第6章『君のすべてはわからないけど。』
6-1「私の祈りと懺悔」
* * * * *
大人が嫌いと言ったら、「あんただってもう大人じゃん」と返ってきた。「えーそうかな」、と私は返事をする。朋海は色とりどりの弁当からミニトマトをつまむと、「誕生日、何ほしい?」、明るい声で言った。
私はいつ自分が大人になったのか、わからない。高校に入学したあの瞬間だったのかもしれないし、周と肌を重ねたあの日だったのかもしれなかった。
私の視線は自分の弁当から、教室前方の入口側、誰も座っていない席へ移る。
小山さんが「君たちは精神病」と宣言した翌日、周は学校に来なかった。授業中、目の前に人が座っていないせいで、私の席からは黒板がよく見える。深い緑色をしたその平面には、黒板消しでは拭いきれない、人の業のようなものが染みついている。
「小山、休みかあ。本当に自殺するんかな」
部活仲間の
たしかにクラスメイトが死ぬのは、なんかいやだ。祟られそう、と不謹慎で心ないことを考えて、死にたくなった。
「なんかアイツ怖かったもん。まあ最初はいい子に見えたんだけどさ」
「ちとちゃんと同じキーホルダー付けてたもんね」
そうそう、と人懐っこい声で言いながら、千歳が鞄に付いたキーホルダーたちをじゃらじゃらと鳴らした。多くがアイドルの顔写真を占めるそのなかに、いくつかサンリオのキャラクターのものがある。
千歳は食べるのが遅い上に会話にも集中してしまうから、彼女の弁当はなかなか減らない。だから私は、どろどろになった白米をそれでも噛んで、千歳に食べるペースを合わせる。朋海はもう弁当を片付け始めていた。一人だけが弁当をつついているより、一人だけが食べ終わっていたほうが、絶対にいい。
結香ちゃんは小山さんが来ていないことに不満を漏らしていた。千歳が肩をすくめて、「やれやれ」みたいな顔をしている。私は二人から顔を見られる位置にいたため、どちらからも好意に受け取れるよう、純粋な同意だけの笑顔を作った。
小山さんの姿がないことに安心しているのは、たぶん、私だけじゃないと思う。彼女が殺人犯であると判明して以来、このクラスには小山さんを擁護してはいけない空気が流れている。
だから彼女がいじめられている間、私は自分の中に眠る罪悪感を抑え続けなければならなかった。
私はできるだけ日常を続けていたかった。何かが欠けたとしても、自分の環境を作る最低限のものが普遍であればそれでいい。
彼女の欠席は今朝のトピックになった。周のことには、誰も触れない。
授業中もクラスに人はいるはずなのに、特に、昼休みはすべての方向から人の気配を強く感じる。前も後ろも、誰も見ない教室の隅でさえも人の呼気に満ちている。近くの席から突然甲高い笑い声が上がって、あまりの鋭さに心臓が悲鳴を漏らした。
千歳が飲み込む最後の一口を見届けてから、私は弁当に残っていた卵焼きをつまんだ。この瞬間まで彼女に合わせていることを悟られないよう、話すことに集中して食べ忘れているみたいに、私は最近話題の動画配信者を語った。
「お手洗い」
会話が切れるタイミングを見計らって立ち上がると、次に朋海が「私も」と言って、それから千歳が「え、待ってじゃあ私も」と続けた。空の弁当箱をしまってから、私たちは席を立った。
教室を出るとき、誠と目が合った。
「よっ」
私の声に気づいた彼は「よう」と手を挙げて言う。彼に声をかけたのは、朋海に話すチャンスを作ってやるためだ。彼女はようやく誠と付き合えたというのに、恥ずかしくてなかなか話すことできずにいるいらしい。我が友達ながら、可愛いやつだ。
当の彼女は誠と目が合うや否や顔を真っ赤にして、控えめに手を挙げる。私に対しては堂々と手を挙げた誠も、今度は控えめに「おう」と目を逸らすから、心のなかで「意気地なし」と悪口を言ってやった。
朋海は可愛い、というか綺麗な顔立ちをしていると思う。誠以外にも、朋海を狙っていた男子を何人か知っている。
千歳は最近、コンタクトに変えたことで垢抜けた。彼女の推しのアイドルが「眼鏡からコンタクトになった人を見ると、ドキッとする」と言っていたらしい。単純すぎる。
でも、外見を整えることは、自分を認めてやるのに最も簡単な手段だと思う。
暖房から送られてくる風は、人間の皮膚を凝縮したような匂いがする。だから教室の外に出たとき、新鮮で透き通った空気のやさしさを感じた。
気温にさえ目を瞑れば、大気は春にぴったりの色をしていた。目に見える色ではない。心に浮かぶ、よく目を凝らさなければ見えない、不安定な色彩がそこら中を漂っている。
