6-6「殺人と後悔」

 テニス部の練習場所は、サッカー部が広く陣取っているグラウンドの、端っこに設置された小さなテニスコートだった。特に強豪というわけではないので、部活の始めにネットを設置し、ラリーと体幹トレーニングなどを適当にこなしていると二時間の練習は簡単に終わる。同じことの繰り返しは退屈なようで、余計なことを考える必要がないから楽だった。


 普通に生きるためには、事前準備が欠かせない。私には私なりの予定があって、そこから少しでも外れると、途端にままならなくなる。何をするにも心の準備をする必要があった。脳内スケジュールと現実のズレのぶん、私はいつも混乱した。


 昨日も、それは起こった。


 金曜三時間目に行われた現代文の授業は、出席番号順に一章ずつ読み上げるというくだりがよく行われる。通し番号で私は三番だから、一人目が読んでいる間、私は自分に割り振られる三節目を黙読していた。


「今日も新居は休みか。じゃあ次、池高」


 思考が停止した。それでも私は最初の言葉をなんとか口に出して、この瞬間、割り振られた新しい文に神経を集中させる。ぶわりと背中に嫌な汗をかいて、シャツの中が蒸し暑くなった。泣き出しそうなのを、教室の誰かに悟られていないか心配で、さらに汗が滲んだ。


 私はまだ、周が学校に来なくなったことを、感覚として受け取れていなかった。受け取れないまま、十日の月日が経っていた。


 小山さんは自殺を宣言して、その主語に「わたしたち」という言葉を選び、同時に周も学校に来なくなった。現象は言葉としてのみ存在し、感情的な理解には至らない。周が死んでしまうかもしれないという予定調和から外れた可能性は、私を選択の義務から遠ざける。


「ねえ、アイツと別れたって、本当?」


 突然、成美が言った。この日の部活で、私は、成美とペアで柔軟をしていた。アイツ、と私は繰り返す。たしか、成美は周と同じ中学だと言っていた。彼女も同級生の死を経験した者の一人なのだと、唐突に気づいた。


「うん、なんか、別れた。結構前の話だけど」

「え、なんで?」

「えーなんでだろう」


「成美はデリカシーがない」、隣から朋海の声が割り込んできた。「そうだそうだー」、千歳が続けて野次を入れる。成美は「うっさい」と言って眉間に皺を寄せるけど、一年近い付き合いを持つ私たちは、彼女が冗談で怒った顔をするのだと知っている。


「アイツのこと殴っといてあげようか?」

「えー」

「はっきりさせないと思い上がるんだよ、ああいうのは」


 私は笑っていた。好きな人が死んでいるかもしれないのに笑う余裕があった。成美は里緒ちゃんが小山さんに殺されたとき、上手く泣けただろうか。


 大切な人がいなくなったときに泣けるのは、多くの人から愛され続けた人間だけなのだと思う。私はたった一人の大切な人がいなくなって、拠り所のない、果てしない絶望を感じている。絶望はあまりにも非現実的すぎて、寝る前の、ふかふかのベッドのなかでだけ私は頭を真っ白にした。


 帰り道、朋海がこっそり私に「周、生きてるかな」と言った。私たちは何か言葉を交わして、最後は「まあ話くらいなら聞くから」という朋海の言葉で会話は終了した。家に帰っても、自分が何を話したか思い出せなかった。


 周と一緒に人生を終えられる、小山有紀が羨ましい。


 最初はいい子に見えたと千歳は言っていた。それは私も同じで、それはクラスの共通認識だった。小山さんならあのまま上手くやっていけたはずだった。


 彼女は、自ら罪を告白した。


 今年のテニス部の一年生は六人だけで、例年よりかなり少なかった。来年度の入部者がさらに少なければ部の存続が危ぶまれる。だから、小山さんがやってきて一週間が経ったその日、朋海と千歳と一緒に、小山さんを誘いにいった。


「ねえ、部活、入らんの?」


 小山さんは結香ちゃんたちとよく行動していたので、一人になるタイミングを探すのが難しかった。その日は小山さんだけ選択の違う授業があったため、女子更衣室として使われている空き教室で、運よく彼女を捕まえることができた。


「部活?」


 小山さんは下着だけの格好で振り返った。肌は白い下着から落差がないほど透き通っている。少し見入ってしまって、ほぼ初対面で凝視するのは失礼だと思い至り、そっと視線を逸らした。


 千歳相手だったら、おばさんみたいな下着とか言い合える。朋海はたまにレースの赤いやつを着けてくるから、そのたびに二人でからかった。今日は黒いキャミソールだった。


「そうそう、何か考えてるんかなーって」


 千歳は演技というものが下手、というか演技をする必要はないのだけれど、何か、もっと上手いやり方があったのではないかと思う。これでは私たちが部活に引き入れるという下心を丸出しにしているみたいだ。


