6-4「日常で非日常を鍍金している」

 週が明けて月曜日になっても、周は学校に来なかった。


 両親のもつれは口論に発展し、祖母は父を擁護するようになった。家族が家族の形を保つために私がしてきた仕事はすべてが無駄になった。わざわざ私たちがいる場で母がそのことを口にしたのは、父の醜態を見せしめにしたかったからだと思う。


 弁護士とか裁判とか役所とか、複雑な言葉を聞くようになっても生活は大きく変化しなかった。父は仕事に行き、私と奏多はちゃんと登校して、母はパートに出かけた。


 普通の家族の元で、無条件に愛されて美味しい弁当を持たされている朋海と千歳に、私は自分のことを話していない。知らなければいいことはたくさんある。例えばクラスの女子が陰で誠の悪口を言っていることは、三人のなかで私だけが知っていればいいことだった。


「うぜー。アイツ、ヒーローとかに憧れてんのかな」

「戦隊ものとか未だに録画して見てそう」

「わかる! 朋海もよくあんなのと付き合えるよね! あんなネチネチした男なんて無理」

「顔だけで選んだんだよ絶対」


 吐き出された言葉は私がすべて、酸素と一緒に取り込んだ。


 部活が終わって朋海たちに別れを告げたあと、普段なら図書室へ向かうところだったが、この日はそのまま学校を出た。閉塞感のある図書室は好きだけど、今はそんな気分ではない。


 私は小説というものが嫌いだった。主人公が不幸の底にいて、死を望み、逃避行に出たとしても、残りのページ数で主人公が助かってしまうことがわかる。そういう場合は大抵希望を見つけて終わるから、私はよく絶望的な場面で読むのを止めた。


 この世界で最も不幸な人間は、一体どんな悩みを抱えているのだろう。少なくとも自分を不幸と思い込み、そうすることで呼吸をしている私は最も不幸な人間ではない。死を望んでも、そうする勇気が私にはなかった。死ぬことで救われるのか、確信がない。


 昔から、人の痛みが心に入り込んでくるようなことがあった。皺にまみれたおばあちゃんが孫のために生活費を捻出し、お小遣いをあげている姿を見ると心を握りつぶされたようになる。孫は、おばあちゃんを生活の一部にも思っていないかもしれないのに。


 人が人に与える思いと、それを無下にする存在がいるかもしれないことが、怖くて仕方がなかった。


 母の痛みも同様で、信じていたはずの父に裏切られた痛みは私にも憂鬱を与えた。表情が、言葉の僅かな震えが、私にその感情を想像させる。勝手なイメージに共感しているだけだとわかっていた。それでも心は私のコントロール下にない。


 小山さんは自殺するのかもしれなかった。彼女は何も言わないから、その痛みがよくわからない。もし彼女と仲よくなって、苦しみから自殺に至るまでのことを聞けば、私は、同様に死を選ぶことができただろうか。


 憂鬱の終着点がほしかった。死ぬことに希望があるという、確信がほしかった。


 気づけば私は、見覚えのある場所に立っていた。周と付き合ったばかりのころ、ここで猫に餌をあげたことがある。今は猫の餌なんて持ち歩いていない。


 それは私が自分を決定づけるために取った行動のひとつだった。私というキャラクターを形成することで、自分という存在をもっと上手く捉えようとした。


 結局、夏が終わるころ、猫の餌が入っていた場所は化粧ポーチ入れになった。


 周の心を押し留めるような笑顔は腹立たしいけど、見るたび、心が痛かった。彼の心の奥底にある痛みを聞かされたわけではないけど、笑顔の裏には天文学的な量の悲しみが隠れていた。


 その日、周は自転車を引いていたので、手は繋げなかった。鋭い陽射しによる高い体感温度のせいで腕を組むのも何か違う気がして、寂しくなった手が宙ぶらりんになっている。周は「文化祭、サボろうかな」と言った。


