3-4「祈り」

 咲は夏休みに入り、ほとんどの時間を外で過ごしているようだった。できるだけ家にいたくないという理由で、部活が休みの日は頻繁に僕を外出に誘う。しかし、先日の水族館のような娯楽施設が選ばれることは稀だ。


 咲はアルバイトをしていないし、親からの小遣いもほとんど期待できない。それでも奢られることを嫌がるから、二人が休みの日はカラオケや漫画喫茶などではなく、図書館といった居座るのに金がかからない場所が選ばれることが多かった。


 今朝の、窓から侵入して僕の肌を焼いていた太陽は、咲との待ち合わせ場所へ向かうころ、半紙のような雲にぼんやりと滲むだけになった。


 今日の天気は曇りのち雨で、台風の接近情報が出ている。今朝のやりとりで、咲は『偏頭痛があー』と嘆いていた。


 僕たちが合流する場所は日によって異なる。彼女が部活の日は学校の近くに集まるし、僕のアルバイトの前はショッピングモールを集合場所に設定することが多かった。この日はお互いに一日中空いていたので、互いの家の中間にあるコンビニが集合場所になった。


 曇っているとはいえ、暑いものは暑い。コンビニに到着するより早く、シャツは背中に貼り付いた。


 最近、寝る前に咲と通話をするようになった。電話特有の少しかさついた音声でも、咲の姿をしっかり感じることができるから不思議だ。


 電話の内容はその日に起こったくだらない出来事から次の日の予定まで、多岐にわたった。昨夜はコンビニの中華まんで一番美味しいのは何か、という話をした。


 言葉を言葉として受け取ってくれる相手は貴重だと思う。


 ほぼ毎日、言葉を交わしていくうちに気づいた。咲はやりとりの前提にある文脈のようなものを無視して、その瞬間の、話している内容に必要な言葉だけを返してくれる。


 父が死んだとき、僕が吐き出す言葉は、どんなかたちを取っても、事故で父親を失った可哀相な僕としての言葉になった。言葉の所有権は今の僕ではなく、人生を丸ごとひっくるめた、僕の十六年間にあった。背景を含めた僕の言葉ではなく、吐き出す文章を情報としてそのまま受け取ってほしい。


「おまたせ」


 コンビニの自動ドアが開いて、閉じる。その拍子に吹き込んできた湿った風の向こう側で、蝉の鳴き声がした。アブラゼミの鳴き声は、夏の太陽が地面を焼く擬音にぴったりだと思う。


「中華まん、さすがに売ってないね」


 冬にアイスクリームを食べる人もいるくらいだし、夏に中華まんを求めている人がいるかもしれない。


「需要が圧倒的に足りないよ。ってか、肉まん食べたせいで熱中症になって死んだら、恥ずかしくて死にきれない」


 コンビニの冷房で身体を冷ましたあと、五〇〇ミリリットルで百円の麦茶を買って店を出た。


 口に残る麦茶の味が、夏の蒸し暑さを余計に増長させている気がする。


「やっぱり暑いね」


 夏という季節は不思議なことに、音や視界に映る景色そのものにまで夏らしい色を付与している。例え太陽が隠れていても、街路樹や遠くの山々は鮮やかな緑色をしていた。一方で、冬は全ての色彩が薄くなっているように感じる。


 たぶん、今ここは、空間自体が夏という属性をしているのだと思う。


 この日は母が朝から出かけていったので、咲を家に招くことになっていた。相手の男と喧嘩でもしない限り、母が帰ってくることはないだろう。


 近くのハンバーガーチェーンで昼食を摂ったあと、咲を連れて自宅への道を進んだ。


 アパートに着いて自転車を停めたあと、咲の手を握った。「暑いよー」なんて言いつつ、咲はいつも手を握り返してくる。「あ、まって私手汗やばいかも」そう言って彼女は離した手を服の裾にこすりつけた。


「なんか緊張するなー」


 咲が僕の家に来るのはこれが初めてだった。母は夜の仕事だから、夕方まで家にいる場合が多い。同様に、咲の母親は昼下がりにはパートを終えて帰ってくるため、彼女の家も時間を潰す場所としては機能しない。もちろん僕たちは、家に人がいる間、相手を呼ばなかった。


 おそらく互いに、二人きりになりたいというより、問題を抱えた自分の家族に恋人を会わせたくない気持ちのほうが強かった。


 鍵を回したとき、扉の向こうから何かの落下する音がした。話を中断し、ドアノブに手をかけたまま耳を澄ませてみる。


「どうしたの?」咲が首を傾げる。もしかしたら母が帰ってきたかもしれない。僕が言うと、「そうなんだ」、予想と異なり、咲は平然とした調子言った。


「挨拶しなきゃね」


 今朝、母は早くから男と外出していった。洒落た格好をしていたのを見たため、二人で遠出したものだと思い込んでしまっていたのだ。

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