5-6「長い飛行機雲」

 ロータリーの先は大通りになっているが、道幅の割に車は少なかった。中央に黄色い点字ブロックが敷かれたタイルの道に沿い、食事処を求めて足を動かす。道の端には真っ赤なポストがぽつんと佇んでいた。今から遺書を書いて投函したら家に届くだろうか。


 玄関のポストに投函された僕の遺書は、きっと公共料金の支払いを促す封筒とともに、数ヶ月は眠ったままになる。熟成された遺書に付加価値が与えられることはなく、誰にも気づかれないまま死に至るだろう。


 余計な考えが捗るほど、ここは退屈な世界だった。


「なんか、お寿司が食べたくなった」


 遠く見える山に、街並みが溶け込んでいた。空には断片のような雲が浮かぶだけで、顔を上げると、目が痛くなるほどの明るい青が視界いっぱいに広がる。


「最後の晩餐。いや、晩、ではないか」


 咲だったらそのあとに「じゃあ昼餐かな?」と付け足すだろうと思った。


 夫婦と子どもと思しき組み合わせとすれ違って、しばらく目で追っても、彼らが僕たちの自殺計画に気づいた様子はなかった。人の内面を知る術は存在しない。彼らが一家心中を計画していたとしても、僕は気づくことができない。


 人と人はわかりあえなくて、僕がこうして命を共にしようとしている有紀についても、知らないことがたくさんあった。


 広島駅から電車で移動した先は山道や田畑ばかりが続くものだと思っていたから、こうして人の姿を見かけることが不思議だった。僕たちの先を男女の二人組が歩いていて、歩くのが速い僕たちは、その横をさっと追い越していく。


 かつては自分にも、彼らのように恋人と並んで歩く時間が存在した。咲と他愛ない会話をしながら、手を繋いで歩いた自分が思い出せない。


 咲はどんどん思い出から遠のいていく。時間が経つにつれて記憶の解像度は下がっていく。


 しばらく駅の周辺を彷徨ってから、高級そうな木製の格子扉が店番を務める、海鮮料理の店に入った。駅からすこし離れているが、すぐ近くの海鮮料理店が閉まっていたので仕方がない。それに、僕たちは時間に縛られていなかった。


 有紀はその店で最も高価なメニューを注文した。僕もチャレンジのつもりで、「時価」と書かれた海鮮丼を選んだ。運ばれてきた食事は、小鉢や汁物も含め、どれもこれから自殺する僕たちにはもったないほど美味しかった。


 僕たちがこの大きさに成長するまで、一体どれほどの命を犠牲にしてきたのだろう。積極的に生きる意思はないのに飽きることなく命を胃に収め、シャワーを浴び、布団を被る。


 無駄な毎日を過ごしてきた僕たちには贅沢だった。


 例えば戦争とか貧困で苦しんでいる人がいて、もし入れ替わることができれば、代わりにその苦しみを引き受けたまま自殺してあげられるのに、と思う。


 いや、それは、その人がこれまで生きてきた軌跡を無下にするような、ひどく不謹慎な考えなのかもしれない。


 店を出ると、見たことのない鳥がブロックタイルの地面を歩いていた。鳥は僕たちに気づいたのか、空気の切り裂く音を立てて離陸する。地面に落ちた影は日向に混ざり、次第に見えなくなった。


「飛行機雲」


 有紀は隣で空を見上げている。彼女の視線を辿ると、遠くの空で、飛行機が白い尾を引いているのが見えた。


「わたしは小さいとき、雲を出す飛行機がいるんだと思ってた。雲を作るための、専用の飛行機がいるって」


 飛行機雲は一部が太陽と重なっていた。真っ白な直線の、太陽の周辺だけが逆光で黒く濁って見える。


 自分が通った道の、軌跡を明確に残せることが羨ましい。


「わたしは勘違いをしてばかりだった」


 雲が大空の綺麗なキャンバスを台無しにしてしまったので、僕はなんだかどうでもよくなり、その場で思いっきり寝そべりたい衝動に駆られた。それでも、僕の心に眠る倫理観は仕事をした。死ぬ間際でも人は正常にものを思考することができる。


