4.絶対に止める

 ボクがそれを笑ったのだと理解できたのは、雪永が手のひら全体で絞めるように自分の首の後ろを強くもんで、くるりと背を向けた時だった。

 ボクは雪永に近づこうと左足を一歩踏み出す。

「ついてくんなッ!!」

 すると、雪永は切羽詰まったような表情で激しく怒鳴った。

 ボクは怯んで立ち止まる。

 雪永が、ズボンのポケットの中から、雪のように真っ白ではないけど白に近い色の物を、カサカサという音と共に取り出した。

 直後、雪氷が取り出した物をボクに向かって思い切り投げつけてきて。

 それは、ボクの右腕にぶつかって、雪の上にすとんと落ちる。しゃがんで確認すると、それが携帯用カイロであることが判明した。

「……カイロ」

 ボクが戸惑いながらぽつりと呟くと、「早く帰れ」と雪永が低い声で命令してきた。

「唇は紫だし、鼻や耳は真っ赤で顔は青ざめてる。一刻も早く家に帰って身体あっためねぇと、死ぬぞ」

 死ぬぞだって? 笑える。ボクは死にたいんだ。そのために外に出た。君にいじめられるのがつらくてしんどくて苦しいから、解放されるために、死ぬと決めた。

 そうだよ。君のせいだ。腕が痛むのだって、ボクが自殺しようとしたのだって全部。ぜんぶ。自殺しようとしただって? 過去形にすんな。まだ諦めてないんだから。

 でも……。でも、何でそんなこと言うんだ。君が。いじめっこの君が。ボクの体調を心配してくれているかのようなことを。

「じゃあな」

 雪永が別れを告げる。ただの別れではなく、最期の別れにしか感じられなかった。

「ボクは今から家に帰るけど君もそうなんだよな? ちゃんと家に帰るんだよな?」

 ボクは物分かりの悪い子供みたいに縋るように尋ねる。

 雪氷は即答してはくれなかった。しばらく間を置いてから「ああ」と返した。

「帰るに決まってんだろ。このままずっと外にいたら凍死しちまうからな」

 嘘吐くならもっと上手く嘘を吐いてくれよ。

 数分後に死ぬことが決まっていて、あとはもう死神が迎えにくるのを待つだけの患者のように、穏やかに微笑んだ。

 もうやり残したことはない、という聞こえるはずのない心の声が聞こえた気がした。

 不安と恐怖で胸が押し潰されそうになる。

 雪永は──、

 がこん、きゅっ。現れる直前に聞こえた、コンクリート製の溝蓋が踏まれて戻る音。雪を踏み締める音。二つの音が耳に響く。

 雪永は、今から自殺するつもりだ。

 既に勢いよく駆け出していて、見る見るうちにダウンジャケットを羽織っている背中が離れていく。

 眼前にある空気を肺の奥底まで深く息を吸い込んで、ありったけの声を振り絞って、ボクは叫んだ。

「雪氷!!」

 だけど、雪永は足を止めることも振り返ることもなく走り続けている。

 目的地──自殺する場所にただひたすらに向かっているように見えて、ボクは急いで雪永の後を追いかけた。

 運動音痴で足が遅いこのボクが俊足の雪永に追いつけるのか。とか考えている暇があるなら少しでも手足を動かせ。

 まだ走って数分しか経っていないのにもう息が切れてきて、口呼吸になる。

 慌てて鼻呼吸に戻したけど息苦しくて、酸素を欲して口呼吸をしてしまう。

 息が続かない。本当に運動不足だ。自分を呪いたい。

 急がなければいけない。だというのに。最悪なタイミングでくしゃみが出そうになって、俯いて口内の肉を噛んで止めた。

 すぐに顔を上げると、前方を走っていた雪永の姿が見当たらなかった。

 思わずパニックになる。

 だけど、大丈夫だと必死に言い聞かせる。

 雪永がいなくなったのは死んだからではない。狭い路地裏から桜が等間隔で植えられている大通りに出たからだ。

 今いる狭い道とは打って変わって広い道路が目の前に迫ってきて、自動車やトラック、バイクの走行音が大きくなる。

 間違っても大通りに飛び出さないように立ち止まった。

 視線だけ右に動かして遠くの方まで確認したけど、雪永らしき姿は見つからない。

 だから。消去法で左だと確信して、確認せずに左に曲がり再び走り出した。

 雪永の後ろ姿が再び前方に現れたこと。選択を間違えなかったこと。それらのことに、安堵できないぐらい、後ろ姿が遥か先にあって、心が折れそうになる。

 水分を欲している乾燥し切った喉が。とうとう限界を迎えたらしく、ズキズキと痛んで咳き込む。

 身を切るような風を顔面や全身に浴び続けて、何度か意識が吹っ飛びそうになりながらも、ひた走った。

 今にも耳がちぎれそうで。いや、たとえちぎれても。手足がもげても。背中を引き裂かれても。ボクの身体が壊れても。

「あさひ……!!」

 絶対に止める。止めてみせる。今まで心の中で憎くて何回は呼んだことはあっても、こうして下の名前を口にしたのは初めてだ。

 でも、一度呼んだらそこからはもう、狂ったように何度も繰り返し呼び続けた。

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