2-01b話:日が明けて、夢から覚めては、変わるもの2

 リコリスはアネモスの部屋に向かい、扉をノックして入室の確認をする。


「王子、リコリスです。失礼してもよろしいでしょうか?」


 この五年の間にリコリスが世話をしていた貴族の子どもたちは、まだ起きていないことが多かった。

 そして、アネモスは虚弱体質だ。

 だからこそ、アネモスもまだ起床していないだろうと彼女は思っていたが……。


「……うん」


 予想に反して部屋の中から王子の声が聞こえてきたことに驚きながらも、リコリスは一言断りを入れて扉を開く。


「おはようございます。王子殿下」


 一礼ののちに顔を上げた彼女は更に唖然とすることになる。

 何故ならば、王子はすでに着替えを終えており、椅子に座って本を読んでいたからだ。

 これまでの使用人たちの態度から考えると、リコリスよりも先に世話をしに訪れた者がいるとは考え難い。


(着替えが自分で出来るというのは……本当のことだったのね)


 つい先日、着替えの手伝いをする際にアネモスが口にしていた言葉を思い出し、リコリスが溜め息をつく。

 彼女の態度から呆れられたと思ったのだろうか。

 アネモスは一瞬怯えた表情でリコリスを見ていたが、おずおずと朝の挨拶を彼女に返した。


「おは……よう」

「お白湯をお持ちしました」


 リコリスが手に持っていたピッチャーを、アネモスが本を置いているテーブルの上に置こうとする。

 すると、王子は広げていた本をぱっと閉じて、膝の上に仕舞い込んでしまった。


(そう言えばこの子には、ちゃんとした教師がついているのかしら……。ヴァレアキントス殿下なら、王子教育の手配をされるでしょうけれども……)


 少年はどのような本を読んでいたのだろうか。

 侍女には見えなかったが、カラフルな絵が描かれていたため、絵本だったのかもしれない。

 ふと彼がどのような書物を読めるのか気になりながらも、彼女は素知らぬ振りをしてコップに白湯を注ぐ。


「どうぞ、お召し上がりください」

「……」


 目の前に出された白湯を目を瞬かせて不思議そうに眺める王子に、彼女は問いかけた。


「……お毒見はご入り用ですか?」

「……? ううん。飲んでいいの?」

「もちろんです」


 単純に他人から奉仕されることに慣れていなかったようだ。

 王子らしからぬアネモスの反応によって、本日早々にリコリスから王と王妃に対する苛立ちが募っていく。


 彼女は沸き上がる怒りを抑えるように、ベッドからシーツを剥ぎ取った。


「……」


 アネモスは、リコリスの様子をチラチラと横目で見ながら白湯を飲んでいる。


 シーツや寝巻の回収が終わり王子の様子を眺めたリコリスは、ふと彼の髪の毛の荒れ様が気になった。

 王子は髪が長いことをあまり気にしていないのか、それとも他人からの目線を目の当たりにすることを恐れているのか……。

 いずれにせよ、前髪で目が隠れているだけでなく、全体的に髪が乱れている。

 寝起きのまま、整えていないことが良く分かる様子だった。


「王子殿下、お髪を解かしましょう」

「え?」

「それに前髪も、あとで前が見えるようにいたしましょうか」


 あわよくば、国王を彷彿させる髪を綺麗さっぱり切り落としてしまいたい。

 彼女はそう思いながら、持っていた櫛を懐から取り出し、アネモスに断りを入れて近寄ろうとしたが……。


「あ! だ、だめっ!」

「えっ?」


 アネモスが顔を真っ青にして立ち上がり、その勢いで椅子を倒すとリコリスから思いっきり遠ざかった。

 彼女は呆然としながら、伸ばしかけたまま行き場を失った手をゆっくりと下ろして少年の様子を見守る。


「か、かみは、このままで良いよ……!」


 髪の話をしていると言うのに、王子は何故か胸元を隠すように両手を組んだ姿勢をしている。

 彼の様子はリコリスを警戒しているようでもあり、まるで両手で何かを握り締めているようでもあった。


「しかし……そのままでは前を見るのがおつらくありませんか?」

「いいの、これで」

「……承知いたしました」


 不安そうな視線を送りながらもふるふると首を振る王子に、リコリスは残念に思いながらも強く主張すべきことではないと思い、引き下がった。


(この子は憎い王たちの子ではあるけれど……。この瞳を見ていると、レンデンスを思い出すことが出来て……少し懐かしく感じるのよね……)


 櫛をしまい瞼越しに自身の眼に触れた彼女は、赤子にして命を落とした我が子の姿を思い出そうとする。


(私の瞳からは、もう……あの子の色を思い起こすことは出来なくなってしまったもの……)


「朝食はこれからお作りしますので、それまでお待ちください」

「……う、うん」


 今度はどんな料理が出てくるのだろうか。

 そんな期待感が籠った眼差しを隠れた前髪の下から向けているのが良く分かるアネモスの様子に、彼女は苦笑する。


 内心仕方ないと思うリコリスの表情は、どこか優しく緩んでいた。


(あまり期待されても困るのだけど……。……この子からの信頼を得られるようにするには、気に入ってもらえるものを作らないといけないわね)


 衣類をまとめて手に取ると、リコリスは一礼をしてアネモスの部屋から退室した。


 リコリスが扉を閉じたのを見届けた少年は、膝の上に置いていた本をテーブルに広げ直し、顔を綻ばせて呟いた。


「昨日のリコリスのごはん、おいしかったな。今日のごはん、なんだろ?」

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