6-3「重たい血と離婚届」

「さっきの道、右じゃないの?」


 母がすこし棘を帯びた声で言って、私はすこし、どきっとする。「ああ、本当だ」、父が呑気な声で言った。


「本当だ、じゃないよ。間に合うの? お義母さんが店、予約してくれてるんでしょ」

「だったらちゃんとナビやってくれよ、助手席にいるんだから。俺、運転してんの」


 父が放った言葉の、「運転してんの」の部分が余韻としていつまでも車内に残った。


 空気が薄くなり、私は無意識のうちに呼吸を止めていた。「はあい」母がわざと子どもっぽい返事をしたとき、車内は完全に真空になった。ふやけた海苔は、いつまでの口のなかに貼り付いている。


 奏多は変わらずゲーム音を垂れ流していた。それに誰かが反応するのではないかと気が気でない。


 母が持つ不倫に対する苛立ちは、本来の形を取らないまま、別の怒りとして爆発する。父はハンドルを握ったまま、母がどうして小さなことで怒るのかわかっていない。


 スカートの生地が太股の裏で重なっていて、それを直した拍子に、どろりと血が排出された。そろそろナプキンの許容量を超えるころだと思う。トイレに行きたい。その一言は口のなかで消えた。このままではシートを汚してしまいそうだった。


 ティッシュを引き抜き、鼻をかむフリをしたあと、こっそりとスカートの中に忍ばせた。一部の粘り気を帯びた血は吸収されず、ティッシュの上に乗っただけになる。それでも、当分はこれでやり過ごすことができそうだった。


 朋海と千歳は福島を田舎と思っているようだけど、祖母が住んでいるいわきという場所は、私たちが住んでいる街と大きな違いはない。道路はきちんと整備されているし、駅前には巨大な商業施設があるし、コンビニだってたくさんある。


 間もなく到着した祖母の家は去年から何も変わっていなかった。祖母が老けたのかどうかも、わからない。


 私たちを居間に通すと、祖母は「ちゃんとごはん食べてるの」、と言った。そして私が予期していたとおり、彼女の視線は母へと移動していく。「食べてるよ」と答えると、祖母は冷蔵庫から四つ組みのヨーグルトを取り出し、奏多と私の前に一つずつ置いた。「ありがとう」は私だけが言った。


 腰が悪い祖母のために、居間と寝室は襖二枚だけで繋がれていて、私たちが来ているとき、襖はだいたい開放されている。寝室の端っこ、仏壇のなかで祖父が笑っていた。祖父は私が三歳のころ、奏多が生まれる直前に病気で亡くなったらしい。写真は私の記憶にあるよりもずっと老けているから不思議だ。


 テーブルの上にはヨーグルトと煎餅、お茶、それからみかんが大量に並べられていた。父の前にはみかんの皮が三枚重なっていて、母の前には何もない。


「若いんだからたくさん食べさせてあげなきゃダメよ」


 祖母の言葉に、母は「そうですね」と気まずそうに笑った。


 給湯器が悲鳴のような音を立てている。その横には昨日の日付の新聞が置いてあって、本来であれば書評が載っている部分に、切り取られた形跡があった。


 祖母の家は独特な匂いがする。古民家に住んでいるわけでも、お香を焚いているわけでもない。そこは父より少し年齢を重ねただけの一軒家であるはずなのに、ちゃんと年寄りっぽい家の匂いがする。


 祖母の家で、母の背中は小さかった。この一軒家のなかで、私は私の使命を全うする必要がある。


 おかしい、とわかっていた。


 不倫に手を染めた父も、それを知っていながら黙っている私も、もしかしたら気づいているかもしれない母も、みんな狂っていた。弟だけは狂人に囲まれた一般人で、普通らしい人生を歩んでいる。


 私はこの家族のために、彼らの関係をフラットに保つ潤滑剤としての役割を全うしてきた。家族だからって助け合う必要はない。周はそう言ったが、私たちが家族として生まれてしまったからには、助け合わなければならなかった。


