第5章『どこにでもあるストーリーに身を委ねる。』

5-1「5分前の記憶」

 文化祭以降、しばしば有紀と外出した。彼女には死ぬまでにやりたことがあるらしい。その内容は話題のドリンクを飲みに行ったり新宿で買い物をしたり、普通の女子高校生が放課後にするようなことが多かった。


 アルバイトがある日は普通に出勤し、休みの日は特にやることがなく、それでも頭を動かしていないと身体が腐ってしまいそうで、図書室の棚に並んでいる新書をひたすらに貪った。一度だけ物語の世界に浸りたくて小説に手を出してみたが、どうしても物語の劇的な空気についていけず、やめた。


 学校には変わらず通い続けた。始めは教室に着くのと同時にチャイムが鳴るよう時間を調整していたが、昇降口で誠に遭遇する日が重なったため、一週間が経つころには誰より早く登校するようになっていた。


 教室で僕に話しかける人はいなかった。僕がこれまで築いてきたはずの人間関係は、咲や誠の介入がなくなるとすぐに消滅した。当然と言えば当然だ。


 咲と別れたことで、母のように泣き喚いたり、何もかもがままならなくなったりすることはなかった。心を壊すほど依存する手前で引き返せたのだと思う。付き合い続けていたら取り返しのつかないことになっていた。だから、あれはいい選択だったに違いない。


 咲とはなるべく目を合わせないように努めた。それでも同じクラスにいるからたまに目が合ってしまう瞬間はあって、そういうときは即座に目を逸らし、何ごともなかったかのようにそれまでの行動を続けた。


「仲直りしなよ。誠も本当はそうしたがってるけど、あいつ素直じゃないから。誠にも言ってるんだけど、聞かなくて」


 何度か、朋海にそう言われたことがあった。そのたび僕は曖昧な言葉を返すことしかできなかった。


 最初は頻繁に視線を寄越していた誠も、僕が気づかないふりを続けるうちに、向こうも気にしなくなったようだった。彼は僕と話さなくなった代わりにクラスの別の男子とよく時間を過ごした。


 学校は一日も休まなかったし、アルバイトもきっちりとこなした。死ぬまで日常を続けたいというより、死を特別なものにしたくないという気持ちが強かった。それは里緒への罪悪感と、僕が持つ不安定な価値観の両方によるものだった。


 僕とは異なり、有紀には望む死に方があるようだった。僕たちは、次の三月に遠くの地で死ぬ。遠くの地、というのは有紀の生まれ育った町らしい。彼女はそこで生涯を終えたいようだった。


 九月が終わると平均気温は瞬く間に低下し、たまに雨が降った。スマートフォンに入っている天気予報のアプリは、いつも天気を教えてくれた咲の代わりになった。


 時間はずるずると過ぎていき、自分が何月の何日を生きているのか、よく曖昧になった。


 母が家に帰ってこなくなってから二ヶ月が経つころ、ガスが止まった。料理はしないのでコンロが点火しないことは問題なかったが、気温の低下により、水風呂に限界がやってきた。


 始めは近くの銭湯に通っていたが、次第にそれが億劫になり、ダイニングテーブルいっぱいに並んだ封筒のなかからガスと電気代に関する書類を選んでコンビニで支払った。その二日後、今度は水道が止まった。


 ひとりで生活していることもあってか、延滞金を加味しても、光熱費がアルバイト代を圧迫することはなかった。


 年が変わる直前、有紀と遊園地に行った。幼いころ、両親と来たことがあるのだという。少し経ってから、彼女が自分の人生の軌跡を辿っているのだと気づいた。


 本を読んで、「世界五分前仮説」というものを知った。世界は神によって五分前に作られたもので、僕たちが信じている「五分以上前の記憶」は、世界ができた瞬間に植え付けられた偽の記憶でしかない可能性がある。このことを反証できた事例はないらしい。


 記憶や感覚は信用に値しない。自分自身を疑ってしまうおかしな人々が過去の世界にも存在していたという記録は、僕を救った。


「わたしたちはたぶん、自分に自信がないんだよ。だから懐疑主義的の一部を信仰している」


 有紀がそう言ったのは、初詣の神社で、りんご飴の屋台に並んでいるときだった。


 洋風のロングコートにフレアスカートという有紀の格好は、祭りのような雰囲気の境内で少し浮いていた。とはいえ僕もトレンチコートに体温の管理を任せているため、人のことは言えない。


 自分に自信がないから感覚を信じられない。その有紀の考えは心の穴の部分によく馴染んだ。「自分の人生に意味がなかったと証明するために、わたしはこうして死ぬまでの時間を使っている」、有紀はりんご飴を囓ったあと、真顔で言った。


「あとで生きてればよかったって後悔するのは嫌だからね」


 死んだあとは無になる。後悔することはできない。


「それはそうだけどさ」


 有紀が「意味がなかった」ことを証明したいのであれば、僕は死ぬ前に生きていた意味を見つけてやろうと思った。


「挑発のつもり?」


 有紀が戯けて言った。


 意味がなかったとしたら、僕の人生はまるごと無駄だったということになる。このまま何も成し遂げずに死んでいくのは、惜しい。


 僕と彼女の間には決定的な違いがある。僕は人を好きになることができて、有紀にはできなかった。有紀は人を殺すことができて、僕にはできなかった。その違いは僕にとって有利にも不利にも働く。


 いつの間にか、スマートフォンの天気予報を見なくなっていた。もちろん咲から一日の天気を教えてもらう習慣もないので、雨の日は毎回、ずぶ濡れになって帰る。


 そんな生活を続けていたら、三学期が始まって学校生活が当たり前に戻ったころ、風邪を引いた。とはいえ症状は身体の倦怠感と咳がわずかに出る程度だったので、その日も普通に登校した。


 よっぽどの事情がない限り、学校は休みたくなかった。死は日常の延長線上にある。どうでもいい日常の先で、何ごともなく死んでしまいたかった。有紀は相変わらず嫌がらせを受けていた。どうしてやり返さないのかはよくわからなかった。


「新幹線の予約、しておいたよ」


 自殺予定日まで一ヶ月を切った日の屋上で有紀が言った。

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