3-7「湿っぽい黄昏に笑う」

 花火大会当日の午後六時、僕は会場を目指して全力で走っていた。アルバイトの一人が突然病欠の連絡を寄越したため、人数の都合上、僕が残業せざるを得なくなってしまったのだ。


 正確なことはわからないが、突然の連絡と花火大会当日というところから、彼が本当に体調を崩したのかは疑わしい。


 咲たちとの待ち合わせは五時だった。打ち上げ開始時刻は七時の予定だが、駅は一時間前から目立って混み始めるため、そうであればさらに一時間早く集まってしまおうというのが僕たちの作戦だ。


 アルバイト先から本来の集合場所までは三十分ほどの時間を要する。彼らには先に屋台を回るようにと連絡を入れておいた。そのため僕は、目が回るほどの人混みから彼らを探し当てなければならない。


 誠にキーホルダーを託されて以降、咲と言葉を交わすことはあっても、里緒との関係について話すことはなかった。もちろん、僕が口にしなければ里緒が話題に上がることはない。つまり、僕には里緒のことを持ち出せない理由があった。


 あの日の帰宅後、卒業アルバムを引っ張り出して確認したところ、小学校のある期間において、里緒が似たものを携帯していることが確認できた。カメラの画質の関係もあってか、里緒のものに書かれていた文字列が確認できなかったのが惜しい。


 キーホルダーと結びつけて里緒との関係を訊くためには、それなりの理由付けがいる。普通は他人が遠い昔に付けていたキーホルダーのことなんか覚えていないからだ。


 そうなると、僕が咲に里緒との関係を訊くためには、自らの罪を告白しなければならなくなる。咲に対して、里緒が死んでも悲しまなかった自分を隠し通せる気がしない。


 里緒の名前が入ったキーホルダーは未だに僕のバッグで眠っている。


 駅はひどく混み合っていた。浴衣を着た人々が空間を圧迫するため、改札を通るのにも無駄な労力を使わされる。エスカレーターを上がっている間、身体を動かしていないのに汗が引かなかった。


 ホームに出たときちょうど電車が去っていったおかげで、僕は次の電車に最後尾で乗り込むことができた。


 車内モニターを眺めながら、目的地に到着するのをじっと待った。熱と圧力に囲まれた車内では、時の流れが遅く感じる。どの空気も、人間を凝縮したような匂いがした。肌を覆う湿った熱は、自分と他の乗客、どちらを由来とするものなのかわからない。。


 息苦しい車内では、普段なら気にならない広告や掲示が目に付いた。脱毛しなさい、英語を学びなさい、この本を読みなさい。いくらかの広告に書いてある文章のすべてに目を通したころ、電車は目的地に到着した。


 乗車時間を越える時を経て改札を通ったあと、斜めがけのバッグから携帯を取り出し、咲に電話をかけた。身体のあちこちを周囲にぶつけながら、スマートフォンを耳に当てる。スピーカーは通話相手の検索音を奏でるだけで、呼び出しにすらならない。


 諦めて今度は誠とのトークを開く。彼はすぐに応答した。普段どおり陽気な声の彼に、現在地を訪ねる。


『今、駅を横に出ていっぱい歩いたところにいる』


 もっと客観的なランドマークを教えて欲しかった。こういうとき誠は役に立たない。


『あー、ベビーカステラの屋台が見える。でも周……ったよ……俺……』


 電波が悪いのか、次第に彼の声は聞こえなくなった。仕方なく通話を終了し、再び発信する。今度は誠に対しても、検索音だけで終わった。


 残念ながらというか当然ながらというべきか、僕はベビーカステラの屋台が立つ場所をひとつも把握していない。


 日はまだ明るい色をしていた。マンホールに反射した黄色い光により、僕の視界は丸ごとぼやけたようになっている。電車が発進することを知らせるポップな音楽は、駅の外にいても、ホームに立っていると錯覚するほどの音量をしていた。


 駅から会場まで、通常なら歩いて十分程度だ。しかしこれほど人で溢れかえった道を使っていてはどれだけ時間がかかるか見当も付かない。


 他の道を探そうにも次の曲がり角までは一〇〇メートルほどの距離があり、そこに到達するまでにも莫大な時間がかかってしまいそうだった。


 先の交差点では、警備員が大声で観客を誘導していた。道を塞ぐ人たちの多くは腕を組んで歩く男女や子連れの家族で構成されている。


 自分でシフトを入れたとはいえ、すぐにでも駆けつけて、咲の手を握れないことがもどかしかった。


 一度明度が落ちてから空はどんどん光を失っていくから、そのぶんだけ僕の心にも焦りが募っていった。携帯を確認してみても、咲や誠からの折り返しは来ていない。彼らに出会える可能性を信じて、人混みに流されるしかなかった。


