1-09話:第一王子、アネモス・ノルフィオーレ

「アネモス。私だよ。君の叔父の、ヴァレアキントスだよ」

「……っ」


 公爵が部屋の扉を軽くノックし、声をかけると、部屋の中から微かな物音が聞こえてきた。

 そのことから中に誰かがいて起きていることは分かる。しかし、物音が止んで少し待っても、返事はない。


「入るよ?」


 公爵は部屋の主の反応に慣れているのか、もう一度扉をノックすると躊躇いもせずに部屋の扉を開く。


 リコリスは部屋の中を無理矢理に覗き込むようなことをせず、公爵の後ろで静かに目線を落として待機した。


「アネモス。起きているんだろう?」

「おじ、うえ……」

「良い子にしていたかい?」

「うん……」


 幼く、か細い声が部屋の奥から聞こえきたことで、リコリスははっと顔の位置をそのままに目線だけを上げた。


 彼女の角度から見える室内は、本当に王子の部屋か目を疑いたくなる内装だった。

 リコリスは思わず目を見開き、廊下から室内を更に観察した。


 レンデンスから奪い取ったと思われた赤子用の玩具は、歳を経たため当然もう処分してしまったのだろう。

 しかし、例え赤子の玩具を捨ててしまったとしても、年相応の男子の部屋にしては、部屋は異様に質素だった。


 ベッド、テーブル、イス、チェスト……生活に最低限必要な物以外は、何もない。


(ロゼルヴェルヴェーヌ……レンデンスにあのような扱いをして立場を奪っておきながら、自分たちの子どもですら不幸な境遇に陥れるなんて……! 許せないわ!)


 想像していた以上の不遇な環境を王子に強いていた国王と王妃ティファレに対し、リコリスは心の底で怒りを募らせる。


(せめて第一王子が幸福であれば、少しでもあの子は報われたでしょうに……! なのに……!)


「リコリス」

「!」


 リコリスの眼差しが次第に鋭くなりつつあったその時、いつの間にか室内に入っていた公爵から声をかけられて彼女は我に返った。


「は、はい」

「入ってくれ」

「失礼いたします」


 表情を無に戻したリコリスは、何事もなかったかのような振る舞いで室内へ一歩踏み出す。

 内心、国王と王妃への復讐心を滾らせながら……。


「っ! おじうえ……?」


 室内の奥にあるベッドのそばに立つ公爵へと視線を向けると、ベッドの上で体を起き上がらせていた子どもがビクッと体を震わせて彼にすがろうとした気配が視界の隅に映る。

 リコリスの目線は多少鋭かっただろうが、彼女は怒りの感情を決して表に出していたわけではない。おそらく彼は、人見知りなのだろう。


「アネモス。彼女がお前の新しい侍女だよ」

「……」


 リコリスは子どもに目線を向けないように、改めて顔と共に視線を下げて一礼する。まだ王子を正確に目視出来ていない彼女は、彼がどのような外見をしているかをまだ目の当たりにしていない。


「じじょ……?」

「お前のお世話をする人だよ」

「え……」


 不安そうに揺れる王子の声に、公爵が安心させるように語りかける。


「……ぼく、おせわされるのやだ……」


 王子はちらりとリコリスを一瞥すると、ぎゅっと握り締めた毛布をそのまま頭からすっぽりと被ってしまった。


「ぼく、ひとりで良いよ……」

「アネモス……」

「いい子にしてるから……だから……」


 王子の様子は、まるで内に閉じこもることで、何かから逃れ、耐えるように感じられる。彼は布団の中から震える声色で喋ると、叔父の袖をぎゅっと握り締めていた。

 一人で良いと言いつつも、彼は叔父を引き止める。その仕草から、本当は一人では心細いのだろうことが感じ取れた。


(こんなときこそ、親がそばにいてあげるべきよ……!)


 王子の両親に対し、リコリスは怒りばかりが膨れ上がっていく。


(それに、こんな仕打ちをするくらいなら、この子ではなく、レンデンスが生きているべきだったわ……!)


