4-8「生きる意味」

 校舎に戻り、屋上を目指した。運動量に伴って心拍数が上がり、頬がテンポよく痛む。里緒が死んだときもきっと同じだった。今、思いっきり出血してくれれば楽だった。


 自分の命が消えていくのを観測しながら意識を手放したかった。そうでなければ死んだことに気づくことができない。


 里緒はあのとき何を考えていたのだろうか。怖かっただろうけど、きっとどこかのタイミングで生を諦めたと思う。


 図書室の脇にある窓は開放されていた。普段通りの手順を踏み、屋上へ身体を引っ張り上げる。「おかえり」、有紀が言った。彼女がいることを心のどこかで期待していたことに気づき、これだけの経験をしてもまだ他人を求めている自分が情けなくなった。


 いや、有紀は特別だから、関係ない。


「殴り合いなんて、血気盛んなことで」


 どこで見ていたのだろう。尋ねたが、返事はなかった。代わりに「ねえ『血気盛ん』の使い方、あってる?」と返ってきた。


 ふと気になって扉の向こうを覗いてみたが、そこに咲の姿はなかった。どこへ行ったのかを考えて、すぐにやめた。空を見上げる。綺麗な夕日をしていた。


 どこか遠く、風の擦れる音や車のエンジン音の向こうに、消防車のサイレンが聞こえた。夕日を受けた雲は燃えているようだった。もしかしたら、あの空を消火しに行こうとしているのかもしれない。果たして、あの一台で足りるのだろうか。


 どうでもいい妄想が捗るくらい、僕は退屈をしていた。


 屋上では静寂がその場を貸し切ってくつろいでいた。僕と有紀は居候のように、端っこで並んで座っている。なんとなく後ろを振り返ったら、東の空は闇に飲まれ、月が昇っていた。どうせなら何もかもを真っ暗に飲み込んでほしかった。


「元気、なさそう」


 では、元気がある状態というのは、どのようなものをいうのだろう。活気に満ち溢れているとか笑顔が抑えられないとか、そういう曖昧で不安定な状態を指すのであれば、僕はずっと元気のない状態にあったと言える。


「ひねくれすぎじゃない? 周くん」


 僕は咲と時間を過ごす上で、何を望んでいたのだろう。互いに心を許さず、居場所を与え合うだけの自分勝手な関係がほしかったのだろうか。


 声は靄がかかり、自分の内側にあるのか外に出ていったのか、わからなくなる。言葉の所有権が曖昧だった。


「結局君は生きる意味がほしかっただけなんだよ。中途半端に相手を慮って、距離を観測し続けるくらいなら、自分のために生きてみればいいのに。今まで通り、一人っきりで」


 一人で生きていたら僕は自分の人生に目的を与えることができず、いつかは死に至るのだと思う。誰かに必要とされて、僕は初めて自分という存在の観測に成功できた。それは、生きる意味として、明確な役割があるからだった。咲が描いた未来に向かうという明確な役割は生きるのに都合がよかった。


 生きる意味、というものは抽象的だった。それなのに手の届く場所にないとすぐに迷うから、生きることの難しさを再認識させられる。


「ねえ、どうして池高さんと別れたの?」


 池高、という名前を聞いて、ああ、咲はそんな苗字だったなと思った。彼女が嫌っていた二文字。池高咲という名前は、真っ白な空間に桜が舞っているような儚さがあった。


 咲は眩しすぎて、見つめていると、目がむず痒かった。隣にいるべき存在は僕ではなかったと思う。こんな気持ちで付き合っていたら、咲は報われない。


「えー、嘘だあ」


 有紀が笑う。


「君はけっこう、自分勝手だ」


 彼女が言うなら、きっとそれが正しい。


 僕は、母のように生殺しになるのが嫌だった。そんな情けない生き方をしたくなかった。咲との時間が自分の生きる意味になることが怖かった。


 彼女の今後のために別れなければならないという思いはたしかにあって、でも、それを考えている間は自己犠牲みたいで気持ちがよかった。


 離れるのに時間をかけてしまったことが間違いだった。その選択に僕の弱さが表れていた。本当は捨てられるのが怖かったのだと思う。というより、捨てられたことを実感するのが怖い。


 石橋の言ったことは案外、的を射ている。里緒は死んでもなお、記憶に残り続けることを望んでいたのだ。


 もう、他の誰にも理解されなくていい。自分を唯一理解してくれる有紀の特別になれれば充分だった。有紀は「それは光栄だ」と猫のように笑った。有紀が死ぬ瞬間まで、話し相手になりたい。その先のことはなにひとつ思い描くことができなかった。


 生きる意味を見つけられない人間は死ななくちゃいけない。有紀の言葉だ。


 有紀に付いていく、と僕は言った。有紀は「そっか」とだけ言った。


 咲と別れることに決めた瞬間からこの未来が香っていた。漠然と、僕はここに行き着くような気がしていた。


 この瞬間、ここで何が起こっても驚かない自信があった。突然咲の死体が出てきても死んだはずの里緒が顔を出しても、もしくは有紀にカッターナイフで首を切りつけられても、そのすべてを受け入れることができた。


 どうせいなくなってしまうなら、生きる意味がなくなったなら、一緒に死んでしまうほうが合理的だった。自殺を否定する人はみんな、自殺志願者の苦しみを知らない。


 知っていれば、簡単に「死なないで」とか「話を聞かせて」とか、ありきたりな言葉を口にできないはずだ。


 やり残したことを全部こなして、それから死ぬというのはあまりに魅力的な提案で、どうして最初から思いつかなかったのか、不思議なくらいだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る