2-7「精神病の女の子」

 カレーを完成させた誠たちが帰ってきたあと、時間が経って苦くなったサラダと、炎天下と相性の悪い熱々のカレーを食べた。料理初心者が集まったにしては美味しかった。有紀は誰とも話さず、ちいさな一口を延々と繰り返していた。


 食事後は少々の休憩を挟み、四人で敷地内の遊園地へ向かった。「まずはジェットコースターに乗ろう」意気揚々と提案した誠の言葉に賛成する。


 ジェットコースターには僕と誠、咲と朋海がそれぞれ隣り合って座ることになった。


 係員の指示に従い、シートベルトを締める。比較的体格がいい誠のせいで、安全バーはすこし緩かった。機体が動き始めるのと同時、後ろから控えめな悲鳴が聞こえてくる。


 機体が上昇するたび、意識を地上に置いてきたような感覚が強さを増していく。顔を上げると、敷地外の街並みとひどく澄み渡った空が見えた。


 次の瞬間、ジェットコースターは突然急降下した。内臓の浮き上がる感覚は一瞬で、嵐のような風を心地よいと感じる余裕があった。


 とはいえ、「吐きそう」という誠の呟きを聞いてからは風を楽しむどころではなくなった。


「一回転するなんて聞いてない」


 降り口の階段の途中、手すりにもたれかかっていた咲が言った。強い風を受けたせいか、彼女の髪は膨らんだままになっている。朋海が整えてやっている横を追い抜いたとき、ローズの甘い香りがした。


 次のアトラクションを降りるころには、遊園地は食事を終えた生徒たちで賑わうようになっていた。まだ顔を青くしている誠の背をさすりながら、橙色に舗装された地面を歩く。太陽光の反射で、視界がぐっと押し広げられたようになった。


 午後三時を過ぎると、陽射しは弱まるどころかどんどん強度を上げていった。手で顔を仰いでいたところ、咲が今度はうちわを使って風を送ってくれた。


 風は、先ほどに比べればほんの少しだけ涼しかった。「よかった」、彼女は目を細めて笑った。


「さっきそこでもらったんだ」


 ペットボトルの麦茶は熱に侵された身体にある程度の活気をもたらしてくれる。しかしその場しのぎの回復手段は長くは持たず、買ったばかりの六〇〇ミリリットルの容器は間もなく空になった。近くに自販機は見当たらない。


「あれ、朋海たちは?」


 そういえば、後ろでしていた二人の声がいつの間にか聞こえなくなっている。つい先ほどまではすぐ後ろを歩いていたはずだ。


 振り返って確認すると、視認できる限界の距離に二人の姿があった。歩くのが遅い彼らをいつの間にか引き離してしまっていたらしい。「まあ、放っておいていいか」と咲が言った。


「周は何か、乗りたいものないの?」


 遊園地というのは、改めてやってくると、想像よりも多くのアトラクションがあることに気づく。幼い子ども向けの乗り物があることを最初は意外に思って、当然かと考え直した。


 遊園地のマスコットがペイントされたベンチ、アイスクリームの自動販売機。胸が躍るというのはこういう感覚を言うのかもしれない。


「えー。周が何もないなら、私、観覧車に乗りたい」


 彼女に連れられて歩く橙色の道の、その端っこに設置されたベンチで、有紀がスマートフォンを触っていた。彼女の白いシャツの、隙間から覗く鎖骨がやけに生々しかった。


 ふわり。風が吹いて、彼女の前髪が浮き上がった拍子にぴたりと目が合う。急いで逸らす。一拍おいて、もう一度視線を送る。彼女は空を見上げていた。白いロングスカートから覗く脚に、黄色い痣がついていた。彼女でも怪我をして人間のように痣ができることが、どこか不思議だった。


「朋海たちに、観覧車行くって言ったほうがいいかな」


 有紀に、こういう場所に来た経験はあるのだろうか。遊園地ではしゃぐ彼女を想像できない。


 彼女が特別学級にいた理由を人づてに聞いたことがある。小学生のとき、校舎裏で野良猫を解体したことが原因だったらしい。本人は自由研究と言い張った、と加えて聞かされた。


「へへ。じゃあ、言わなくてもいいか」


 有紀は精神病を疑われた。精神病とはどのようなことを言うのだろう。典型的なのは自殺願望だろうか。普通ってなんだろう。たびたび考える。僕と有紀の違いは、猫を解体した経験の有無だけだったのではないだろうか。


 僕は有紀に答えを求めた。僕と似たような欠落を抱えた彼女なら、何を生きる意味にすればいいのか、答えを持っているような気がしていた。それなのに彼女は、ただの、普通の女子高校生に成り下がってしまった。


 なぜなら小山有紀は、自分の害になる相手にはカッターナイフを突き立てるはずだからだ。


「あの二人、いまなにしてるんだろうね」


 あっ、何してるんだろうね、と声が出た。最初の「あ」が想像より虚しく響いて、情けなくなった。咲は気にしていないのか、「デートだ」と笑った。僕たちはすでに、振り返っても有紀の姿が見えないところまで来ていた。


「ねえ、周ってさ、小山さんと同じ中学なんだよね?」


 咲の言葉に僕はまた情けない「あ」が出た。


「事件、周の中学校だったよね」


 そこまで言ってから咲は目を伏せて、神妙な面持ちをした。「やっぱり小山さんのことって、本当なの?」耳に、「小山さん」という名前が残った。


 僕もよく知らない。気まずさを演出してそう答えると、「そっか」、咲は眉尻を下げて言った。


「うん。周もきっと怖かったよね。ごめん」


 自分の学校で殺人事件が起これば、普通は登校することすら怖くなる。同級生の様子を見ていれば嫌でも理解させられた。殺されることが怖いのか、里緒の怨念や霊的なことが怖いのか。そのどちらなのか、さすがに直接訊くことは憚られた。