「特に考えてないかなあ」


 小山さんはやけに間延びした話し方をする。癒しのようにも、マイペースすぎるようにも感じた。独特なテンポを持っているのは千歳も同じで、話は突然「え、そのキーホルダーあれじゃん!」という千歳の言葉をきっかけに、まったく関係のない方向へ走っていった。五時間目の体育に備えて着替えを終えた私たちは、四人で並んで教室に戻った。


 普段は滑らかな空気の表面は、人の匂いと音でまみれた昼休みの間だけ錆び付いて、皮膚に摩擦を与える。彼女を部活に誘えないまま時間は過ぎて、話の輪は、結香ちゃんたちのグループを含めた壮大なものへと発展した。


 話は結香ちゃんがハマっている男性アイドルグループが主だった。私が結香ちゃんとの間に持つ繋がりは、同じアイドルを愛して止まない千歳の友達、という程度でしかない。


 昼休みが終了に近づき、次の授業に備えた生徒がぽつぽつと姿を消すなか、突然「あっ!」と千歳が言った。


「小山さあ、テニス部入らん? 女テニの命がかかってるんよー」


 脈絡も前振りも、何もかもをすっ飛ばしたので、私と朋海は声を上げて笑った。千歳の自分本位にも見える独特なペースは、彼女の明るい性格がカバーしているから、羨ましい。


 話を遮られた結香ちゃんが不快そうにしていないか気になって、視線を送ってみるけど彼女も噴き出したように笑っているから安心する。千歳の無邪気な自分勝手さは見ていてハラハラさせられるものの、結香ちゃんはその無邪気さをよく許していた。


 小山さんは目を瞬かせたあと、少し気まずそうに、「部活はいいかな」と笑った。


「あ、そっか……。部活中だったもんね」


 誰が口にしたのか、声が充満したこの教室ではわからなかった。


 殺人事件が起こったのは部活の時間だったと聞いた。当時、近隣の中学は二週間ほど部活が中止になり、それは私の中学も例外ではなかった。そのころ私は素直に知人の死を怖がり、一時期、部活に行けなくなった。母は「これだから公立は」と言い、停止期間が終わると、普通に私を部活に行かせた。


 殺人犯については様々な憶測がされていた。犯人は被害者の恋人とか実は秘密機関に雇われた殺し屋とか。大勢は事件を怖がって、一部は事件を面白がった。


 部活に入ることがトラウマになってもおかしくない、と私を含むその場の誰もが思った。


「あんな怖いことあったら仕方ないね。思い出させちゃってごめん」


 朋海の言葉に、小山さんは小さく俯いた。それから顔を上げて、ふにゃりと笑う。


「アレ、殺したの私だから」


 がたん、と音が鳴ってから彼女が席を立ったのだと気づいた。その場にいるみんなが呆けた顔をしていた。小山さんは振り返って、「カッターで」といういらない付け足しをした。


 彼女が罪を告白する直前の笑顔を、あとからみんなは「不気味」と言った。どうして気づかないのだろう、と思う。あれは間違いなく、恐怖に歪んだ顔だった。


 言葉の真偽にかかわらず、あの一言だけで小山さんは殺人犯になった。


 わざわざ殺人犯を自称するメリットはないし、嘘だとしても不謹慎すぎるから、どちらにせよ彼女はこのクラスの敵である。


 それが結香ちゃんを始めとした女子たちの共通認識だった。彼女の奇妙な編入時期やぼかされた理由も、彼女が犯人だという説を後押しした。


 小山さんは実際にあの事件の犯人で、あの告白はきっと、自分の犯した罪を償うためのものだった。そのことに私だけが気づいていた。司法ではなく、その外側にある人と人との関わり合いのなかで、彼女は罰せられたかったのかもしれない。


 小山有紀は、人を殺したことを後悔している。


 彼女は猟奇的な殺人鬼なんかではない。ただの、自分の価値で自分を定められなかっただけの女の子だ。


 彼女が決めた自殺という結末は、自分に与える最終的な罰でもあるのかもしれなかった。


 私は人を殺す閾値が少し高かっただけで、本質的には小山さんと同じなのかもしれない。


 小山さんの目的が自分を罰することなら、周はどういう理由で自殺しようとしているのだろう。周の内面を私は知らない。すれ違ってばかりだった。


 私には知らないことばかりだった。今まで、わからないことはわからないままにして逃げていた。何ごとにおいても私は、もっと、自分の手で真実を追い求める必要があったのかもしれない。


 文化祭の日の、「なんで私に何も話してくれないの」という言葉はフェアじゃなかった。周を探さなければならない。


 まず私は、周のことを知る必要があった。


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