2-5「信仰心の墓場」
咲と図書室で話した翌日、教室に入る前から騒がしい気配を感じた。
教室前方の扉が開放されているとき、クラスの喧騒はひとつ前の教室にまで漏れる。だから僕は教室に入る前から誰が登校してきていたのかがわかっていた。それにしても、誠が始業前にいるのは珍しい。
教室に入ると、全員の視線がこちらを向いた。まとまっていた視線たちは、僕の姿を捉えたそばから元の方向へと戻っていく。疑問に思いつつも席に着くと、「おはよう」、クラスの女子と話していた咲が明るい声で言った。おはよう、全く同じ挨拶をする。
「編入生、来るんだって」
咲が指した方向を見ると、教室の奥、最後尾に机と椅子が一つずつ増えていた。
椅子を引いて机にリュックを置いたとき、「女子って噂、流れてんの」咲と仲のいい朋海が弾んだ声で言った。どうやらクラスに新しい女子が入ってくることに対して、一部の生徒が騒いでいるらしい。
「さっき廊下で
誠は平然と担任の名前を呼び捨てにする。本人の前ではちゃんと敬称を付けるからタチが悪い。だが、生意気ながらも人懐っこい彼が教師からも好かれていることは傍目からでもわかる。
「あの人たちに似てる。えっと、なんだっけ」
そう言って彼が見せてきたスマートフォンには六人組のアイドルが表示されていた。
「この人たちを合わせて二で割った感じ」
「せめて三で割ってあげてよ。顔が三つになっちゃう」
隣にいた咲が呆れた顔で言った。阿修羅像のような転校生が教室に入ってくる光景はきっと滑稽だろう。
教室の喧騒というのは、鼓膜に親和的な性質を持っている。声は脳のてっぺんまで上昇し、天気雨のように優しく降り注いだ。
机のなかを探り、一時間目に必要な数学Ⅰの教科書とノートを引っ張り出す。つられて顔を出した現代文の教科書は強引に押し戻しておいた。
昨日は帰宅後、咲に相談を促すメッセージを送るようなことはしなかった。すでに空になっていた部屋で制服を脱ぎ、風呂に入るころには罪悪感が勢力を強めていた。
なぜ咲に話してしまったのだろう。
彼女が僕の母親を救えないように、こちらも咲の家の問題を解決する手段を持っているわけではない。それに、無理に悩みを引き出して傷を癒やしてやることに意味はない。
今、僕にとって重要なのは編入生が美人かどうかではなかった。新たな顔のクラスメイトが増えたところで、これまでと変わることはほとんどない。いずれは日常の一部になり、顔や名前が目に留まることはなくなる。
チャイムと同時に担任が登場し、教室から声が消える。残ったのはチャイムの余韻と、布の擦れる音だけだった。
「もう知ってるとは思うけど、うちのクラスに編入生が来るから」
担任はバインダーを教卓に置くと、「じゃあ」と言った。
教室の扉の開く音がする。担任の大きな声は僕の眠気と相性が悪かった。
数学Ⅰの教科書の、右下の角が折れ曲がっていた。数ページが重なって折れているようで、表紙から一枚ずつ、指先を使って伸ばしていく。爪が教科書を引っかいて、背中の肉を直接撫でられたような、不快な感覚がした。
「名前は小山有紀、入りたい部活はありません。出身中学は――」
視線が、いつの間にか上がっていた。
「編入生」の彼女と目が合ったとき、母のことも咲のことも、すべてがどうでもよくなった。五月中旬に特有の、やけに湿度の高い空気が身体の奥にまで入り込んでくる。身体の隅々まで、血液が行き渡るのを感じた。目覚ましが鳴る直前に目を覚ましたときのような、爽快な気分がしていた。
「よろしくお願いします」
彼女が言ったあと、気づけば他人と同じように拍手をしていた。もう一度目が合ったとき、有紀は小さく笑った。来ちゃった、と言っている気がした。拍手を浴びながら、彼女がゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「小山の席はこっちだぞ」
担任が笑いながら言った。余計なことをするなという意味を込めて睨みつけたが、彼は気づいていないようだった。有紀は「あー、そっちか」とスロー再生みたいに言う。
有紀が横を通るとき、僕は目を合わせなかったし、彼女もおそらく僕を見ていなかった。
足音は教室の後方へ向かい、それから奥へと消えていった。「美人じゃん」「やば」ざわついた教室のなか、椅子を引く音が鮮明に聞こえた。
一時間目の数学は何ごともなかったかのように始まった。移動教室でも僕は前方の席に着いているため、有紀の様子を窺うことはできない。
でも、そこは異様な空間だった。僕たちは殺人鬼と一緒に分母の有理化に関する説明を聞き、一緒に演習問題を解き、一緒に答え合わせをした。
彼女はどの授業でも休んだり異常行動を取ったりはせず、黙ってその時間を過ごしていた。一時間目、クラスメイトは誰も死んでいない。
休み時間になると、彼女の周りには人が集まった。一方で僕はどんな言葉をかけようか悩んでいた。最初に渡すべき言葉はなんだろう。ずっと君を待ってた、会いたかった、あのときの話の続きをしよう。浮かんだ言葉は音に変換されることなく消える。
誠が「どこから編入してきたの?」と質問を投げかけているなか、僕は自分の席で次の授業の準備をしていた。
「父の転勤でいろんなとこ回ってるの」
編入前の高校について彼女は、「遠いところ」と誤魔化していた。この奇妙な時期に編入してきた理由について、彼らは有紀の言葉をそのまま受け入れたようだった。
有紀と話す機会はなかなか訪れなかった。
彼女のヘラヘラとした受け答えは、クラスメイトたちに「接しやすい」という好印象を与えたらしい。彼女の回答にはちょうどいいユーモアが混ざり、ときおり笑い声が上がった。彼女の目に冷たさはまるで感じられなかった。
昼休み、彼女の周りには咲を含めたテニス部の面々や、クラスの中心を担う女子たちが群がった。有紀はその日何度目かわからない質問攻めを受け、困ったような笑顔を浮かべている。それから彼女は甘ったるそうな菓子パンを、ハムスターのように食べた。
誠は僕の視線に気づいたのか、卵焼きを咀嚼しながら「美人だよな」と呟いた。それに対して他の男子が賛同する。美人、と口に出して、自分の声ではないような気がした。
違う、と思った。
小山有紀は人を寄せつけず、他人を見下し、もっと瞳の奥に冷たさを宿す存在だった。ちいさな一口で菓子パンを囓る彼女は、あのとき話した小山有紀とは似ても似つかなかった。
帰りのホームルームが終わり教室にいた生徒が数人になったころ、その編入生は僕の席に近寄ってきた。
「ねえ、次、いつ空いてる?」
抑揚のついた、美しいくらい人間的な声だった。彼女のほうへ視線を向ける直前、教室の出口へ向かう咲と目が合った。
開きかけた喉は収縮し、生まれるはずだった音が真っ逆さまに落ちていく。胃に溜まった言葉を吐き出すよりも早く、僕は席を立った。足を踏み出したとき、後ろで、有紀の首を傾げる気配がした。
五月中旬は曖昧な空気をしている。
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