「わたしは、起こる事象すべてに意味があると信じたかったんだ。そんなはずはないって、いつから気づいてしまったんだろう」


 宙を、ビニール袋が舞っていた。風が強く吹いているわけではないのに、ビニール袋はふわりと形を変えながら浮遊する。次第に高度を落としていき、地面の数センチ上をしばらく滑走したあと、小さく音を立てて着地した。


「バス、乗ろうか」


 墓参りというイベントに、不謹慎ながら期待していた。僕は、死の気配を最も身近に感じられるその場所に、足を運んでみたくなっていた。


 バスはICカードが使えなかったので、乗車口で整理券を取り、前方の料金表を眺めながら車体に揺られた。二人掛けの椅子が狭かったせいで、有紀とぴったり密着するかたちになる。彼女の肩は、咲よりもすこし、ちいさく感じた。


 空気の支配者は車のエンジンとウィンカーが主で、ときおり運転手の咳払いが混じった。僕と有紀以外、人はいない。ここらに住んでいる人たちは普段、何をして生活しているのだろう。


 バスが中学校の横を通り過ぎたとき、これだけ遠い地に自分たちと変わらない生活があることを知って、不思議な気分になった。


「あの中学でも、誰かが人を殺しているかもしれない」


 人の手が及びきっていない土地には、神聖な空気が充満しているような気がする。都市部から離れるほど、空気から不純物は取り除かれる。田舎に住んでいる人はそういった空気を吸っているから、神の存在を元にした風習が根付いているのかもしれない。


「偏見だよ、それ」


 窓の外が森ばかりになってきたころ、有紀が停車ボタンを押した。次、停まります。バスが停車してから席をお立ちください。アナウンスは、人の声を録音したものなのか合成音声なのか、判別が付かない。


 ステップを降りたとき、草の青々しい匂いがした。どこかで嗅いだような、懐かしい香りだった。


 バスが去ると、細い道路を挟んだ正面に、石垣で囲われた墓たちがあった。時刻表が貼られたポールの横には木製の屋根とベンチが設置されており、背面はトタン板が付けられている。風が吹くたび、カタカタと音が鳴った。


 停留所と墓地を隔てる道路の、アスファルトはところどころにヒビが入っていた。冷たい空気をしているのに、日の光が暖かい。


 周囲に人の姿はなかった。空間自体が、神聖さ、のような属性をしていた。


 そこにある墓石の多くは風に晒されて、表面に薄い砂埃の膜ができていた。有紀は入口で柄杓と桶を取り、水を汲んでいる。「うわ冷たい」、彼女の悲鳴が聞こえた。


 墓地は階段状になっていて、一面を芝生が覆っていた。たまに土が剥き出しになっている部分があったが、それが人によるものなのか自然にそうなったのか、わからない。


 段を上っていくちょうどまんなか、通路から三番目の位置に有紀の父親は眠っていた。他の墓と同様、表面は薄く土を被っている。


 空っぽの花立てを覗き込むと、真っ暗な空洞と目が合った。


「一年ぶりだ」


 いつか有紀は、父の死や精神の異常を理由に二年半という期間で少年院を出所し、高校編入の話が上がったと言っていた。それがちょうど一年前で、「前回来たときに七輪を準備した」とも言っていたから、出所時にはすでに自殺を決めていたのだろう。


 有紀は柄杓で墓石に水をかけると、ポケットから取り出したハンカチでその表面を磨いた。墓石は光沢が出た場所から順に、僕と有紀の輪郭をぼんやりと反射する。砂埃の膜が剥がれると、「小山家先祖之霊位」という文字が浮かび上がった。どうやら彼女の父方は代々、この墓を利用しているらしい。


 今日、有紀が死んだあとは、ここで眠るのだろうか。場所を考えると、そもそも発見されない可能性もある。


「わたしは誰にも知られずに死にたい」


 僕の考えを見透かしたかのように有紀が言った。「何者にもなりたくない」、声は風に運ばれ、芝生の上を滑走する。有紀と目が合う。その顔に、薄く笑みが滲んだ。

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