4-7「恵まれた人間」

 一階で、大量の段ボールを抱えた二人の生徒とすれ違った。目が合って、瞬間に逸らされる。元々僕を認知しなかったみたいに、彼らは会話を続けた。横を通り過ぎるとき、他人の家の柔軟剤の香りがした。


 間もなく体育館にて後夜祭が始まります。スピーカーから放たれる音声はひどく錆び付いていた。唐突に人の声が嫌になって、空いている手のひらを耳に押し付ける。音はすぐに遠のいた。


 リノリウムの廊下は橙色をしていた。雲は、校舎の上空を覆い、それからどこかへ消えるという途方もないドラマを見事に完走しきったようだった。


 行き場をなくした僕は中庭へ続く扉に手をかけた。自由になった側の耳が「あ」という、聞き慣れた声を拾う。声の主が誠だと気づくより早く、僕は扉の向こうへ足を踏み出していた。気づいたあとも足は止めなかった。


 自分は一体こんなところで何をしているのだろう、と思った。咲の泣き顔を思い出す。彼女の目から落ちる涙にも、物理の授業で習った重力加速度が働くのだと考えた。どんなときでも思考は平坦で、感傷に浸っても、背後で俯瞰している自分に引き上げられる。


「おい」


 誠の声がしたのは扉の開く音と同時だった。手にぶら下がったゴミ袋から、教室にあった装飾品が透けて見える。


「咲、泣いてたけど」


 けど、というのは逆説として機能する助詞だから、言葉が続くはずだった。しかしその後ろには「何があった」等の疑問が巧妙に隠されていたようで、言葉の続きを待っても誠は口を噤んだまま動かなかった。


 声の強さとは裏腹に、誠は戸惑っているようだった。何が、と返して、これは違ったなと考え直す。「何が、じゃねえよ」、表情を変えずに誠が言う。


「咲、お前のことずっと心配してたよ」


 そうなんだ、という言葉を紡ぐとき、できるだけ短く、何の感情も伝わらないように努めた。


 誠が眉間に皺を寄せてじっと僕を見る。彼にとって僕は太陽の方向にいるので、時間帯による日の角度も相まってかなり眩しく見えているはずだ。僕は背中に夕日の熱を感じながら彼をじっと見返した。


 出会いからずいぶん長い時間が経っていた。もう解放してくれ、と思った。最初からひとりで生きていればよかった。あのとき言葉を間違えて有紀に殺されておけばよかった。里緒でも父でもなく、自分が死んでいればよかった。


「……どうしたんだよ」


 今度こそ、表情は声色と一致していた。がさっ。誠がゴミ袋から手を離す。ずっと持っていて疲れたのかもしれないと考えていたら、彼は力強い足取りで近づいてきた。


「変だよ、お前」


 言われて、はっとした。考えてみれば、変だったのは入学当初、クラスに馴染もうとしていた自分のほうだった。母のようにはならないためにひとりで生きると誓ったはずなのに、誓いは誠や咲の空気に当てられて、気づかない間に形を失っていた。本来、こうあるべきだった。


 編入当初の、僕が見下していた有紀と、全く同じだった。


「どうすんの、これから。勢いで別れるなんて言っただけだろ、どうせ。謝ってこいよ」


 誠の溜息は夕日が照らす暖かな空間に不釣り合いだった。廊下を歩く生徒は見えなくなっていて、間もなく後夜祭が始まるのだと気づく。抜け殻になった校舎はひどく生き生きしているように感じた。


「……俺は、お前が何考えてんのかわかんねえよ」


 人と関係を作り続けるというどうしようもない営みから、僕はもう解放されたかった。すべてがどうでもよくなっていた。これまでの人生で、最も自由を謳歌できる気がした。咲との関係はもう切れた。家には母もいない。唐突に、今の自分ならなんでもできるような気がした。


 きっと人の頸動脈にカッターナイフを突き刺すことも簡単で、屋上から飛び降りることもできるはずだ。


「咲はお前の助けになりたかっただけだろ。それが別れ話に発展すんの、意味がわからん。しっかり考えてからものを言えよ」


 そういうものは全部、もうどうでもいい。それが声に出ていたと気づいたのは、誠が血相を変えて僕の胸倉を掴んだときだった。怒ると人は顔を赤くすると言うが、太陽が橙色をしているせいで、よくわからなかった。人の親切心を踏みにじるのは人間として最悪とか、咲の気持ちを考えたことがあるのかとか、誠はそのようなことを繰り返し怒鳴った。喉が掠れてきたのか、後半は空気の擦れる音だけがしていた。


 彼は恵まれた人間なのだと思う。その生まれ持った陽気な性格と良好な環境のおかげで友人関係に支障はないし、親から見捨てられて自分の存在意義を疑うこともない。満たされた人間なのに他人にもそれを求めるなんて、あまりに贅沢ではないだろうか。


 どこまでが自分で、どこからが空気なのかわからなかった。誠が何かを言って、僕も何かを言った。心臓を隠している骨に、誠の拳の関節が当たって、痛い。


 いいよな、誠は。何も考えず馬鹿みたいに与えられた人生を謳歌してればいいんだから。次の瞬間には視界が真っ白になって、僕は地面に倒れていた。あ、殴られたのか、と思った。上空から張り裂けそうな声が降ってくる。誠の喉が裂けてしまわないか心配だった。鼓動と同じリズムで、頬がじんじんと痛んだ。


 罵ってほしかった。罵って、僕の価値を下げてほしい。人間とはかけ離れた惨めな存在であることを、第三者の視点から痛いほど思い知らされたい。特別だと思い上がってしまっているこの心を真っ二つに切り裂いてほしい。


 立ち上がって、制服についた枯れ芝と土を払い、誠に背を向けた。本当にごめん。言葉は宙を舞って、芝生の上に優しく転がった。走らなくても充分追いつけたはずだが、僕がそれ以上誠の声を聞くことはなかった。


 僕がこれまで抱いてきた夢のような感覚は、現実逃避の手段のひとつなのだと気づいた。目の前の受け入れがたいことから顔を背け、フィルターを張って心を守っている。夢のなかだけは上手く生きていける気がしていた。


 夢は心の中で見るものだから、フィルターの張りようがない。そこは本心だけがあった。


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