5-8「世界は宝石のように輝いている」

 灰色の地面は、濡れているせいで所々が黒っぽい色をしていた。それを見てから初めて、昨日の広島に雨が降ったことを知った。


「明日は晴れるだろうか」


 空はいつもより深い青色をしているように見えた。陽射しは強いが、春の始めという性質と、心地よい風が吹いているおかげであまり気にならない。廃墟までの道は、僕が生きてきた中で、一番過ごしやすい気候をしていた。


「明後日はどうだろう」


 普段は息が詰まるような気分で生きているのに、人の手から離れたこの場所は、生きる上では避けられない人間関係のしがらみから解放されていた。これだけ綺麗な空から、昨日は雨が降っていたなんて信じられない。


 このまま、気の遠くなるほどの時間が経っても、雨が降るとは思えなかった。


「わたしは、ずっと雨が降ればいいと思う」


 僕たちが進む道の両脇には枯れた田んぼ広がっていて、なだらかな斜面の下には白い軽トラックが停まっていた。よく見ると、車体の所々がくすんだ色をしている。


「わたしが死んだあとはずっと雨が降って、みんなみんな、憂鬱な気分になるんだ」


 軽トラックはおそらく、周りが雑多な色をしているせいで、少しくらいくすんでいても気づかれないと思っている。そうでなければ、あれほど堂々としていられない。


「それでも大人たちは仕事に行かなくちゃいけないし、子どもたちは学校でつまらない授業を受け続ける」


 アスファルトの舗装はいつの間にか姿を消し、足元は砂利道になった。砂利は雑草に侵食されている部分があって、足を踏み入れるたび、数匹のバッタが慌てたように飛び跳ねる。


「わたしが死んだところで世界は変わらないし、雨が降ったら数日のうちに太陽がまた顔を出すんだ。わたしたちが死んでも、もしかしたら数日だけニュースになるかもしれないけど、雨が止むより早く忘れられてしまう」


 僕はどうしたかったのだろう。共犯者だった。あのクラスで、健常者を精神病呼ばわりした有紀と同じだった。でも、ひとりでも異変に気づいてくれれば、ちいさな違和感は人から人へ伝染し、世界を狂わせる大きなきっかけになるかもしれない。


「考えていたんだ。ずっと。生きる意味を考えること自体、無駄なんだと思っていた。でも、考えるべきは世界の仕組みとか生態系とか、そういう大きなものでも、自分のなかだけで生きる言い訳に使うようなものでもないんじゃないかって」


 これから死ぬ有紀の、悪あがきだと思った。


 バスに乗っている間、咲から着信があった。たぶん彼女は何かのきっかけで逃避行に気づき、僕を探している。まだ僕のことを考えてくれていることが嬉しくありつつも、すこし、悔しくもある。


 僕には、咲と一緒に幸せになる未来があったのではないか。


 有紀の悪あがきは伝染し、僕の決心を再び揺るがそうとしている。死とは一体なんだろう。里緒の死は一体なんだったのだろう。


「単なるわたしの願望だね、これは」


 いや、有紀の言うことは一理ある。僕たちが欲しかったのは理解者だ。つまり、他人との繋がりと言える。


 僕たちが不自由なく生きるためには、個人で、数少ない人と人との間に残せるようなものが必要だったのではないだろうか。


「人との間に? それは、人を愛する能力があるから言えることだよ」


 有紀は正面を向いたままそう言い、それから寂しそうな笑顔を浮かべた。


 ぽつぽつと点在する民家は、誰かが住んでいるはずなのに、人の気配が全くしなかった。


 次第に両脇の畑は面積を減らし、ついには森と道が隣接するようになった。背の高い木々の葉、一枚一枚に太陽が高い彩度で反射され、視界は幻想的な緑色になっていく。


 私たちはちゃんと生きないといけない、と石橋は言っていた。生きている限り里緒のことを忘れないから、彼女はちゃんと心のなかにいる。里緒の生きた証は残り続ける。綺麗事だ、とそのときは思った。


 咲の着信を受けて、ひとつ、考えたことがあった。


 それは、死を強く意識した瞬間にしか訪れない考え方なのかもしれない。生きる意味という刹那的で使い切りのものではなく、その結果の、生きた証こそが僕たちに必要なものだったのではないだろうか。


「生きた証?」


 仮に意味を見い出すとしたら、生きていること自体はきっとどうでもよくて、その結果として、他人に、何かを残すことこそが生きるのに必要な行為なんじゃないかと僕は思う。


 僕の結論を聞いた有紀の表情が、困惑と絶望、それから少しの希望を含むものに変化した。


「そうか」


 何かを人に与えることができれば、僕の存在は死んだとしてもきっと消えなかった。頭のなかにいつまでも里緒がいるみたいに、僕のことを忘れないでくれる人がいるかもしれない。人に何かを与え、それを繋ぎ、残り続けることが大切なのかもしれなかった。