「十八時からあそこのお寿司、予約してるのよ」


 背中の小さい母を可哀相だと思っている。自分より立場の低い母を見ている間は、母を可哀相だと思う余裕がある。


 母は、素直になりきれなかったのだと思う。不倫した父が、いつかは結局自分の元に戻ってくるというプライドを捨てきれないまま引き返せないところまで来てしまった。


 だから私は、母のストレスのはけ口としてこの家族に必要な存在だった。家族を平穏に導いて、形だけでも崩れないよう、言葉を、行動を紡いでいく必要があった。


 父の前にあったみかんの皮の、端っこのほうが乾いてきている。私は祖母の話を聞きながら、それとなく母を肯定しようとしている。奏多はゲーム音をミュートにしているが、それでもボタンやスティックを弾く音がうるさい。父は昨日の日付の新聞を読んでいた。母は祖母の皮肉に中身のない相槌を打っている。外食の時間はなかなかこない。息を呑んだとき、十七時を知らせる鐘が鳴った。


 話の途中、スマートフォンがメッセージを通知した。授業中に隠れて携帯を触るみたいに、祖母に気づかれないよう膝の上で画面を操作する。送り主は千歳だった。


 メッセージは朋海を含む三人のグループに送られていて、『駅で小山見かけた』、続けて表示された写真には、たしかに小山さんらしき女性の後ろ姿が写っていた。無難な返事を考えている間に『とりあえず生きててよかった』と朋海が返事をして、私はすこし、戸惑う。『通報とかしたほうがいいんかな』、千歳が神妙そうに、絵文字を使わずに言った。


 小山さんが生きているということは周も生きているということで、生きているということはこの先自殺するのかもしれなかった。


 私が返信に迷って、数分後に『うん、とりあえずよかった』と絵文字なしで送ったころ、テーブルから会話はなくなっていた。がちゃん、音が聞こえたと思えば、祖母は居間からいなくなっていた。


「あんた、やめなよ」


 母はじっと私を睨んで、呆れた、みたいに言った。私は両手でスマートフォンを握る。言葉は胃液でどろどろに溶かされて、素直な私の謝罪が部屋に悲しく響く。


 文脈。母が怒っていることはわかるのに、どうして怒っているのかがわからない。私の記憶と一致しない。


 帰ってきた祖母はのんびりとした動きで椅子に腰掛けると、「せっかくいい高校行ったんだから、もちろん大学行くんでしょ?」から会話を再開した。


「うーん、どうだろう」


 ここで母を見たら当てつけのように思われることはわかっているから、自分の意思で迷っている、という私を演じた。祖母の言葉は冷たく響く。矛先は私ではない。だから私は潤滑剤になりきるしかない。


 自分のために生きるには、ある種の才能が必要だと思う。私は、自分のために生きている自分が許せない。そうすることは罪で、存在の否定だった。


 周との交際はそういった意識への処方箋のようなものだった。彼からの別れを素直に受け入れたのは、周が私への気持ちを失えば、彼のための行動という大義名分を失ってしまうからだった。


 自分のために周の人生を消費する私を、私は許せない。


 小山さんが里緒ちゃんを殺したと知ったとき、最初に、羨ましいと思った。自分のために誰かの人生を壊すことができる彼女は素晴らしい。それほど自分の価値を高めるには、どれだけ自己肯定を積み上げればいいのだろう。


「大学には行かせられません」


 母が言い切ったのが意外だった。つい視線が隣へ流れる。はっきりものを言ったのが珍しかったせいか、奏多を除いたみんなが母に注目した。


「あんたね、親なら娘の選択を――」

「お義母さん。あなたの息子は不倫しています」


 え、と声が出た。奏多はその瞬間に勢いよく母のほうを向いたから、話だけは聞いていたのだと知った。私の視線は祖母と父の間を行ったり来たりしている。父は口を開けたまま、死んだ魚のようになっていた。


「お前、何言って――」


 父の声を久しぶりに聞いたような気がした。私は唐突にナプキンを換え忘れたことを思い出し、ティッシュを取るのも場を壊す行為のように思えて、直接スカートに手を突っ込んだ。


 脚の付け根にぬるりとした感触があって、気持ちが悪かった。その半固形物と液体を手で押し留めている間、その場の空気は気にならなかった。


 母がきちんと離婚届を持ってきていることが、なんだかおもしろかった。


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