息子を奪われた闇堕ち元王妃は、偽りの家族愛に絆されて真実の家族愛を取り戻す ~呪いはマナを、やぶれない~
江東乃かりん(旧:江東のかりん)
1-01話:疑似家族
「母上ー!」
ここは、王城から若干距離のある離宮の、王族の住処にしては質素な内装の子ども部屋。
王弟であるヴァレアキントス・フレルブルム公爵と、その甥で五歳の王子アネモス・ノルフィオーレが、子ども用の背の低いテーブルを囲んでいる。
二人を前にして部屋の隅で控えていた侍女リコリスは、複雑な感情を胸に震えていた。
何故ならば……。
「母上、あーん?」
王子が、紫紺の痣がある手でスプーンに乗せたゼリーをプルプルと震わせて、距離を取っている彼女に差し出しているからだ。
もちろん、母上と呼ばれたのは、侍女であるリコリスに他ならない。
「アネモスさま、そのようなことをされてはいけませんよ」
火花を散らすような紅い髪を頭頂部でまとめているリコリスは、淀んだ金色の瞳から困惑の色を滲ませた。
「いいねそれ。アネモス、私にもしてくれないかな?」
窘めるリコリスとは反対に、甥の様子を見守っていた王弟が揶揄うように便乗すると、アネモスがぷっくりと頬を膨らませる。
「叔父上は母上じゃないから、ダメだよ?」
「あはは、そうだね」
侍女に対する親しげな王子と公爵の二人の様子に、リコリスは冷静を装うため、彼女は空を仰ぐ。
そして、胸に手を当てて息を吸い、ゆっくりと吐き出すように応えた。
「公爵さまだけではなく、私もアネモスさまの母ではありません」
「でもリコリス、お母さんみたいだから……」
手だけでなく顔の左半分も痣で覆われている王子が、揺らぐゼリーの光の反射を真似るように桃色の瞳を潤ませてリコリスを見つめている。
「お母さんは、いつもそばにいてくれるひとなんだよね? それなら、ぼくの母上はリコリスが良いな……」
今でこそ、アネモスは人に食べ物を与える真似事をしてみせている。
しかし、リコリスが離宮にやってきたばかりの頃の王子は、出された食事に手をつけようとしないほど怯えていた。
鬱ぎ込んでいた当時を彷彿させる幼い王子の寂しそうな姿に、彼女が怯みかけたのは一瞬のこと。
咎めるように、すぐ口を開いた。
「そのようなお顔をされましても、母ではありません。乳母でもありません」
そうは言っても、今では年相応な表情の豊さを向けてすっかり彼女に甘えて頼ることを覚えたアネモスに、彼女は安堵と同時に罪悪感も覚えている。
「ふふ、随分と懐かれたね」
「公爵さまもアネモスさまに仰ってください。誰かに聞かれでもしたら……」
アネモスの食事を隣で見守っていた王弟ヴァレアキントスが優しい口調でからかう様子に、リコリスは懇願した。
「大丈夫。アネモスの部屋に来ようと思う者は殆どいないさ。残念ながらね」
王弟が遠い何かに想いを馳せるようにアネモスの藤色の髪を撫でると、王子は痛ましい痣のある顔を穏やかに緩ませた。
今は衣服で隠れて見えないが、顔だけでなく彼の華奢な左半身に同様の痣があることを、リコリスは日々の世話を通して知っている。
その痣に、どのような意味があるのかも。
「アネモスに掛けられた呪いは、伝染するものではないと言うのに……」
王弟は僅かに不満を漏らしたものの、気を取り直して自身の白銀の髪を耳にかけた。
そして、優し気な紫色の瞳をリコリスに向ける。
「さて。せっかく主が求めているんだから、応じてやるべきじゃないかな?」
「うん。臣下としておうじて? いっしょにご飯たべよう? おいしいよ?」
「美味しいに決まってるさ。彼女が作ったんだから。ねえ? アネモス」
「ねー」
王子の髪から手を離すと最後にポンと頭を撫でた王弟が、悪戯っぽく首を傾げて甥に同意を求める。
アネモスも倣うように同じ方向へ首を傾げ楽しそうに応えた。