 僕が恐怖を感じなかったのは有紀という絶対的な存在に出会ったからで、本来であれば、自分が殺される可能性に塞ぎ込んでいたかもしれない。


 観覧車は時間をかけて回転していた。運がいいことに列はできておらず、すぐに案内された。「行こ」咲が弾んだ声で言う。うん、と答えた自分の声も、それに引っ張られている。先ほどまでの重たい空気はすでに彼女の明るさで塗り替えられていた。


「楽しかったな、今日」


 四人乗りのゴンドラで、咲の声はよく響いた。風は吹いていないはずなのに、咲の髪は彼女の動きに合わせて大袈裟に揺れる。「ね?」と同意を求める声に、僕は頷いた。


 日は傾いてきているものの、夕日と呼ぶにはまだ早い。中途半端な色をしていた。咲の白いブラウスに黄色い光が乗っかっている。


 彼女は外を見ていた。まだ大した高度ではないものの、それなりに園内を見渡すことができる。僕も彼女に続いて景色を眺めることにした。誠たちを探そうと思ったが、視力が追いつかなかった。


 地上を見下ろすのに飽きて、今度は黙ったままの咲へ視線を送ってみる。二重をなぞるみたいに飾られた長い睫毛に、日の光が絡まり、甘ったるそうに輝いていた。


 柔らかそうな弧を描いた薄い色の唇が一瞬だけ開き、すぐに閉じられる。その間にも観覧車は進み、遊園地の外まで見えるようになっていた。


「校外学習、もう終わりかあ」


 駐車場に、僕たちが乗ってきた大型バスが停まっていた。「うん」、何かに納得するように、咲がひとりで頷く。視線を上げたとき、その表情に、気の遠くなるような儚さを見た。


 どうしたの。頭に浮かんだ文字列がそのまま口を衝く。


「んー。この時間、ずっと続けばいいのにって」


 咲は目を細めて笑うとき、ごく稀に、ひどく空虚な雰囲気を纏うことがあった。和紙でできた折り鶴をポケットに入れて持ち歩く危うさに似た、ある種の儚さがある。憂鬱よりも仄暗い、死、のような色をしている。


「あんな家だから、居心地がね」


 はは、と咲が続けて笑う。彼女が自分を卑下して生きる様子は簡単に想像できた。たしかにそういうとき、自分に生きている価値があるのか、わからなくなる。


「昔、仲良くなった子がいてね、すごく魅力的な子だったの。でも、私より家庭環境に恵まれてて、好きなものも買ってもらえて、それがすっごく羨ましくて」


 羨ましくて、という言葉を僕は不自然に繰り返してしまった。彼女の声色には羨望ではなく、別の感情が宿っていたような気がした。明度が低く、片手で持つには重すぎる感情だった。


「もし同じ環境だったら、同じ立場で話せたのかなって。だから……、いや、うん、ごめん。忘れて」


 彼女は図書室で言えなかった話題の、続きを話そうとしているのかもしれなかった。いや別に、と返した自分の声が、言い切りよりも早く薄れていく。


 彼女は綺麗だった。僕は、彼女と話すことで自分がここにいるということを再認識できる。彼女に出会って、人を好きでいる間は呼吸がしやすいことを知った。


 でも僕は一歩を踏み出せずにいる。それは勇気がないという理由だけではなく、背景に、何度も恋愛に失敗する母の存在があった。


 上空は地上に比べて風が強かったのか、上昇していくにつれてゴンドラが揺れるようになった。角度が変わるたびに日の差し込む方向も僅かに変わり、咲の表情が翳ったり、明るく照らされたりする。空間の、あまりの暖かさに意識が飛びそうな気がした。


「私、生まれ直したい」


 頭に浮かぶのは、普段、天気の話をする咲だったり、食堂の自販機で買ってきたジュースを「量が多い」と言いながら苦い顔で飲み干す咲だったりした。彼女には僕の知らない生活がある。当たり前のようでいて、頭から抜け落ちていた。


 有紀にも僕の知らない生活があるはずだった。見えない部分は僕が思っているよりずっと多かった。断片と断片の間は、僕の都合で埋められている。彼女は何を考えて生きているのだろう。思い返してみれば、たしかなことは数えられるほどだった。


 また、図書室で話そう。胸に湧いたわざとらしい浮遊感を抑えて言った。「うん。話そう」咲が穏やかに言ったとき、彼女の中にある気持ちが自分と同じだったらいいなと思った。


「ごめんね。私ばっかり」


 咲はずいぶん人間らしいと思う。


 思考からそのまま紡がれた声は、声帯や空気を介さず、直接咲に届いたような気がした。咲はしばらく目を丸くして、それから堰を切ったように笑い出した。


 僕たちは間もなく最高地点に到達しようとしていた。日が遮られることのなくなったゴンドラのなかで、咲の笑顔に陰は落ちない。つられて口角が上がってしまいそうだった。


「そんなこと、初めて言われた」


 銀色の手すりが、車内にある光のごく一部だけを鈍く反射している。円柱状の面で映るものの輪郭が歪んでいる。その輝きのなかに咲はいなかった。僕もいなかった。


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