最初に周と話したときも、似たような空気をしていた。限りなく薄い桜色の空気は、もしかしたら周のイメージに引きずられているのかもしれない。
入学式の日、扉の前で声をかけたとき、彼は作り物のような喋り方をした。彼の声は、相手が聞き取りやすいよう、計算し尽くされている感じがする。私は動揺を悟られないよう、努めて冷静に笑顔を作った。私たちは互いに名前を伝え合い、偶然にも前後の席だった。
初めて周の笑顔を見たとき、彼とは仲良くなれないなと思った。
あちこちで生まれる会話には前提や文脈というものがあって、人々はそれらを危なげなく感じ取っている。教室の扉に貼り出された座席表も同じで、そこには「出席番号の若い者から前に座る」という前提があった。少し考えればわかりそうなことなのに、私の脳はどうしてもそれらを結びつけられない。情報を集めるため、私は黒目を忙しなく動かす。
女子トイレの扉を開けると、流れで付いてきた千歳を除く私たちは、間をひとつ開けてそれぞれ個室に入った。鍵を閉めて、扉が開かないことを確認する。スカートをたくし上げた瞬間に三人の話し声が入ってきて、緩んでいた尿道がきゅっと引き締まった。
「――だから絶対殺されたんだって」
「いや新居も自殺なんじゃないの。だって小山、『わたしたち』って言ってたし」
「新居は自殺するようなヤツじゃないでしょ。あ、でも、前にあったよね、小山に話しかけてたこと」
「あったあった! え、じゃあほんとに心中なの?」
それまで感じていた尿意は身体の奥へ引っ込み、ぱた、と音がして代わりに垂れたのは血液だった。たしかに今朝から違和感があったような気がする。前回の生理から一ヶ月も経っていたことが信じられなかった。
気づいたそばから内臓の痛みが勢力を増し、しばらく、その体勢から動けなかった。
周と別れてから、時間の流れが早い。便器の側から、糸を引いた血を伝って雑菌が登ってくるような気になり、慌てて腰を浮かせた。
長い間ポケットに入っていたナプキンを使うことにして、尿意は解消されないまま私はしばらく便座に座っていた。使うのは衛生的に心配だが、仕方がない。
あらわになったままの太股が、なんだか無様に見えた。スカートを持ち続けている腕がだんだん痛くなってくる。外に周のことを口にしている人たちがいるせいで、立ち上がって個室を出ることができなかった。私は息を止めて、存在を殺した。
周について「死んだ」と言われた苛立ちより、ここで外に出たらあの子たちは私に接しづらくなる、という考えのほうが強かった。そうして座っている間に脚の間から尿が滴りおちて、情けない音を立てる。
周は死ぬのかもしれない。漠然と、そう思う。思うだけで実感が湧かない。
彼の末路がそのまま私の結末になっている気がする。私は、彼に自分を投影して、人という存在の終わりを見てみたかった。周が私に答えを示してくれるような気がしていた。
入ってきた三人が出ていったあと、私はようやく個室の扉を開けた。朋海は鏡の前でリップを塗っていて、千歳は気まずそうに私を見た。「あ、いやっ」千歳の伸びっぱなしの髪が揺れる。
生成される言葉が私の支配を振り切りそうだったので、首を傾げる程度に留めておいた。
「その、違うって言い返そうとはしたんよ、でも、なんか」
「ん?」
「あ、でも、新居は殺されてないと思う。いや、なんか」
「大丈夫だよ、ちとちゃんは悪くないし」と言って笑うところまでが私の仕事で、私はきちんとその激務をこなした。千歳は「ごめん」と目を逸らして言う。朋海は「アイツら倫理観ないから」と半分だけ笑いながら、鏡越しに私を見た。
千歳が言葉にしなかった部分を、余すことなく、受け取る。
細かな変化をすべて目に焼き付けることこそが、私が普通になるために必要な行動だった。こうして相手を観察し、表情、言葉、状況から相手の意図する文脈を把握する。そんなことばかりしているから人との会話は疲れるけど、それより周囲から浮かないことのほうが大切だった。
あのクラスにはみんななりの正義感があって、たとえば結香ちゃんは小山さんをいじめること、誠は犯罪者が相手でもいじめをやめさせることを正義としていた。クラスの多くは結香ちゃん側につきながらも、人を貶めることに慣れていないのか、心のうちでは葛藤している。
私は周囲の空気に合わせることを正義としていた。結香ちゃんに「小山を殴れ」と命令されたら、きっとそのとおりにする。価値観が外れていると見なされることは、死んだのと同じだった。
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