「えーっ、来ないの?」

「いや、夏休みの話。準備あるじゃん」

「結構参加するみたいだよ。私も全部行くつもりだし」

「え、そうなの?」


「そうだよー」と私は答えて、熱に浮かされているのが自分でもわかった。話は周がホームルーム中に寝ていることに移って、結局参加するかどうかに戻ったころ、ベンチの下に野良猫を見つけて、話が途切れた。


 私が餌を差し出すと、最初は警戒していたものの、猫は次第にのそのそと動き出した。地面に撒くのは違う気がして下敷きにしたのは、母に渡すつもりのない公開授業の配布物だった。


 猫に餌を与えるというこの行為は、決して意味のない行動ではなく、猫のためであり、周との時間を維持するためでもある。私のためではない。それを再確認して、私はようやく安心する。


 私は自分の人生でさえ主人公にはなれない。


「さっきまで警戒してたのに。ずるい猫だ」

「でも可愛いからいいんだよ」


 ベンチに鳩が止まって、それに驚いたところを周に馬鹿にされた。その笑顔を見て、私も笑いが零れてしまう。周は心から笑うとき、作り笑いよりも少し目を細めて、照れたみたいに笑う。普段とは違うその笑顔が私は好きだった。


 自分のために生きることは限りなく難しい。誰かのため、将来のため。意味のない行動をしている自分はどうしようもなくて、だからこそ周のためだと思えば私は自分のどんな行動も許すことができた。


「周は人を殺したいって思ったこと、ある?」


 水族館での問いを、私は再び口にした。周は黙って首を横に振った。


「私が殺したいのはお母さんじゃないよ。私が殺したいのは――」


 結局私はその続きを話さなかった。周もそれ以上追求しなかった。


 彼に対して最初に抱いた苛立ちは、同族嫌悪だったのだと思う。人に心を開くことはなく、上辺だけの笑顔で人に接する。私が嫌いだったのは自分自身だった。だから彼が自殺するかもしれないと気づいたとき、自分を重ね、周に答えを望んだ。


 私が殺したかったのは母でも里緒ちゃんでもない。私はずっと、周を殺したかった。愛情と殺意は共存する。それは、好きな相手に自分を投影して見るという、自己愛にも似た人間の性質によるものだった。


 私たちは高架沿いをゆっくり歩いて、人目のない場所で唇を重ねた。初めてを捧げたときは気にならなかったのに、汗のにおいはしないか、変な顔をしていないか、心配になった。でも、こうして触れた唇のおかげで、数日はまともな呼吸ができる自信があった。


 思い出はすべて輝いて見えた。記憶に残るどの場面を切り取っても、眩しい。


 私たちは結局腕を組んで歩き、来た道を引き返して、駅前で別れた。周は自転車で私から遠ざかり、一度だけ振り返ったので、私は嬉しくなって大きく手を振った。


 電車の激しい騒音で、私は思い出の世界から引っ張り出された。目の前の街灯は、電球が切れかかっているのか、薄く点滅を繰り返している。


 周を止めに行こうにも、恋人という肩書きを失った自分に、そんな資格はない。命がかかった大切な場面でも、私は他人からの視線を気にしていた。今さら彼を止めに行って、周に失望の視線を向けられるのが怖い。これ以上嫌われるくらいなら、この関係のまま、綺麗な思い出だけを抱えて死んでほしかった。


 空は暗くなっていた。辺りに街灯は少ない。唐突にどうしようもないくらいぐちゃぐちゃになってみたくて、街灯の少ない道を選び、ゆっくりと家を目指した。


 例えばここで不審者に犯されて無惨に殺されても、母が心配してくれるならそれでよかった。ざまあみろと思いながら、外的な要因で私は死にたかった。


 不幸を望んだとき、思いどおりの不幸がやってくることはないから、人生はままならないと思う。母は、「こんなときに遅くまで何やってたの!」と私に怒鳴った。「こんなとき」を作ったのが自分たちだということに、母は気づいていないのかもしれない。

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