2-9「月と粘膜」

 その日も朝から雨が降っていた。悪天候は学校が終わってからも当然のように続くので、帰るのが億劫になった僕は図書室でしばらく時間を潰すことにした。六時ごろには一時的に雨が止む予報なので、それまではなんとか粘りたい。


 図書室に人の姿はなく、静かで虚しい空間が広がっているだけだった。


 新書の棚をさっと眺め、目に留まった数冊を引き抜いた。本は物語より、つらつらと事実を並べるものがいい。端の席に腰掛けると、薄暗いせいか、急激な眠気に襲われた。


 昨夜は上手く寝付けなかった。


 始めたばかりのアルバイトから帰ると、家に知らない男がいた。「遅かったね」、男は言う。すらっとしていて身長の高い、家でたびたび見かけたのと同じタイプの男だった。「それ、息子。あまねっていうの」そう言った母の化粧はいつもしているより濃かった。


「夕飯、冷蔵庫にあるから」


 冷蔵庫にはラップ掛けされたハンバーグが入っていた。シンクでは平皿と茶碗が二つずつ水に浸されている。母は男を連れ、自室へ戻っていった。「いいの?」「周は自分でできるから」、扉一枚を隔てて、やりとりが床に転がっている。


 普段は作らないくせに、なんて大声で叫んだらどうなるだろう。


 ハンバーグの表面は石のように固かった。換気扇の下、吸い殻の入ったコーヒー缶が置かれている。母の手料理を食べるのはいつぶりだろう。炊飯器を開けたとき、あまりの湯気と熱気に目が眩んだ。沁みて、目を構成するすべてが熱くなった。


 最初は、ときおり部屋から漏れる二人の談笑を聞きながら固いハンバーグを箸で割った。次第にリビングだけが虚しい空間であるような気がしてきて、イヤホンを取りに自室へ戻り、動画投稿サイトのおすすめ欄から話題の動画を再生した。


 咲や誠もこれを見ているのだと思うと、不思議とひとりではないような気がした。ハンバーグのソースは塩辛かったが、それでも白米と一緒に押し込むことで完食に至った。


 三人分の食器を洗い、風呂に入るといつもどおり眠気がやってきた。壁一枚挟んだ母の部屋は、先ほどとは打って変わり、不自然に静まり返っている。翌日の準備を終えて布団に潜ったとき、「これ聞こえないの?」「大丈夫」、囁くような声がした。


 母親の高い声を聞きながら、寝返りを打った。向こう側には自分の知らない世界があり、知ってはいけない予感がして、怖かった。


「つけなくていいの?」

「いいよ。飲んでるから」


 息づかい、のような音が耳元に迫ってきている。もう一度寝返りを打つ。背を向けると後ろに二人が立っているような気になって、そっと身体を元の向きに戻す。「ぐちゃ」という音がしたとき、堪らずトイレに駆け込んだ。


 塩辛かったハンバーグは、苦くて酸っぱい味に変わっていた。


 照明が消えて真っ暗な台所で、片手鍋と吸い殻が目に留まった。煙草の煮汁を飲むと人は死ぬという話を思い出した。


 朝、平気な顔をして母は料理を作った。ベーコンエッグとみそ汁。男はもういなかった。


「それ、食べて」


 それだけ言うと、母は香水を纏って家を出た。目玉焼きは一口食べて、あとは学校の配布物に包んで捨てた。片手鍋に入ったみそ汁には手を付けなかった。


 ふと重たい瞼を開くと目の前には新書が三冊重なっていて、正面には咲がいた。


「あ、起きた」


 薄暗い図書室で、彼女の明るい声が空気を真ん中から切り裂いた。僕はいつの間にか眠っていたようだった。


「おはよう」


 猛烈な吐き気がして、思わず立ち上がった瞬間、突然身体がすっと軽くなった。ゆっくりと息を吸い込み、それから肺のなかを空っぽにする。「どうしたの?」、という言葉には首を振って応じた。空気は湿っていた。湿った空気は僕に優しかった。