 自分のために生きられない僕たちは、誰かの生きた証を持つことで生き続けられる可能性があった。それなのに僕は、里緒の生きた証を持つことを拒否してしまった。咲の生きた証を、紡いでいく段階で放棄してしまった。


「……じゃあ、君は死ぬから、わたしの生きた証はなくなってしまうね」


 風で揺れた木の陰に、かかしが置かれていた。細い一本足で支えられた身体が、不安定そうに揺れている。水平に伸びた腕の隅で、日光がくつろいでいる。


 残るものばかりが生きた証だと信じたくなかった。ここにきて自分の人生に価値が見え始めるから、本当に嫌になる。普段から生きる意味を求めている人は、僕たち以上に生や死を実感しているのかもしれない。


 僕は何も残さなかった。引き返せないくらい、触れるものを傷つけて回った。だから唯一の理解者である有紀が死ぬというなら、ふたりで自殺するしかなかった。


「でも、わたしは君に出会って、すこしだけ、生きやすくなったんだ。少年院にいたとき、いつか君と話すことを生きる糅にしていた。わたしを認めてくれる、唯一の人間だったから」


 これは傷の舐め合いに近かった。人が自分の不幸を自慢し合って、「大丈夫だよ」とか「次は上手くいくよ」とか、確実性を伴わない言葉を並べるのと何も変わらなかった。


 それでも、有紀が僕を必要としてくれていたのであれば、それこそが生きた証のひとつだと自信を持って言える。残すものばかりではないのであれば、意味もなく生き続けてしまった自分を許す一つの言い訳になるような気がした。


 咲は僕を忘れて、二年生、三年生と歳を重ね、大学へ進学し、それから一般企業でいい男と出会い、結婚するのだ。その人生から姿を消すことを選んだのは僕自身だった。そのことに少し不満を抱いている自分もいるから、やはり僕は咲のことが好きだったのだと思う。


 今さらどうにかなるわけではないのに、それでも咲と過ごす時間を強く願ってしまうほど僕は愚かだった。


 日は傾き始めていた。脚が痛くなってきても会話が疎らになっても、僕たちは歩くのを止めなかった。いくら疲れていても、駅でタクシーに乗らなかったことを後悔することはなかった。僕は、有紀とふたりだけの空間を、いつまでも歩いていたかった。


 道は森林に挟まれたり、畑に挟まれたりした。砂利道が灰色のアスファルトになったり、アスファルトが砂利道になったりした。僕たちと太陽だけは一方通行で、不可逆だった。


 視界の先、山の頂上に太陽が乗り、目を開けていられないくらいの光が瞬いていた。


 小学生のころ、理科の授業で夕日が赤く見える理由を聞いたことがある。太陽の角度と大気が大きく関係しているらしい。その日から夕日は、波長の長い可視光線という、ただの物理現象になった。


 生きる上で、知らないほうがいいことはたくさんある。有紀に付いていくことを決めてから、咲や誠と過ごす日々を知らなければよかったと思うことが何度もあった。パンフレットで仰いでもらうという簡単な行為とは違い、一度切れた人との関係は再現不可能な過去だった。


「なんだか、世界に二人だけになったみたいだ」


 遠くに、古い造りの一軒家が建っていた。崩れた様子は全くなかったが、廃墟であると一目でわかったし、あれが僕たちの墓場なのだとすぐに気づいた。


「夢みたいだ。ずっと理解し合える人に会いたかった。わたしの傷を、丁寧に、一緒に痛がってほしかった」


 空から明るさが失われていくのにつれて、有紀の声は存在感を強めていった。道の、真っ直ぐ続いて景色に溶け込むその地点までを、鮮やかな夕日が神々しく照らしている。僕はようやく、夕日が綺麗なものだったことを思い出した。


「ずっと生きづらかった。みんなと違うわたしが嫌いだった。今までがおかしかったんだよ。本当は人間なんて、わたしたち以外に誰もいないんだ。夢だったんだよ、ぜんぶ」


 空が融けていた。風景は不思議なかたちをしていた。身体は先端から空気に溶け出して、存在ごと曖昧になった。


「着いた」


 廃墟は日本家屋の模範解答のような外観をしていた。家の前に、一部がツタに覆われた軽トラックがあった。


 こちらを振り向いた有紀の顔に、真っ赤な光が乗っかっている。空は燃えるように眩しくて、定石通りの夕焼けが目の前に広がっていることが、なんとなく嬉しかった。


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