2-8「花瓶に生けられた反駁」

 梅雨に入るとどこに行っても空気は湿っていて、それは、教室も例外ではなかった。裏に水分を帯びた上履きの、廊下に擦れるキュッという音がそこら中から聞こえてくる。身体は空気中の水分を吸ったみたいに重い。


 教室の冷房は日によってちょうどよかったり芯まで凍えるほど温度が低かったりする。寒いときは大抵、スカートの短い女子たちやサッカー部の男子たちの仕業だ。


「今日はずっと雨だってね」


 二時間目の、現代文の授業に必要な教科書たちを準備しているとき、後ろの席にいた咲がどこか嬉しそうに言った。昇降口に傘立てが設置されているものの、持ち去られるのを防ぐためか、彼女の机のフックには折りたたみ傘が吊されている。


 滴ってできた小さな水たまりを、横を通った生徒が踏んだ。


 一時間目は数学Ⅰで、二時間目は現代文、三時間目は体育だった。女子たちは群れを作り、更衣室へ向かっていく。男子ばかりが残った教室に、有紀の姿があった。


 彼女はリュックサックの中身を淡々とかき回したあと、今度はロッカーの前に移動した。結局目的のものは見つからなかったのか、彼女は颯爽と教室を出ていった。


 いつの間にか、そういう光景に見慣れていた。


 有紀は中学生のときに同級生を殺した。その噂が出回り、最初は距離を置いていたクラスメイトの一部は、有紀に嫌がらせをするようになった。中心にいるのは立野たてのというバレー部の女子だ。


 きっかけは、先日行われた体育祭だった。


 クラス全員が参加する競技の一つに大縄跳びがあり、僕たちのクラスは放課後を練習に費やすなどの努力を重ね、三学年すべてが参加するその競技での優勝を目指していた。結果は二十四クラス中十位だった。


 足を引っかけた女子が「有紀にぶつかった」と言い訳し、クラスのほとんどがそれを鵜呑みにした。有紀は悔しさのはけ口にぴったりだった。それをきっかけに、無視は嫌がらせに発展した。


 このクラスでは、彼女相手なら、どんなに理不尽な正義を振りかざしても問題にならない。


 ものを隠す彼女たちも、反撃しない有紀も、くだらないと思う。


 一応は陰で行われているものの、誰が主犯なのかは明白だった。以前の有紀ならおもむろにカッターナイフを取り出し、すぐにでも彼女らの首を切りつけていただろう。


 どうして有紀がいい子で居続けるのか、まるでわからない。やはり彼女は変わってしまった。


 以前、誠が彼女らに注意しているのを見たことがある。クラスのなかでも地位の高い彼に言われたら普通は止めざるを得ないのに、嫌がらせをしている連中はシラを切り、さらに誠は馬鹿なので「勘違いだったならごめん」と気まずそうに言った。さすがの彼女たちも困惑したような顔を浮かべていた。


 誠の憎めなさは、その素直で公平であろうとするところにあるのだと思う。誠が有紀への嫌がらせを止めようとするたび、彼は「あんなヤツまで庇おうとする聖人」のような立ち位置になっていった。


 この日、普段なら校庭で行われる体育の授業は、雨の影響により室内での活動になった。体育館の横には武道棟があって、その二階は大広間のようになっている。教師の指示で台を組み立て、その広間で卓球をして時間を潰すことになった。


 部屋の半分は男子で、もう半分は女子の領域だった。


 二人でペアを作れと言われたので僕は誠と組になった。咲は朋海と組んでいた。有紀はどうなったのだろうと思い視線をやると、広間の端っこ、照明の光が当たっているのかも怪しい場所に制服姿の有紀がいた。今日は体操着を隠されたようだった。


 体育の教師はかなり大雑把な人なので、誠と他愛ない話をしながらラリーをしている間に授業は終わった。


 体育のあとの地理Aは眠たかった。ときどき時計の長針に目をやりながら、資料集を眺めて眠気を誤魔化す。後ろで物の落ちる音がして、振り返ったとき、ハッとしたように瞼を開ける咲と目が合った。床に落ちていたシャープペンシルを拾ってやると、彼女は恥ずかしそうに「ありがと」と言った。


 授業が終わり、トイレに行って帰ってきたとき、有紀の机には花瓶が置いてあった。誠は背を向けて座っているため、花瓶の存在に気づいていない。彼女の姿を窺い見ていると、何度目かのときに花瓶をどかす有紀と目が合った。それが助けを懇願しているように見えて仕方がなかった。


 心臓を直接撫でられるような心地がして、つい目を逸らしてしまった。


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