3-5「台風が死んだ」
どうするべきか迷っているとき、突然、扉が開いた。出てきた母が僕を見て、目を細める。
「……なんだ、あんただったの」
その泣き腫らした目を見て、外出先で男と喧嘩になったのだと察した。いや、母は機嫌が悪いとき、一方的に言葉を放ち、自分なりにストーリーラインを作り上げて完結させる。原因はわからないが、母の一方的な金切り声は想像に易い。
「なに、見せびらかしに来たの?」
母の目がみるみるうちに潤んでいった。もしかしたら二人は別れたのかもしれない。最悪だ、と思った。咲に見られたくなかった。やはり、咲を家に連れてくるのはリスクが高かった。
「周もそうなんだ」
何が、と僕は訊く。母はときどき、自分に関係のないことまで不利益なことと勘違いし、被害妄想に走ることがある。声が次第に震え始めるという予備動作に入ってしまえば、僕がいくら言葉を紡ごうが話を聞いてくれることはない。
「周も私が邪魔だと思ってるんだ」
無視したいところだが、返事をしなければ母は「やっぱりそうなんだ」とヒステリックな声で叫び出すに違いない。だから僕はそれっぽい言葉を返さなければならなかった。その光景を咲に見られていることが、情けなかった。
「もういい。邪魔なら出ていく」
アパートの横は一軒家ほどの空き地があって、二階の廊下からはその全体が見下ろせた。軽い雑木林のようになっているせいで、夏は蝉の大合唱がよく聞こえる。僕は今、初めて蝉の声を鬱陶しく思った。
母がいくら自虐的なことを言ってもヒステリーを起こしても、いつも僕は慰めるのをやめなかった。どうして自分が母を捨てないのか、わからない。こうして責められている間も、僕はあの男がしているみたいに、柔らかい言葉を口にしてしまう。
母は外出着のままだった。玄関で高いヒールに足を通して、わざとらしく扉にぶつかって外に出た。こつ、こつ。足音の大きさは苛立ちの表れだった。
「あんたもどうせすぐ別れるよ。私の息子なんだから」
一瞬、母を追いかけそうになった。追いかけて、胸倉を掴み、言葉を訂正させたい衝動に襲われた。実際の僕は玄関の前で立ち尽くしたまま、母の小さくなっていく背中を眺めている。
まずは咲に謝った。「全然気にしてないけど……」咲は困ったような顔で笑った。
「いいの? 追いかけなくて」
母はよく一時の感情だけで行動する。放っておいても、どうせ夜になったら帰ってくるだろう。ひとりで生きられるような人間じゃない。
それと、僕の手ではなく、関係のない人の手でつながりが切れることを期待している、という気持ちもあった。
「んー。でも、家族でしょ?」
僕と両親に与えられた家族という属性は、父が死んだ時点で役割を終えた。男に縋るようになって以来、母を家族と思ったことはない。僕にとってあの人は、一人では決して生きていけない可哀相な、他人だ。
父も、死んだら存在しないのと一緒だ。墓の場所さえ僕は知らされていない。
とりあえずこのまま外にいては暑さにやられてしまいそうだったので、咲の手を引いて自分の部屋に招き入れた。冷房を付けっぱなしで家を出てきたので、部屋は天国のように冷え切っている。
冷蔵庫に入れておいたペットボトルの麦茶をグラスに注いで持って行くと、咲は「ありがとう」と言い、美味しそうに飲んだ。
「やっぱり、心配じゃない?」
グラスには早々に結露ができはじめていた。咲が手に持ったままのグラスから水滴が垂れ、スカートを濡らす。
「家族なんだし、助けて生きていかなきゃいけないときが、あると思う」
咲は神妙な顔で言った。
意外だった。咲なら家族というしがらみの億劫さと、断ち切れないもどかしさを知っているものだと思っていた。壊れかけた家族で、それでもその肩書きを保ち続けようとする彼女の考えがわからない。
家族だからって、助け合う必要はないと思う。自分が不利益を被ってまで手を貸すなんて労力の無駄だ。僕が言うと、咲はわずかに、眉間に皺を寄せた。
「それは違くない? だって家族って、どんな形でも最終的には大切に思い合ってるはずだし」
そうかな、と返す。
「それに、なんか、私の生き方を否定されてるみたい」
それほど強い言葉を使ったつもりはなかったので、僕は素直に謝った。一度母に邪魔された今日という日を、これ以上腐らせたくなかった。咲は「いや、私もごめん」と言った。それから、何ごともなかったかのように、咲は僕に肩を寄せて座った。
その後、僕たちは二人の時間を、漫画を読んだり、一緒に配信者の動画を見たりするのに費やした。台風が来るまでに、家に帰さなければならない。いっそのこと、今すぐに台風が来てくれてもいい。
そうしたらここで、咲との時間をいつまでも過ごすことができる。窓越しに聞こえる蝉の籠もったような声が、隔離されたふたりだけの空間を際立たせているような気がする。
「私たちもいつか、別れちゃうのかな」
漫画を読んでいるとき、咲が唐突に言った。母の「あんたもどうせすぐ別れるよ」という言葉が、まだ咲の脳内に残っているようだった。僕は何も言わずに手を握った。
握った手は互いの背にまわって、抱擁は唇を触れさせるに続いて、それは肌を重ねるに至った。全身を使って直接肌に触れると、咲との境界線がわからなくなる感じがする。その曖昧さが好きだった。
さっき生まれた家族間の齟齬も、今は、どうでもよくなった。
この先、母を家族という枠組みに入れてしまえば、あの言葉が現実になってしまう気がしてならなかった。明確な答えが浮かばないまま、僕たちは熱に侵されていく。
別れを考えるのにはまだ日が浅かった。それなのに、母の言葉が頭から離れない。
結局、台風は進路を変え、太平洋のどこかで死んだ。
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