5.ボクを残して死ぬな
どんなに必死に走っても、ボクと雪永の背中の距離は一向に縮まらない。
プールの水の中を歩いている時や、米の稲を植えた田んぼの泥水の中を歩いている時と似たような感覚がする。
手足が、身体が重くて必死に足掻く。
雪永の背中が遠い、と諦めかけたその時だった。雪永が初めてこちらを振り向いたのは。奇跡が起きた、と胸の中に希望が芽生える。
ところが、よく見ると雪永の視線はボクではなくボクの後方に向けられている。
ボクは振り向く。ボクの右斜め後方を走っている一台の運送用の大型トラックを捉えた。
希望は一瞬で打ち砕かれたけど、雪永が自殺しようとしていることに気づいて、自殺を止めようとしている人間は──ボクしかいない。
ボクが諦めば、ボクが一瞬でも立ち止まれば、ボクの目の前で雪永が死ぬ。
嫌だ。死ぬな。ボクを残して死ぬな。
「あさひッ!!」
声が枯れて出なくなっても構わない。大嫌いで大好きな君の名前を悲鳴を上げるように呼ぶ。
さっきより、少しだけ背中が近づいた。気のせいではないと信じたいから信じる。
トラックが道路の段差を越えるガタンという音が耳のすぐ近くで聞こえたのは、この際無視する。
遠く感じていたボクの頭がおかしかったんじゃないか、と疑いたくなるぐらい走れば走るほど背中が近づいてくる。
それとも、これこそが火事場の馬鹿力ってやつで俊足になったのか。
あっという間に追いついて、車道に飛び出そうとした雪永を羽交い締めにして止めた。
しかし、雪永の足が、茶色の泥や雪で汚れていて、何箇所か破れているぼろぼろの運動靴がまだ車道にある。
雪永の身体を、根が太いさつまいもを引っこ抜くように残っている気力体力全てを振り絞りながら、自分がいる歩道側に引っ張った。
自分より身長が約二十㎝高い雪永は重くて、呻き声がひび割れた唇から漏れる。
もう一度引きずるようにして引っ張った時、不思議と体重が大幅に減ったような気がするほど軽くなった。踏ん張らなくてもすんなり動く。
それでも。間一髪だったようだ。雪永の足と靴が歩道に無事に上がった刹那、大型トラックが激しい音を立てながらボクたちの顔面すれすれのところを、通り過ぎていった。
排気ガスを吸わされて、不快な気持ちになりはしたけどひとまずほっと胸を撫で下ろす。
でもその一方で。自殺を止めた時にボクに向かって、何で止めるんだ!? などと、大声で怒鳴り散らして暴れ出すかと思われた雪永が、終始無言で抵抗しなかったことを奇妙に感じた。
雪永がいきなり駆け出して自殺しようとした出来事全てが夢であって欲しい。
そんな願っても詮無いことを願うのは、自分が打ちのめされている証拠だと思う。
「離せよ……」
再遭遇した直後に発した第一声が、思いの外静かで落ち着いていたので、羽交い締めを解いた。
「……もう……死ぬなよ」
ボクは息切れしながら懇願した。
「何で止めたんだよ……?」
意外にも早く返事が返ってきて。もっと意外なのは、ゼェハァと肩で息をしているボクとは違い、雪永の肩は動いていないことだ。
あんなに走ってたのに息を切らしていない。
「それは……、」
「死んで償おうとしたのに」
「ボクはそんなこと望んでない!」
「……お前、今日降りつもった雪に埋もれて死のうとしてたよな?」
ボクは思わず息を呑んで俯いた。
雪永の言った通り、ボクは誕生日かつクリスマスである今日、凍死するつもりだった。
だから、雪と接触する面積を増やすためにタイツは履いてこなかったし、制服の袖を捲れる限界まで捲り上げた。
当然、制服の上にジャンパーを羽織ってこなかったしマフラーや手袋も着けてこなかった。
でも、雪永もボクと同じで薄着で防寒具を一切身につけていない。
「死のうとしてることに気づかない方がおかしい。あの狭い路地裏の四十㎝の雪が降りつもった地面にうつ伏せで寝そべって、身体の上半身が雪に埋まってる……。死を切望するまでお前を追い詰めたのは俺だろ? だからわざと走る速度を落としてトラックに轢かれてぐっちゃぐちゃになるところを目撃させようとした。いじめっこが目の前で消えたらスッキリすると思って……」
ボクは顔を上げて雪永を鋭く睨みつけた。
「スッキリするわけがない。死んで逃げるな」
今度は雪永が息を呑んで、その場にへなへなと座り込んだ。
「ゆ、雪永?」
心配になって声をかけると雪永はサイドを刈り上げたマッシュヘアの頭を掻きむしった。
髪はぐしゃぐしゃになり、雪永のせいでボクの心の中もぐしゃぐしゃにる。
「八つ当たりいじめだよ……」
「えっ?」
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