6-5「昨日のことは全部、幻だったのかもしれない」

 何か恐ろしいことが起こった気がして目を開いたとき、唐突に、心のなかに原因不明の喪失感が広がった。天井にはぼんやりと照明の輪郭が浮かんでいる。どうしようもなく恐ろしい闇のなかに私はいた。


 夢の中の光景が鮮明に蘇る。私は周の胸に包丁を刺した。肌の破れる音と骨の硬い感覚が、やけにリアルだった。


 周に連絡しようと思って手に取ったスマートフォンは三月七日の午前三時を示している。


 あ、別れたんだっけと唐突に思い出した。まだ思考が朦朧としている。


 夢から覚めたばかりのとき、心は空っぽになっていると思う。いや、空っぽというより、虚無という感情に飲み込まれそうになっている。


 深夜に起きて眺めるこの部屋は、いつもより冷たい空気をしている。窓から差し込む月明かり自体が冷感を帯びていて、部屋をいっそう寂しく見せている。寝起きの覚束ない視界でしばらく雲の流れを追っているとき、光が差し込んで、ヘッドライトの光が天井を泳いでいった。


 不安と焦燥のアラームが心臓を大きく動かしていた。早く誰かに心を触れさせないと、このまま闇に飲み込まれてしまう気がした。最後のやりとりは文化祭の日で、私が送った『教室の前にいるよー!』の下に、既読の二文字がぶら下がっている。


『今からでもやり直さない?』『生きてる?』『今、どこにいるの?』打ち込んだメッセージを消していく。間違えて送信してしまったらと考えると、変な緊張があった。消した文字を頭のなかで順に再生してから疑問文ばかりだったことに気づき、まずは質問から始めないといけないことが、私と周の距離を表していて悲しくなった。


 インスタグラムを開いて同級生の投稿にハートを押していると、千歳がオンラインになっていることに気づいた。アイドルオタクの彼女は、いつも遅い時間までネット上の知り合いとやりとりをしている。すぐさまチャットアプリを起動し、千歳とのトーク画面を開いた。


 通話をかけようとして、それはやめた。


『ちとちゃ~ん』


 返事はすぐに来た。『おうおう』、『どうしたどうした』順番に現われた吹き出しに、なぜか、涙が出そうになる。夜は精神が弱くなるから、人間はその時間に眠ることで絶望を誤魔化してきたのかもしれない。


 衝動的にメッセージを送ってしまったものの、特に用件があったわけではないから困った。『寝れない』と言うと、『わか』と返ってきた。わかる、という意味だと思う。彼女は現実でも画面でも、いつも同じように喋る。


 私の悩みを真摯に聞いてくれる朋海ではなく、たまに、千歳の明るすぎる空気に救われることがある。


『ちとちゃんいつも起きてんじゃん』『私とて寝ようとはしているが?』『うそだ』『はあ~? まあオタクどもがおもしろすぎんのが悪いね、これは』『ちとちゃん~ 寝かしつけてよ~』たん、たん。人差し指の、スマートフォンの画面を叩く音が部屋で無機質に鳴る。電波のやりとりで私たちは簡単に繋がれるのに、周との距離は遠い。


 少しの間が空いたあと、『泣くなよ』と文脈に関係ない言葉が来て、すぐに送信が取り消された。言及しないのも違う気がして、『??』私は私らしい返事をする。『いやミスった』『もしかして ちとちゃん、私以外とも連絡してるな?』『咲のメンヘラは需要ありそうだな』えー、と声が漏れた。


 千歳はもしかしたら、画面の先にいる私に気づいているのかもしれない。そんな私を慰めるために何を送ろうか考えて、結局やめることにした。私以外も自分の役割を全うしようとする人がいるように感じた。


 尿意を感じたので、千歳とのトークを一旦閉じ、ベッドを這い出た。仰向けの体勢に馴染んでいた身体は、重い。立ち上がったときに頭が少し痛んで、あ、明日は雨だ、と思った。いや、日付が変わったからもう、今日だ。


 偏頭痛で、ある程度次の日の天気を予測することができる。むしろ、そこらの天気予報よりも精度がいい自信があった。


 トイレの電気を点けて扉を開けたとき、あまりの眩しさに足元が不安定になった。スリッパに足を通し、腰を下ろす。手持ちぶさたを感じて、携帯を持って来なかったことを後悔した。


 用を足したあとは喉の渇きを感じて、リビングに向かった。冷たい水を飲んではお腹を壊す可能性があるから、マグカップに水道水を汲んで、すこし電子レンジで温めよう。


 考えながら扉を開けたとき、真っ暗なダイニングテーブルに人影があって、心臓が跳ねた。どろりとした母の目と、視線が交わる。


「え、なに、してるの」

「お父さんと離婚することになったわ」


 そうなったことは知っているが、直接言われたのは初めてだった。それより、母が真っ暗なリビングで座っている衝撃のほうが強かった。


「どっちにつくの」

「どっち」

「どっちにつくの、って言ってんの」


 言葉は強いのに、声は淡々としていた。表情のどこを見ても影になっていて怖かった。寝室で、千歳が返信を待っている。


「お、お母さん」


 どう答えれば母が喜ぶのかが考えの根底にあった。


 それに身を委ねることは、私が母からたしかに愛情を受けていることの確認でもあった。私はこの人の娘だ。愛情がないなんてことは、ないと思う。


 母は溜息を吐いたあと、「そう」とだけ言った。「嫌だったら、あの」、その先で私の言葉は声にならなかった。


「あの人と決めたのよ。あんたたちの選択を尊重しようって。別にいいわ。早く寝なさい」


 わからない。何もわからなかった。怒っていることはわかっても、何に怒っているのかわからない。おかしいと言われても何がおかしいのかわからない。


 そういう障害を持って生まれた瞬間から母は私を諦めていたのかもしれない。


 生まれ直したい。もう一度母の子宮に戻って、普通の、健全な女の子として生まれ直したい。


 人にとっての当たり前は、私にとっての当たり前じゃない。文脈を読み取ったり、明文化されていない前提を元に言葉を交わしたり、自分ができないことを平気でやってのける人たちを見ると、自分が劣っていることをはっきり思い知らされるときがある。


 振り向きもせずに去っていく母の背を見て私は選択を誤ったのだと知った。死にたくなって、布団のなかで少しだけ泣いた。


 ふと気づいた。周は知っていたのだ。


 周の家に行った日、私は彼に苛立っていた。「どうせ別れる」という言葉に言い返さなかったことではない。あのとき、「家族だからって助け合う必要はない」と言ったことに対してだ。


 私はこんな家族相手でも、家族というかたちを保つために、表面的にでも手を差し伸べてきた。それが私の役割だった。そうしなければ私の存在が危ぶまれるし、内側が壊れていようと、本質的な枠組みが残っていれば擬似的にでも家族を続けられる。居場所は残る。


 あの言葉は私の生き方を否定するものだった。


 しかし、今ならわかる。周は、いくら取り繕ってもどうしようもないものがあることを知っていた。


 私は、外枠だけで中身のない家族がどれほど虚しいものなのか、見ないフリをしていた。


 里緒ちゃんの「家族なのだから仲直りできる」という考えを、私は知らずのうちに盲信していた。

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