6-2「生ぬるい暖房の空気」

 車は空気を切り裂いて走っていた。母が「おにぎり何食べる」と助手席から訊いてきて、奏多かなたが「何があんの」と抑揚を付けずに返す。しゃけ、しおむすび、あとはまぜごはん。母が言い終わる前に奏多は「一種類ずつ」と食べ盛りの中学生らしい注文をした。答えなかった私の元にはしおむすびとしゃけがやってきた。


 母の手に結婚指輪がないのが気になった。


 年始は父の仕事が忙しかったため、年明けから三ヶ月が経ったこの日、父方の祖母に会いに行くことになっていた。祖母がみんなに会いたいと言うので、私は部活を休ませてもらっている。福島までは遠いようで、近い。


 高速道路に入って二時間が経つころには車内から言葉が消えた。余計に静まり返っているように感じるのは耳を塞ぐように響く騒音と、言葉を発しない母のせいだった。父の実家に行く憂鬱さが母にはあって、自然と言葉を吐き出せなくなっているのかもしれない。


 ぴ、ぴ、ぴ。考えごとの世界に浸りたいのに、奏多から放たれるゲーム音に邪魔される。音を小さくしてほしい。たったそれだけのことを言い出せない。父と母が一番強くて、中学受験に成功した弟が二番だった。いや、父と母に関しては、不倫の事実を掴んでいるぶん、母のほうが優位なのかもしれない。


 どちらにせよ、難関高校に受からず地元の公立に通う私が最後だった。


 私はおにぎりを手に持ったまま、外の景色を眺めてみる。小さいころ、頭のなかで作ったオリジナルキャラクターに、すれ違う車たちの上をジャンプさせて遊んでいた。四本脚のうさぎは器用に屋根と屋根を飛び移り、ときどき車高の高いトラックで躓く。それでもうさぎはスピードを取り戻し、私の車に併走する。


 奏多はおにぎりを一口囓ると、「冷た」と言った。食事のために中断したのか、ゲーム音はしなくなっていた。「いらないなら食べなくていいけど」、母の声がして、あ、これはまずいやつだ、と思った。


 私は急いでおにぎりのラップを剥き、口のなかに押し込んだ。ねっとりと絡みついてくる米が、気持ち悪い。家族で食事を摂るのは久しぶりだな、と思った。


 家族団欒の時間からずらして帰るのが私の日課になっていた。母はよく「これだから公立は」と悪態を吐くけど、部活が長引くというのは私の嘘だ。難関私立至上主義の母に、私の嘘は見破られない。


 奏多は黙っておにぎりを食べている。知らないくせに、と思った。しぶしぶでも食卓に座ることができるくせに、文句を言うな。


 ラップ掛けされて冷蔵庫で眠った料理は、電子レンジで温めると温度にムラができる。鉄板のように熱い肉と、氷のように冷たいピーマンがひとつの皿に共存している。それらをべたついたご飯でかき込むとき、私は世界で最も惨めな気持ちになった。


 奏多も咲も、いらないなら返して。そう言って関係ない私まで食糧を奪われるというイベントは、この日、起こらなかった。私は馬鹿みたいにおにぎりを詰め込んだだけになった。


 どうしようもない気分のときに握りしめるアクリル製のチャームはもう付いていない。とはいえ、なくなってからも、鞄のチャックを閉めるときに巻き込まないよう意識する習慣として私の日常に残った。


 小学生のころは、毎年夏休みにおばあちゃんの家を訪れていた。そのときも車内の空気はピリピリとしていて、今考えてみれば、なぜまだ離婚していないのか不思議だった。


 里緒ちゃんは同い年の女の子で、私と同様に親の里帰りに同行していた。


 長期休暇ということもあって、当時は一週間以上滞在するのが当たり前だった。里緒ちゃんは数十メートル先の一軒家に滞在していた。


 家での居心地が悪い私にとって、里緒ちゃんと遊ぶ時間は天から与えられた救済のようだった。同い年ということもあって私たちは出会ってすぐに仲良くなり、住んでいる場所が隣の市だと知ったとき、二人ではしゃいだことをよく覚えている。


 里緒ちゃんは優しくて、賢かった。そして何より、理想的な家族がいた。


 出会った数日が経ったとき、里緒ちゃんが家を訪ねてきたことがあった。私は家には来ないように言っていたのだが、彼女は私の注意をそれほど深刻に受け止めていなかったらしい。


 おそらく、母は昼の間に私が不在だったことには気づいていたと思う。しかしその日はちょうど機嫌が悪かったらしい。それに、遊ぼうとする私を実際に見かけてしまったから、母は「頭の出来が悪い癖に勉強もせず遊び歩いてるんじゃない」と怒鳴らざるを得なかった。


 里緒ちゃんに家のことを説明しても理解してもらえなかった。それどころか、仲直りができて当然だと思い込んでいた。私は、住んでいる世界ごと違うのに踏み込んでくる里緒ちゃんを疎ましく思うようになった。


「ね、帰ったら一緒に遊ぼうよ!」


 私が帰る日、里緒ちゃんが目を輝かせて言った。そのとき私は携帯を持っていなかったので、話し合いの結果、地元で出会ったときの目印となるものを買うことになった。


 私たちは近くのイオンモールで、それぞれの名前が入ったアクリル製のチャームを買い、交換した。


 中学に上がってから、一度だけ、地元の電車で里緒ちゃんを見かけたことがある。チャームがバッグにぶら下がっていたからすぐにわかった。


 彼女の泣き出しそうな表情を見て異変に気づいた。満員の車内で、彼女のスカートが不自然にめくれている。後ろに立つ男性はなんでもないように、それでいて手だけは熱心に動かしていた。


 見なかったフリをした。もちろん私はチャームを付けていなかった。里緒ちゃんに、絶対に抗えない不幸があるということを、身をもって体感してもらういい機会だと思った。


 突然里緒ちゃんが振り返って、しっかりと目が合った瞬間、背中に冷たい汗が流れた。逃げるように電車を降りるとき、脚には重たい感情が複雑に絡みついていて、私はそのときになってようやく自分が里緒ちゃんを嫌っていたことを知った。


 大体のことは思い通りになると信じて止まない、ある意味で不可侵な眼差しが嫌いだった。


 当時の母は今よりも厳しくて、私が何か失敗するたびにキツく当たった。だから、なんの障害もなく、輝かしい目をして生きている里緒ちゃんと一緒にいると、自分が惨めな存在だと思い知らされる。


 その後は彼女に再会するなんていう偶然が起こることもなく、次に彼女の名前を聞いたのは朝の報道番組だった。


 彼女が死んだあと、私は形見のようにチャームを付けるようになった。根元から切れてなくなったのは、人ならざる存在が下した、私への罰なのだと思う。


「母さん、お茶ある?」


 奏多の声でハッと我に返ったとき、車内の空気はほんの少しだけ弛緩していた。


「お姉ちゃんに取ってもらいなさいよ」


 奏多のおにぎりを見て、丸くなったな、と思う。


 今朝、母と準備していたときはもっと角張っていたし、海苔もあんなにふやけていなかった。何ごとも時間が経つにつれて角が取れ、直接誰かを傷つける機会は減っていくのだと思う。


 私の家族は、壊れていた。一言も発さずにハンドルを握る父も、溜息を吐いてお茶を取り出す母も、狂っていた。

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