3-6「珈琲と免罪」
夏休みの一週目は書店のアルバイトと、学校の課題に忙殺された。いや、忙殺されたという表現は正しくない。僕は自らの手で自分を追い込んでいた。その結果、初週だけで課題のほとんどが片付き、退勤後の手持ち無沙汰を読書で埋めるようになっていた。
可能な限り家で過ごさないための行動は、現実から目を背けているように思えてしまうが、これが正しい選択なのだと自分を納得させた。
アルバイト後はいつも、職場近くのカフェに直行する。今の僕には食費や交際費を差し引いても、毎日アイスコーヒーを飲める以上の余裕があった。珈琲と稀にスイーツを注文して、迷惑だとわかりつつも数時間は居座ってしまう。
この日は退勤後に、自店で新書を数冊購入した。社員に頼めば十パーセントの従業員割引を使ってもらうことができる。この制度の話をしたとき、誠は「実質脱税じゃん」と意味のわからないことを言っていた。
何にせよ、本で暇を潰している僕にとって、従業員割引の制度は画期的だった。
夏休みの課題がほとんど片付いてしまったことで、この日の僕がカフェでできるのは、狂ったように新書の内容に目を滑らせることだけだ。カフェに滞在するには退屈すぎるが、家に帰るには心が重すぎる。そんな日常がこれからも続くことを考えると、夏休みが無限に終わらないもののように感じた。
数日前の、男の誘いから始まった外食はひどく狭苦しいものだった。
男は背が高く、いつも一回り小さいシャツを着ているため筋肉質の身体が際立って見えた。手首には金色の腕時計が巻かれているが、昔に母が「プレゼント」として準備していたのと同じ物かはわからない。
母は男と別れて一通り泣いたあと、息をするように新たな男を捕まえる。何年も経っているし、当時の男とは別人だろう。
今回、喧嘩があっても母は男と別れなかったようだった。
僕は男を
二人は最初から喧嘩などなかったかのように、終始仲睦まじげに会話をした。咲と僕に放たれたあの言葉に対する母からの謝罪や訂正は、何もない。
周くん、肉焼けたよ。周くん、食べ盛りなんだからもと食べなきゃ。何かと僕を気にかける源さんに対して、「もう高校生なんだから自分でできるでしょ」と母が呆れたように言った。僕は適当に礼を言いながら、甘辛いタレに肉を絡める。
帰りたい、と何度も思った。夜中に隣の部屋から聞こえてくる音と声を思い出して、一度だけ、トイレに駆け込んだ。トイレには「ここで吐くな」という旨の貼り紙があって、食べ放題というシステムに欲をかいて、吐くまで食べようとする客がいるのだと知った。
源さんは母とよく似た仕事に加えて投資というものをやっているらしく、NやSが付くアルファベットの羅列をよく口にした。すごいねとかそうなんだとか、相手の気をよくさせるための返事は彼に嵌まったようで、アルコールで顔を赤くした彼は「お父さんって呼んでもいいよ」と言った。
多様性、という言葉に目眩がする。何においても多様性は認められなければならないという世間の風潮は、例えばこういうおかしな家族構成をしている僕も多様性の一つとされているわけで、それは、この状況を黙認しろと言われているようなものだった。
多様性に属するのは少数派で、力のないものたちだ。「どんな個性でも尊重しなければならない」という意見と「異質なものは排除する」という心理は真逆のようで、共存している。表側では尊重されるべき存在として神格化され、裏側では彼らが持つ共通のコミュニティから除外されてしまうのだ。
その日以降、僕は、筋肉質で情け深くてアルファベットを羅列するその男を、家族の一部として認める必要があった。
「あれ、周じゃん」
声を聞いて我に返ったとき、耳障りな蝉の鳴き声と、皮膚に纏わり付く熱気が一斉に蘇った。いつの間にか僕はカフェの前にいて、後ろには誠が立っている。考えごとをしながらでも無意識が勝手に行動してくれるから、やはり人間というのは不思議なつくりをしていると思った。
「何してんの?」
アルバイトが終わったところだと、素直に答えた。「え! 俺も俺も!」、嬉しそうな声が返ってくる。少し前、朋海が「誠は犬みたいでいい」と言っていたことを思い出した。
「俺、あそこのマックで働いてんの! ってか暇ならちょっと話そうぜ!」
特に断る理由はなかったので、彼に付き合ってやることにした。数往復のやりとりのあと、目の前のカフェに入ることが決まった。
僕はアイスコーヒーで、誠はコーラだった。炭酸は苦手なのに、コーラは好きらしい。
「コーラは炭酸飲料じゃないから」
炭酸飲料ではあると思う。
カウンターで注文と支払いを終えた僕たちは、それぞれグラスを受け取って窓際のテーブル席に腰を下ろした。
「んで、前から気になってたんだけど、やっぱ小山と知り合いだったの?」
ああ、それか、と思った。
これまで訊かれなかったことが不自然だったくらいだ。彼なりに、自然で有紀が犯人だと決めつけない質問方法を模索していたのだろう。
「いや、みんな不思議がってたから。咲とか」
みんな、という言葉を繰り返す。「ん、そう」、誠が言う。合った目は、瞬間に逸らされた。彼の言う「不思議がってた」は、おそらく、あまり好ましくない言葉で表現されたものだったのだろう。
「咲は小山と周の関係を気にしてるだろうし、てか気にしてたし、早く説明してやれよ」
誠のコーラはグラスのなかで気泡を生成し続けている。「あと俺にも」という言葉には、中学の同級生とだけ説明した。
早くも結露がつき始めて、グラスの表面をゆっくりと伝っていく。見ているだけで清涼感のある光景だった。
