5-7「記憶の隙間」

「わたしは『未来がなくて自殺した人』にも、『自分の境遇に嫌気が差して自殺した人』にもなりたくない。死んだあとも、勝手な属性を与えられたくない。わたしはわたしだ。何を考えてるかわからない行方不明者、のほうがまだいい。理解した気になられるのは嫌だ」


 墓石が綺麗になると、有紀はスカートが汚れるのも構わない様子でその場に腰を下ろした。地面に汚れたハンカチを置き、丁寧に折り始める。「花」、ぽつりと有紀が言った。


 時間をかけて折られたハンカチは、たしかに花のような形になった。「これなら枯れない」有紀はそう言い、ハンカチを花立ての上に置いた。


 彼女は再び立ち上がると、大きく息を吐き出し、目を閉じて手を合わせた。僕も続いて手を合わせる。視界が薄い赤で覆われている間、様々な音が鮮明に聞こえた。木々は風を受けて互いに擦れ合い、聞いたことのない鳥の声がする。


「墓参りをすることで、死者が報われるようなことはないと思う」


 有紀が唐突に言った。手を合わせたまま目を開き、有紀へ視線を送る。彼女はまだ目を閉じたままだった。


「死は、死だ。でも、こうして形式なことをすることで、意味はなくても、自分の生を再認識するようなことがある」


 均等に並んだ墓からは、不思議なことに、死の雰囲気は一切感じられなかった。墓地というのは生と死の境界が上手く機能していないのかもしれない。


 幽霊などの目に見えないものは、実質的には存在しない。神なんてものもいない。仮に神がいるならば、それは凡人であるに違いなかった。全知全能というのはまったくの嘘だ。完璧な存在であれば、僕のような欠陥品は生まれ得ない。


「もしかしたら、神様は子どもなのかも。世界が完璧じゃない理由にも説明が付くよ」


 振り返ったとき有紀の手はもう身体の両脇でぶら下がっていて、目は開いていた。


 僕が言いたいのはそういうことではなく、目に見えず実証されていないものは結局存在しないのと一緒だから、人が普通に、つまりは精神病患者として生きるためには、目に見える何かを生きる意味に設定する必要がある、ということだった。


「なるほど」


 有紀は身を屈めて、柄杓と桶を手に取った。それから桶の水を、墓石の上から思いっきり流しかける。水が跳ねて、僕のズボンと、有紀のスカートを濡らした。花の形をしたハンカチは水を含んだだけで、その役割を終えることはなかった。


「そうだ。忘れてた」


 有紀はバッグから小さなキーホルダーを外すと、それをハンカチの花の横に置いた。幼児向けのキャラクターがあしらわれた、アクリル製のものだった。


「昔、父にもらったんだ。ああ、これを付けていたことに深い意味はないよ。強いて言えば、自戒だ」


 有紀に続いて歩き出したとき、キーホルダーの金属の部分が太陽光できらりと光った。


「わたしはさっき、君は生きている人間だと言った」


 帰りのバスが来るまではまだ時間があったため、僕たちは死の匂いがしないその敷地内を散策することにした。停留所にあった時刻表は、バスの少ないこの地域に限っては運よくと言うべきか、三十分後を示していた。


「わたしは、この人はただ存在するだけだなって思うことがある。自分とは違った意思を持っていて、思考していることが信じられない」


 有紀の家を訪れた際も、たしか彼女はそのようなことを言っていた。僕は黙って話の続きを待つ。


「わたしにとって他人は、自分の周りに配置された、意思がないただの物のように見える。ちょうど、チェスの駒のように。みんな、わたしに干渉するための役割を与えられ、その役割から外れた行動はできない」


 奥へ進むほど木々の密度が大きくなり、それ以上進めなくなったころ、葉ばかりの天井から降ってきたまばゆい光によって視界が拓けたようになった。目を細め、光の量を調節する。ふと思い出して空を見回してみるが、さきほど見た飛行機雲はどこにも見当たらなかった。


 あの駅で見た飛行機雲は、幻覚、もしくは僕の記憶違いだったのかもしれなかった。有紀と話した記憶も、きっと、実は神なる存在に植え付けられた偽物だ。


「そんな人たちは、小さな箱に閉じこもっているイメージがある。そこから抜け出そうと、考えることすらできない」


 有紀はあの教室で精神病を宣告したとき、みんなに「外側の世界に目を向けていない」と言った。きっとあの言葉は、いま有紀が口にした文章たちの、生まれる前の姿だった。


「でも君は違う。箱を抜け出して、世界の残酷さと自分の力の無さを自覚し、外の世界を知っている。ちゃんと存在を、感じることができる。無機質ではない。……うーん、なんて言えばいいかな」