 彼女がアネモスを羨んだその瞬間、彼の様子に異変が訪れた。


「あ……、う……! うぐっ」

「アネモス?」


 布団を被って縮こまっていたアネモスが、辛そうな呻き声を上げ始めたのだ。彼は公爵の袖を一度だけ強く引っ張ると、すぐに手を離して咳き込み始める。

 同時に、扉の付近に控えていた公爵の侍従が、どこかへ飛び出していった。


「まさか……!?」

「お、おじ……うあ……! こんっ! こほ、ぅっ、うぐっ!」


 慌てた公爵が布団を剥がすように捲ると、王子の姿が露わになる。

 アネモスは部屋着を纏い、横になって背を丸めていた。苦しそうに口元に手を当てて咳を繰り返す幼い子どもの姿に、リコリスは衝撃を受ける。


「な……」


 よく見ると、彼の顔のうち左半分に紫紺色の文字のようなものが描かれている。文字が不気味な光を放つ度に、彼は息苦しそうに咳を深めていく。

 王弟は寝転がる王子の背を優しく撫でている。どう声をかけたら良いものか迷っているのか、公爵は歯がゆさを纏った声色で王子の名前を呟く。


「アネモス……!」


 憎き女の息子のあまりにも苦く辛そうな姿に、リコリスは言葉を失って呆然とその様子を眺めていることしかできなかった。

 しかし、そんな中……。


「う、あ、こほっ! おじ、うえぇ……ごほっ!」

「……っ!」


 激しい咳の末、王子はついに吐血を始めた。

 皺くちゃになったシーツにポタポタと血がこびり付いて行く様子を目の当たりにし、リコリスが我に返る。

 そして、生来の正義感が勝った彼女は、自らの最重要目的である復讐を忘れたように、公爵へと訴えた。


「!? 公爵さま! お医者さまはいらっしゃらないのですか!」

「いま、ジオラス……私の侍従が呼びに行っているはずだ! しかし……これは……いつもより……」

「まさか……この症状は、呪いによるものなのですか……!?」

「……ああ」


 神妙に頷く公爵の答えに、リコリスは言葉を失った。


「はっ……ぐっ……ごほごほっ……。う、ぅぅ……」


(こんな……。まだ幼いこの子が、こんなに咳で苦しんでいるのに……私は……)


 仄暗い紫紺色の光が少しずつ収まっていくのと同時に、彼の咳の症状も次第に収まっていく。


「よしよし……アネモス。よく頑張ったね……。ほら、ゆっくりと息を吸って……」

「はぁ……はぁ……う……すー……はぁ……」


 ようやく王子の呼吸が落ち着きを取り戻すと、ぎゅっとシーツを握りしめて涙をボロボロと零し始めた。


「アネモス……つらかっただろう……。頑張ったね……」

「うぅ……。おじうえぇ……ぼく……ぅ……。っく……ひっく……」


 リコリスの立ち位置からは王子の顔は痣が見える以外は、顔立ちが良く分からなかった。

 しかし、嗚咽交じりに叔父へと縋る幼い子どもの苦しむ姿を、彼女は罪悪感のあまりに見ていられなくなる。


「……。お着替えとタオルをお持ちいたします」


 王子の暗殺が目的だった彼女は唇を噛み、王子を殺さなければならないと言う現実から逃げ出すように、彼の私室から踵を返した。


(呪いが……あそこまで酷いものだなんて……。いえ、あの悪趣味な悪魔なことだもの……。きっと、慈悲なんて何一つ持っていないのでしょうね……)


 自らの心の声に疑問を持ったリコリスが足を止める。


(……慈悲? 暗殺しようとした私が、慈悲なんて言葉を悪魔に使うなんて……)


 脳裏からアネモスが苦しむ姿を追い出そうと、頭を振り、再び速足で離宮内を歩き始めた。


(でも……。両親に愛されず、呪いで苦しむなんて仕打ち……あの子があまりにも可哀そうだわ……)

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