2-6「夏がこちらを覗いている」

 編入生が元犯罪者だという噂を聞いたのは、クラスに彼女がやってきてから一週間が経ったころだった。噂は風のように流れ、いつの間にかクラスに知らない人はいないほどまで勢力を広げた。


 噂を聞くようになってからさらに一週間が経ったころ、日帰りの校外学習が開催された。


「いや、『え?』じゃねえよ。同じ中学なんだろ。人殺しとか冗談じゃない」


 誠の言葉に、そうだけど、と答える。「違うなら違うって言ってやれよ」、ジャガイモの皮を剥きながら、誠は溜息を零した。


 この日は校外学習の一環として、都内の大型レジャー施設に来ていた。敷地はかなり広いようで、バーベキュー場や遊園地の他に、プールまで備わっているらしい。ここで生徒同士の親睦を深めることが高校の通例になっているようだ。


 事前に決めた班ごとに飯盒炊さんを行い、食事後は遊園地で遊んでいいことになっている。


 僕の班は誠と咲の他に、咲の部活仲間の朋海ともみが所属している。二人は離れた場所で米の面倒を見ていた。


「うちの班、誘うか?」


 誠が苦笑いを浮かべながら僕の後方に人参の先端を向ける。振り返らずとも、そこに孤立した有紀がいることは知っていた。


 先ほど見かけたときは、作業をしている班員の横でスマートフォンを触っていた。班内で相手にされず、役割をもらえなかったことは端から見ても明白だった。


 里緒を殺した人物について、テレビでは「中学一年生の同級生による殺人」としか報道されていない。もちろん有紀の実名は出ていないはずだ。


 新年度開始から一ヶ月で編入、というのはたしかにおかしい。しかし、それだけで殺人犯だと決めつけるのには無理がある。石橋の存在にはすぐに思い至った。


 有紀が自ら明かさない限り、石橋から流出するとしか考えられない。


 僕は鍋で具材を炒めながら、賛成とも否定とも判別しづらい返事をした。メインの料理を担当するという、重要な仕事は僕に優しかった。集中しているフリをして適当な返事ができる。どちらとして受け取ったのかはわからないが、誠は「うーん」と唸った。


 一週間で完全に馴染んだように見えた有紀は、その後、散々な学校生活を送ることになった。


 校外学習の班決めの際、最初は有紀の確保に精を出していたクラスの中心人物たちは、噂の蔓延を機に彼女と距離を置き始めた。それでも班に所属しているという事実は変わらず、結局、彼女らは有紀を放置することに決めたようだった。


「周、変わろうか」


 声のほうを振り返ると朋海が立っていた。


「え、俺と交代じゃないの」

「誠はもっと働け」

「なんでだよ」


 誠に同情の眼差しを向けると、彼は僕にだけ聞こえる声で「助けてー」と言った。


 咲曰く、「今日は夏日」らしい。カレー鍋に当たり続けていたら熱中症になってしまいそうだ。一刻も早くコンロの熱から解放されたかったので、誠を無視して朋海に簡単な引き継ぎを行う。彼女は「まかせろ」と腕を捲りながら言った。


「咲ならうちらの席で休んでるから」


 へ、という間抜けな声が出た。


 そう言われたらひとりでいるのも不自然だし、朋海の助言どおり自分たちの席へ戻ることにした。有紀のほうへ向かおうと一瞬だけ考えて、やめた。


 僕はクラスの空気に荷担することも、有紀を擁護することもなかった。殺人犯の仲間だと思われるのは困る。僕はできるだけ波のない高校生活を営んでいたい。


 それに、彼女が孤立しているのは、本来孤独で冷淡であるべき有紀が普通の人間に擬態して生きる道を選んでしまったからだ。彼女は自分を偽ることはしないし、他人に媚を売ることもない。


 あれは僕の知る小山有紀ではない。


 いや、僕は怖れているのかもしれない。有紀は里緒を殺した。彼女と話すことにより、正しさで色づけされたこの一ヶ月半の学校生活から足を踏み外すことが怖い。咲と関わることで得た暖かみを失いたくない。


 机に戻る際、石橋と目が合った。クラスは違うものの教室自体は隣り合っているため、こうして顔を合わせる頻度は決して低くない。授業によっては同じ教室で受ける場合もある。


 すれ違うとき、石橋が「よかったじゃん」と言った。


 言葉の続きを待っていると、彼女はゆっくりとこちらを振り返り、「編入してきて」と呟いた。頭に浮かんだ言葉たちは、彼女が早々に歩き始めたことで霧散した。引き留めるのは違う気がしたので、僕は素直に元の方向へ足を進めることにした。


 噂を流したのが彼女だった場合、僕に「殺人の協力者」という称号が付くのも時間の問題だ。それが事実と違ったとしても関係ない。僕への容疑で、冷たい目をする咲が脳裏に浮かぶ。


「周、おつかれ」


 爽やかな声を聞き、自分がいつの間にか机に戻ってきていたことを知った。


 柱にかけられた温度計は、料理開始時に見たときより三つほど目盛りを増やしていた。風からは清涼感が失われ、空気の動きを感じるたび額に汗が滲む。それでも咲が言った「夏日」の気温には一度、届かない。


「少しでも太陽、隠れてくれればいいのにね」


 咲がそう言った瞬間に雲が太陽を隠すから、熱で火照った脳の異常もあってか、一瞬、僕は目の前にいる人物を魔法使いのように錯覚した。実際、不思議なことに、これまで咲が教えてくれた一日の天気が外れることはなかった。


 終盤とはいえ五月の段階でこれほど暑いのだから、真夏なんて季節が来てしまったら僕はきっと生きていけないだろう。雲が風に流され、間もなく太陽が顔を出すことを憂いていると、隣から生暖かい風が飛んできた。


「涼しい?」


 咲が「校外学習の手引き」と書かれた冊子で僕を仰いでいた。生暖かいことを正直に伝えると、「あはは」、彼女は口の中で弾ける飴みたいに笑った。


「ねえ、知ってる? 朋海ね、誠のこと狙ってるんだって」


 なるほど、それなら彼女が半ば強引に誠をその場に残したことにも説明がつく。「ね、お似合いだよね」咲はすべてを知っているような顔で笑った。


 彼女はいつも、ころころと表情を変えながら話す。信号機のように瞬間的なものではない。それは季節の移り変わりに似ていた。

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