「でも、珍しいじゃん。周が止めに入るの」
可哀相で見ていられなかった、という言い訳では納得してくれなかった。話題を変えるため、強引とはわかりつつも質問を返すことにする。
「いや、俺が止めに入る理由はアレだよ、教室の空気が悪くなんのはいやじゃん。みんなで仲良くしたいのにさ。女子は陰湿だから怖いわ。特に立野」
有紀を除け者にするグループの中心人物を思い出して、すこし笑いそうになった。たしかに彼女を表現するには陰湿という言葉がぴったりだ。
「あんなことしなきゃ可愛いのにもったいねえよな」
彼の言うとおり、有紀が編入してくる前は彼女に思いを寄せる男が多かったと聞く。「誰が一番可愛いか」という話題のときは、必ず名前が挙がったほどだ。
「小山も違うなら否定すればいいのにな。まあ、あれだけ大事になってたら言いづらいか」
ふと、彼は正しい自分でいようと心がけているのかもしれない、と思った。
「あっ」
会話の小休憩に入ったと思うや否や誠が大声を上げるから心臓が縮み上がった。周囲から視線が集まるのを肌で感じる。僕は気づかないふりで視線が散らばるのを待った。
「そうだそうだ、忘れてた。これ、咲に渡しといてくれない?」
そう言って誠が差し出したのは、人差し指ほどのサイズをしたアクリルキーホルダーだった。いいけど、と言って受け取る。
「この前咲が俺の机に忘れていってさ。あ、別にそういうんじゃないからな」
彼らは部活動をしているので、夏休みの間でも顔を合わせることがある。昼休憩の時間は昼食を摂る場として教室が開放されているのだ。朋海が誠に声を掛ける際、咲も同行させられたのだろう。
渡しておくよ、と言って鞄にしまおうとした際、視線がキーホルダーの文字列に吸い寄せられた。
別に、見ようとして見たわけではなかった。
「どうした?」
心臓の、鮮明に鼓動を刻む音が耳元で鳴っているような気がした。誠の言葉に上手く返事をできたかはわからない。
キーホルダーに書かれたローマ字は、どう見ても、「りお」と読めた。
入口の近くの席で、子どもがコーヒーポーションを放り投げた。ふわり、雫になって宙を舞った透明な液体が音もなく幾何学模様の床を塗らす。親は気づいていないようだった。地面に転がった容器から目を逸らし、再び手元の文字に視線を落とす。
このキーホルダーを、咲の所有物以外の場所で、見たことがあるような気がする。
「なあ、花火大会、もうすぐじゃん?」
誠があっけからんとした口調で言った。
店内は混み始め、レジにも数人の列ができている。アイスコーヒーはなかなか減らない。誠のコーラもグラスいっぱいに入っている。
里緒との関係は、咲に尋ねないとわからない。今はこれ以上考えても仕方がない。名前が同じだけの他人という可能性も充分にあり得る。
仲のいい人間同士が互いの名前が入ったものを持ち歩くというのは珍しい話ではない。
「そろそろ予定決めないとな。あとでグループにライン入れとくわ」
誠がそう言ってから僕はようやく頭に花火大会の光景を思い浮かべた。僕は誠と咲、朋海の四人で花火を見る約束をしていたのだった。
「俺も彼女と花火見たいわ。早く付き合いたいんだけどな」
付き合えばいいじゃんと言うと、「それができたら苦労しないんだよ」と返ってきた。猪突猛進という四字熟語を深く信仰している彼でも、恋愛に関してはかなりの奥手らしい。
「彼女ってさ、特別な感じがするじゃん」
誠は頬杖をついて笑った。僕はたぶん、苦笑いをしていた。
有紀のような特別性とは異なるものの、咲との間には似た問題を共有した者同士の世界があるものだと思っていた。しかし、根本の部分ですれ違いがある。
壊れかけていても自分に不利益な存在でも、咲は家族というものを大切にしているらしい。あれ以来、僕たちの間から家族の話題が消えた。
家族というものへの認識のズレが、僕たちを繋ぐいくつかの橋のひとつに、たしかな亀裂を入れていた。そして、僕が持つ彼女への隠しごとも、そのヒビに荷担している。
一方で、恋人という新たな肩書きは僕に優しかった。自然に手を繋いだり理由なく会ったり、触れ合うことの不自由さがなくなることは、生きていいと思える有用な判断材料になった。
「お前らいいカップルだと思うよ。仲よさそうで羨ましい」
先ほどのコーヒーポーションの抜け殻はまだ地面に転がっていた。僕はかかとにくっついた靴底を剥がすようにして右足を浮かせている。子どもが今度はグラスに手を入れて氷を弄んでいた。向かいのドーナツ屋に、行列ができていた。
母のように、他人のエネルギーを使って生きる大人にはなりたくない。一方で、このまま咲への気持ちに身を委ねてしまえば、たとえば数日後の約束に向けて生活をするみたいに、断片的な意味を繋ぐことで生き延びるための言い訳くらいにはなりそうだった。
自分が、少しずつ、でもたしかに母に近づいている気がした。好きという気持ちを言語化しなければいい、という段階はとっくに過ぎている。
どうせすぐ別れるよ。私の息子なんだから。
母の言葉はなかなか離れない。咲以外何も考えられなくなってしまえば、僕は母のように壊れてしまう気がした。
花火大会の日、夕方までアルバイトを入れたのは正解だった。何かをしていなければ不安と焦燥に押しつぶされてしまいそうだった。しばらく話したあと、「じゃあ当日で」と言い残し、誠はカフェを出ていった。
日の光が、気まずい角度で店に入り込んでいた。コーヒーポーションの抜け殻はなくなっていた。
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