6-7「墓石と百合と」
その人の墓は、私の家から電車で数分の、緑の広がる穏やかな場所にあった。
「……綺麗なお墓」
小楠家と書かれたその墓石は、鏡のような表面をしていた。花立てには白い百合が供えられている。私たちの前に誰かが来たようだった。
「里緒は三年前、中学校の教室で死んだ」
「里緒、さん」
「うん」
空気の、ちいさく吐き出される音がする。鳥が鳴いていた。三月中旬の風は、私に暖かみを届けるには至らない。それどころか、肌の表面から、少しずつ熱をかすめ取っていく。
私が周のことを知るために欠かせない人物がいて、それが成美だった。彼女は中学生の周を知っている。今日は予定があると言っていたが、周の命がかかっている今、無理を承知で彼女に会う必要があった。
頼み込んだ結果、彼女は何かが思い出したみたいな表情で「いいよ」と言ってくれたので、流れで本来の予定、つまり彼女の幼馴染の墓参りについていく許可をもらうことができた。
彼女も何か話したいことがあるようだった。
「私たちは幼馴染だった。一応、周も。で、里緒は周のことが好きだったんだよ。でも、告白するって言って呼び出した日に、小山に殺された」
殺された、という言葉が、その少女の墓石の前でいつまでも宙を漂っている。柄杓で水をかけられたその墓石の、滑らかな表面を冷たそうな水滴が降っていった。見ているだけで、思わず身震いしてしまう。
「周は……、その里緒さん、のこと、好きだったのかな」
私が訊くと成美は苦笑いして「アイツは人を好きにならないと思うよ」と言った。首を傾げて、補足説明を待つ。
「アイツの母親、頭おかしいから。いや、事故に遭ってからおかしくなったのかな」
「事故?」
「聞いてない? 小学生のころ、アイツんち事故に遭ってんだよ。で、父親が亡くなってる」
「……聞いてない」
周はあまり昔の話をしない。私が聞いたのは母親の男癖の悪さだけで、父親のことも、幼馴染のことも彼は話さなかった。離婚したものとばかり思っていたが、違ったらしい。成美と関わりがあることも、文化祭のときに知った。彼は何も教えてくれない。
「世の中には親になっちゃいけない人ってのがいるんだと思う。事故が起きてから、周のママはホス狂いになった。いや、今もそうなのかな。ガチ恋してはフラれて、心を病む。だから周は恋愛しないように生きてるんだと思うよ。……咲にこんなこと言うのもアレだけど」
周の家に初めて行ったとき、彼の母親に遭遇した。前情報から察するに、男と喧嘩したか別れたかしたあとだったのだろう。
「会ったことある」と答えると、成美は気の毒そうな顔をした。
「長い間話さなかったから、今の周が何を考えてんのか、私にはわからない。父親が死んで、里緒も死んで、どんどん変わっていった。昔はもっと、自然に笑うヤツだったのに」
周はいつも表面だけで喋って、表面だけで感情を表現した。彼がずっと嘘を吐いている気がしていた。笑顔も言葉もどこか不自然で、しかし演技がかったそれは、表層だけで接することで心の中心を守っていたのかもしれなかった。
彼が小山さんと一緒に自殺を試みていたとしたら、原因はなんだろう。父親は亡くなり、母は愛に溺れ、育児放棄されている。その日を生きるのに精一杯な周に対して、この程度で「家族のことで悩んでいる」と言っている自分が情けなかった。
「お父さんが亡くなる前の周って、どんな子だったの?」
「あー、なんか、うるさい奴だった」
「想像付かないなあ」
「何かあるごとに『見て見てー』って、なんでも見せびらかしてくる。クソガキながら、『クソガキかよ』って思ってたな。……いや、親を亡くしてからしばらくはそうだったか。たぶん、母親がかまってくれなかったんだろうなって、今思った」
成美は一息に言うと、手を合わせて目を閉じ、動かなくなった。私もそれに倣って、幼い女の子へ祈りを捧げる。
こういうとき、何を考えればいいのだろう。
風が優しく吹いて、前髪がほんの少し浮き上がった。間もなく春休みがやってくる。
「周が咲と付き合ったって聞いたとき、びっくりした。最初は里緒の通夜にも墓参りも来ないで何してんだって思ったけど、たぶん、周なりに変わろうとしてたんじゃないかな」
周はずっと一人だった。いや、心を閉ざし、自分を一人だと思い込んでいた。手を差し伸べようとした人はいたはずだ。成美もそのうちの一人だったのだと思う。それでも、あの母親を見て、人への信用を手放してしまった。
私は周の本心を何も知らなかった。歩み寄っているつもりで、お互いに怖がって距離を置いていた。中途半端なまま、終わってしまった。
周と私には共通点があった。私たちは周囲の何もかもを無差別に憎み、心から排除し、自分を守ろうとした。その過剰すぎる防衛反応があまりにも情けなくて、でも自分に殺意を向けるほど私は強くなくて、だから周を殺したいと思った。
周への殺意は、自己嫌悪の延長線上にあった。
「あのさ」
「うん」
「里緒が言ってた『さっちゃん』って、咲のことだよね」
「知ってたなら最初に言ってよ」
白々しくも「里緒さん」などと言った自分を思い出すと恥ずかしい。成美はバッグに手を突っ込み、見覚えのあるチャームを取り出した。そこには里緒ちゃんの名前が刻まれていた。
「成美が持ってたの?」
「周から預かった。……ってかごめん。預かったのに、里緒のだって知って、思い出すのが嫌でずっと封印してた。咲に話があるって言われて、渡さなきゃって思った」
おそらく、私がチャームをなくしたのは校内のどこかだ。私と関わりの薄い誰かが拾い、周に託したのだろう。もしくは朋海か誠が余計な計らいをしたか。
「里緒ちゃんは私のこと、なんか言ってた?」
「いつも悲しそうな顔してるから、側にいてやりたかったって」
心臓がひやりとした。
わざわざ私の話をするということは、それほど心配してくれていたのだろう。
どうして彼女は、あんなに希望に満ちた顔ができたのか。里緒ちゃんが持っていて、私や周が持っていないものは何だったのか。
成美の話を聞いて、今、理解した。里緒ちゃんは、自分で人生の核をつくることのできる人間だった。彼女は自分が信じた道を歩くことができるのだ。
どうしようもなくなったときにチャームに願いを込めるのは、自戒の気持ちからだった。最低な気分に押しつぶされそうなとき、どうしようもない過去の行いを思い出してさらに自分を追い詰める。不幸の最深部にいるとき、心が安らいだ。
「周のこと、探すの?」
「うん」
「なんで? 別れたんでしょ」
一人で生きるのは怖い。その原因は、絶えず自分の力で指標を作り続けなければならないことにあるのではないだろうか。自分で、生きる意味を作るのは難しい。
『生きる意味を求めて彷徨う君たちは精神病だ』
私は今でもあの言葉のすべてを、ゆったりとした小山さんの声で思い出すことができる。あの教室で小山さんが宣言したことは、正しい。私は意味がないと生きられなかった。
「……うーん。なんでだろう?」
精神病は不治の病だった。私は精神病で、周も精神病だった。でもそれは、生きるために必要な病だ。私たちは欠落を埋め合うようにできている。
何を犠牲にしてでも、周を見つけてやろうと決めた。そして今度私から逃げようとしたら、そのときは殺してやる。
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