女に腹を立てているからなのか、どっちでもいい。
周の部屋はひどくシンプルだった。荒れていたリビングとは異なり、この部屋はひどく片付いている。嫌な胸騒ぎが収まらない。胸騒ぎとか虫の知らせとか、そういう非科学的に思えるものは、実は胸の内で理解してしまった絶望を、言語化する前の段階なのだと気づいた。
机の上に二枚の紙切れがあって、領収証と書かれていた。新幹線のチケットの領収証だ。値段の高さが果てしなく遠い場所を示している。ポケットから取り出したスマートフォンは、画面が割れているせいで、自分のものではない気が一瞬だけした。
領収証の金額を入力し、大宮、上野、東京駅発の電車を順に検索する。料金は、東京発の新幹線と一致した。
『東京から広島 新幹線の料金・時間……』
周は広島に向かうつもりなのだろうか。すでに向かっていたら。頭のなかで財布に入っている千円札を数える。きっと足りない。
まずは警察に行こう。詳しいことはわからないが、第三者の私が行っても、捜索願は受け取られない可能性がある。周のお母さんを連れて行けばいいだろうか。話が通じないなら、無理に引っ張っていけばいい。私の力だけで周を連れ戻すことは不可能だ。
領収証だけでは周がいつ出発する予定なのか、そもそもすでに広島に到着しているのかすらわからない。振り返って、視線を動かした目が、ゴミ箱で停止した。
クリアに働いていた思考が、一瞬のうちに霞む。
ゴミ箱に歩み寄る途中、つい踏んでしまった充電器のコードがちょうど骨の下敷きになった。痛みに驚いてバランスを崩し、手を付いた机に積み上がっていた新書の山が雪崩を起こした。床に落ちた新書を拾おうとして、のろのろと身を屈めたとき胸ポケットからスマートフォンが滑り落ちる。ごん。音が遠く聞こえる。脱力感の衝動に従って、地面に座り込む。手を伸ばし、ゴミ箱から紙の塊を取り出す。
ぐちゃぐちゃに丸められた封筒の、「遺」という文字が歪んで見える。
「え、あ」
わかっていたはずだった。わかっていたはずなのに、頭が真っ白になった。手を伸ばし、紙の玉を拾い上げて、ゆっくりと開く。
「あああ、ああ、ああああ」
額に汗が滲んで、指の先端が震えた。意味がわからないくらい、涙が出ていた。わかっていたことだった。そのはずだった。
周が死のうとしているという予想は、これまでの私にとって、ただの可能性でしかなかったのだと知った。心のどこかで周は死なないような気がしていた。なんだかんだ言って、人は死なないものだと思っていた。
どうして私は、いつも、現実は普遍であると信じているのだろう。
封筒に書かれた「遺言書」の文字は紛れもなく周の文字で、ひどく現実の色をした三文字に、どうしようもなく私は全身の力を抜かれた。
人目も憚らず、蹲って泣いた。
――「その、本当なの? 殺した、っていうの」
声、震えを帯びた音の振動が脳を突き抜けていって、あ、これ私の記憶か、と思った。私は小山さんと交わした会話を思い出していた。
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