「今日は雨だから、身体づくりだけで終わったんだ」


 咲が力こぶを作るポーズで言った。細い腕に筋肉が盛り上がっているかは、ワイシャツの上からではわからなかった。


 妙に腹が減っていた。リュックからペットボトルを取り出し、胃に流し込む。喉の渇きが癒やされても、まだ、流し込む。そうすることで身体の隅まで冷却されていくような気がした。


「雨、止むまでここにいようと思って」


 雨は家に帰らない理由にちょうどよかった。彼女もそれを言い訳に使っている。僕が気づいたことに気づかれたのか、「まあ本当は違うけど」、咲は薄く笑いながら言った。


「弟がテストで学年一位を取ったから、今日は家族でごはんに行くんだって」


 ぎゃー、と控えめに叫びながら咲は机にうなだれた。雫の、雨樋を打つ音が聞こえる。彼女が伸ばした腕は、少し手を動かせば届く場所にあった。爪が、小さい。


「周、眠そうな顔、してる」


 咲は顔を半分だけ上げた。二重の幅の部分の、肌色がやけに眩しい。


 似た問題を持つ者同士だから、母のことを話してもいいか、と思った。寝起きで判断能力が鈍っているのかもしれない。以前後悔したときの気持ちは思い出せなかった。


 でも、咲とは対等でいたいという思いがあった。


 普段の母や昨夜の話をしている間、彼女は「うわー」とか「あー」とか、明るさを纏ったまま相槌を打った。まるで可能な限り明るく努めようという僕の考えを読み取ったかのようだった。締めに発せられた「やっば」は、ひどく撥音の部分が強調されていた。父のことは訊かれなかった。


「ふたりとも、大変だね」


 大変だね、と僕は笑った。笑い声が静かな図書室で響いた。


「あ、雨。止んでる」


 窓の外の、景色を覆っていた雨粒の線はなくなっていた。「帰るかー」彼女が観念したみたいに言う。返答に迷っているうちに、「たぶんもうみんないない」と咲が呟いた。


 雨雲レーダーによると雨が止むのはほんの一瞬だ。これを逃したらわざわざ雨具を着て帰らなければならない。母がいないことを祈り、立ち上がった。忘れ物の気配がしているみたいに、これまで背を付けていた椅子が、僕を誘っている。


 昇降口に人の姿はなかった。止んだというのは思い違いだったようで、まだ、合羽を着るか迷う程度の雨が降っている。咲は傘を差さなかった。駐輪場の前で別れるかと思いきや、彼女は僕の隣で他愛ない話に花を咲かせている。自転車に被せていた合羽を丸め、前カゴに押し込んだ。


「朋海は早く誠と付き合わないのかな」


 咲が話に飽きる様子はなかったので、自転車を引き、彼女の横を歩いた。適当な相槌を打っている間に話題は二つ、三つと消費され、その過程で咲の家がここから近いことを知った。


 雨脚は突然強くなった。


「うわあ最悪」


 ひい、と言いながら咲はリュックのジッパーを引いた。唐突に降るものだから、僕たちは雨具を準備する間もなくずぶ濡れになる。合羽を着るのは諦めて、とりあえず、リュックだけを包んで雨から守ることにした。咲も雨を受け入れたようだった。


 足を踏み出したとき、「ぐちゃ」という、昨夜聞いたものと同じ種類の音がした。


「えっ大丈夫? ここから三十分あるんでしょーっ?」


 雨は、周囲の音をかき消すまでに勢いを増していた。普段なら軽く耳に入る電車の騒音も、注意しなければ聞こえない。会話も自然と大声になっていた。


「着替え貸すから、雨止むまでうち寄っていきなよーっ!」


 断ろうとして、迷った。家に帰って母とあの男に会うのが嫌だ。同時に、咲と二人きりになれるという甘い感情が心に浮かぶ。反対ながらも同じ目的を持った二つの気持ちのうち、後者を丁寧に切り落とした。返事をするよりも早く咲は僕の前を歩き、「はやくはやく」と急かした。

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