 ペットボトルの麦茶は残り僅かになっていた。周囲を見回し、少し先にコンビニがあることを確認してから残りを胃に流し込む。麦茶は気温と同化していた。これなら有紀の家で出てきたもののほうが断然いい。


 やっとの思いでコンビニにたどり着いたものの、満員電車のような店内を見てすぐに諦めがついた。


『明日は晴れるんだって。楽しみだね』


 昨夜、咲から送られてきたメッセージを思い出す。彼女が言ったとおり、空を見上げてみても雲の気配はまるでなかった。


 携帯の時計は間もなく七時を迎えようとしていた。空の明るさに当てられて、時間感覚がおかしくなっている。もう一度携帯に視線を落としたとき、誠からメッセージが来ていたことに気づいた。


『ごめん咲が周のこと探しに行っちゃった たぶん元の集合場所に向かってる』


 了解、と返信したが、吹き出しは送信待機の表示から変化しなかった。


 背後で子どもの甲高い声を聞いた。その声に魂のようなものを揺らされた気がした。背筋を生ぬるいものが伝う。


 人々の喧騒に、意識がすこし、浮き上がる。脚の感覚が覚束ない。意識が本来あるべき場所から離れていく。目の前の光景が、かつて家族で来た花火大会の記憶と重なった。


 父に肩車をされると、世界が小さく見えた。落ちないように耳を持っててね、と父が言う。母が優しい眼差しでこちらを見る。カラーコンタクトで濁ったその瞳に反射しているのは父だけだった。


 母は性愛以外で人を愛する方法を知らないのだと思う。だからその対象でない僕に愛情を向けることができなかった。父が死んで家族の輪郭を失ったからには、僕を見捨てるしかなかった。


 有紀が自分を見捨てる姿は想像が付かない。彼女と僕は特別な関係で繋がっていて、それは、他の誰にも代えることはできないからだ。しかし、彼女は一年もしないうちにその生涯を終える。


 咲と手を繋いで見る花火に心を躍らせていた。そんな感情抱く自分をいつまで経っても理解できない。


 咲の未来に自分がいることを考えると、以前よりずっと上手く生きていけた。それは間違いない。その未来に向かうことが僕の生きる意味になりつつあった。


 素直に自分の感覚を信じられたら楽だった。


 横を他の来場客に追い抜かれたとき、自分の歩く速度が落ちていることに気づいた。咲に会うのが、怖くなっている。


 このまま咲に会えば、僕の悪い部分をすべて見透かされるような気がした。彼女と合流できず、人混みに揉まれたまま今日が終わればいいのにと思う。それなのに、足を止めることができない。


 今、咲に会ってはいけない。心の傷を癒す前に咲に会えば、僕は間違いなく彼女の温もりに溺れてしまう。


 様々な足音がアスファルトを打ち、大合唱のようになっていた。日が沈みかけているというのに気温はまだまだ高い。足を踏み出したそばから熱気が身体に絡みついて、体温と馴染むより早く別の熱気に襲われる。


 有紀が編入してきたとき、人を殺したことがすぐに知れ渡った。のうのうと生きている犯罪者。生きている価値がない。クラスメイトの声は狭い教室で明るく響いた。


 その言葉は僕の心臓に刺さった。月光に照らされたあの教室にいたのが僕でなければ、普通とは言えないまでも、里緒はきっと現在もちゃんと人生を謳歌しているはずだった。


 里緒を殺したのは有紀で、僕は共犯者だった。


 咲が死んだとき、ちゃんと悲しめる自信がない。


 人が自分への興味を失う瞬間、それまで積み上げてきたものはすべて無駄になる。父が死んで放置されるようになったとき、母が愛していたのは「父を含んだ」家族だったのだと知った。


 僕が与えられた愛情は、父を愛していたことの副産物でしかなかった。僕が思い描いていた家族愛はあの瞬間、意味を失った。


 リビングに置かれた千円札を財布にしまう瞬間、僕は世界でいちばん惨めな気持ちになる。


 贅沢をしなければ一日の食費は千円で足りた。残りは母からの情けのような気がして、余ったぶんはいつも机の引き出しにしまう。しわくちゃだったり真っ直ぐだったりする千円札で引き出しが満たされていく。使い道は未だに見つからない。でも、母のようにならないために使おうという打算はあった。


 僕はたしかに咲のことが好きだった。これを認めることは、自分が母に向かって生きていることを確信するようなものだった。


 咲との関係が深まることを期待しているのに、距離を取る自分とぐちゃぐちゃになって、いつもわからなくなる。狂いそうなくらい必要とされたいのに、恋とか愛とか、そういう不安定なものを媒介にするのが怖い。


 好き、と自信を持って想いを伝えるためには果てしないほどの時間が必要だった。

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