 人の苦悩の終着点は、死だ。首を吊れば大抵のことは解決する。一般の反応を見ても、死がすべてであることは明らかだ。どんな悩みも世間は「もっと苦しんでいる人がいる」と一蹴するくせに、死の匂いを嗅ぎつけた途端に「なんで話してくれなかったの」「死んじゃダメだよ」なんて平気で口にする。


 有紀の、無機質という言葉が頭に残った。


 ずっと、夢のなかにいるみたいだった。自分の身体が現実に存在しているか、確信が持てない。夢のなかを現実であると信じて疑わないように、いまこの瞬間も夢を見ているのかもしれなかった。


 夢を夢と自覚している間だけ、僕は上手く生きていけた。


 有機的、という言葉が口を衝いた。有紀の言葉を借りるなら、彼女のほうこそ生きている人間だった。人間は無機的で、有紀は有機的だった。


「有機的か。『無機質』の反対なら、そうだね」


 有機的、と有紀はもう一度呟いた。


「たぶん、わたしの中にあるルールとか価値観は、人間というグループにおいて、『異常』という属性に分類されるんだと思う。わたしは人を殺してしまったから。共感して欲しいわけじゃない。わかりあえるはずがないから。だって、例えば目の前で転がってる猫に自分を理解して欲しいなんて本気で思わないでしょ?」


 転がっている猫、という言葉がこちらに気を許して地面に転がる猫を指すのか、それとも死体を指すのか、彼女ならどちらもあり得ると思った。


「わたしと君の間には決定的な違いがある。わたしは人を殺した。君は人を愛することができた。似たような思考回路を持っていても、部品のひとつが大きく違っていたんだ」


 そんなのは些細な違いだと僕は思う。


「わたしもそうであることを願う」


 突然、横掛けのバッグに振動を感じた。スマートフォンが着信を知らせている。バッグを開き、確認した画面には知らない番号が表示されていた。一瞬でも咲を思い浮かべた自分が情けなかった。


「どうしたの?」


 有紀が携帯を覗き込んできて、「お」、と言った。「あっちの市外局番じゃん」彼女の言うとおり、冒頭の三桁は地元の固定電話を表す数字だった。


 相手が諦めたあとに着信履歴から電話番号をコピーし、検索アプリで調べてみる。番号は、地元の警察署のものだった。とうとう母が死んだのかもしれない。どうせこれから死ぬ僕には何も関係がなかった。それを聞いた有紀は「ひどいやつ」と言って笑った。


 バスが来るというので、僕は有紀に続いてくすんだ芝生の地面をひたすらに歩いた。人生最後のイベントは終了し、あとは練炭を炊くだけになっている。


 僕の心は非日常の空気に馴染んでいなかった。僕はちゃんと、死を特別にせず、日常のなかで死ぬことができそうだった。これが里緒への餞別だった。


 バスの最後尾の座席で、有紀は俯いて眠った。


 ぼうっと外を眺めているうちに気づけば僕も眠ってしまいそうになっている。ここで寝てしまえば練炭を炊いてから眠ることができず、一酸化炭素の影響で余計に苦しむことになる。それから、最後の日だから起きていたい気持ちも、ほんの少しあった。


 同時に浮かんだ考えのうち、後者だけを丁寧に切り落とした。


 窓から差し込む光と車内の暖房は上手く混じり合い、その心地よさのせいで意識が外側から押しつぶされそうになっている。思い返してみれば、これまでずっと眠たくて仕方がなかった。


 例えばこれが普通の旅行だったとして、一緒にいるのが誠なら、僕たちはそれぞれ咲と朋海に土産を買って帰ったはずだ。優柔不断な誠は売店で何十分も時間を使い、それでも決めることができず、「帰りまでに考えとく」なんて苦い顔で言う。結局は可もなく不可もない微妙なお菓子を選ぶのだが、渡された朋海は恥じらいながら「なにそれ」と強い口調で言うに違いない。


 何を選んでも僕たちはきっと四人で土産のお菓子を食べた。余った一つはじゃんけんで決めることになって、咲が圧勝し、得意げな笑顔を浮かべる。


 僕は、そういった他愛ない日常を、迷うことなく、ただ普通に受け取れるだけで充分だった。


 普通は、普通だからこそ僕にとってはどうしようもなくて、結局はこうして死を選ぶしかなかった。まどろみのなかで携帯が鳴っていて、着信はきっと咲からだった。

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