仲の良い家族のような二人の様子に、リコリスは心臓がぎゅっと握りつぶされたように感じていた。
(羨ましいわ……)
リコリスが長い間手に入れたかった光景が、目の前にある。
手を伸ばして、母と呼ばれることを認めてしまいたいと、内心ではそう思うばかり。
しかし、彼女が密かに抱える決意を遂げるためには、決してその輪の中に踏み込むわけにはいかなかった。
「ぼくが母上にあーんしなければ、いつもみたいにいっしょに食べてくれる?」
「う……。いつものは毒見です。ご一緒しているわけではありません」
「そうは言っても、同じようなものじゃないかな?」
公爵が何故、こんなにもリコリスに対して王子を甘えさせたがるのか、彼女は不思議でならない。
じりじりと交互に攻めてくる王子とその叔父に、彼女はたじろぐ。
リコリスの心の隅に密かに同居していた少年を甘やかしたい思いが、次第に彼女の態度を軟化させつつあった。
「それに保護者の私としても、他の目がない間だけでも構ってやってくれると嬉しいよ。ようやくアネモスが心を開いてくれたんだから」
「確かにアネモスさまが以前より明るくなられたことは、好ましいとは思いますが……」
「母上……」
(この子を見ていると、調子が崩れるわ……)
しきりに母と呼ぶアネモスに、彼女は肩の力を抜いて息を吐くと、仕方ないとばかりに王子の隣の椅子に腰を下ろす。
「……畏まりました、同席致します。しかし、王子ご自身が食べ物を手ずから他人に与えてはなりません」
「うんっ。じゃあ代わりに、僕にあーんして?」
「仕方ありませんね……」
リコリスは口では抗議を示しつつ、フルーツソースのかかったゼリーをスプーンで掬い、王子の口へ運ぶ。
「むぐむぐ……。えへへ、おいしい」
アネモスの笑顔にリコリスは胸がぎゅっと締め付けられる感覚に陥ったが、彼女は自身の気持ちに気付かないふりをして王子の世話を続ける。
「食べながらお喋りしてはいけません。ほら、頬にソースが付いていますよ」
「はーい」
リコリスは王子の顔を覆う痣を恐れずに、微笑む彼の頬と口元をナプキンで丁寧に拭う。
何だかんだと言いつつも甲斐甲斐しく世話を焼く彼女の姿を、王弟が目を眇めて優しく見守っていた。
「……そう言うところが、母と呼ばれる理由だと思うよ」
「何か仰いましたか?」
「いいや? ただの独り言」
「ごちそうさま!」
顔を拭い終わった王子が、一際嬉しそうに弾んだ声で食後の感謝を口にする。
「すごいね。全部食べられたじゃないか」
「うん! 叔父上と母上がいっしょにいるから、おいしいし楽しいんだよ。だからぼくには、父上なんて、いなくても……」
アネモスの嬉しそうな声色が少しずつ沈んでいく。
一方、
王子の父は当然国王だ。そして……。
(悔しいわ……。腹違いのこの子は生きていて、私の子は……)
リコリスが淀んだ金色の瞳を閉じて歯を食いしばり、ナプキンを両手で握り締める。
(私は、あの子の……ロゼルヴェルヴェーヌために、復讐しなければならないのよ……)
すると彼女の憤りに同調するように、アネモスの痣が突然怪しい光を発し始めた。
「あっ……!」
「アネモス!?」
彼は苦痛で顔を歪めて左手で顔を掻き、右手を喉元に当て咳き込み始めた。
「うぐ、かっ……ごほッ!」
数度目の咳で吐血した王子に王弟が慌てて駆け寄り、平穏だった空気が一気に緊張に包まれる。
(けれども、今を生きるこの子まで酷い目に合わなくてもと、決意が揺らいでしまうなんて……!)
「叔父上……母上っ……」
自身がリコリスの復讐対象だと知らない涙目のアネモスが、葛藤する彼女に救いを求めて手を伸ばした。
「どこにも、いかないで……? ぐっ……。ぼくのこと、置いていかないで……ごほごほっ」
「……っ」
憎しみで淀みきったリコリスの瞳が揺らぐ。
呪いに苦しみながら孤独を嫌うアネモスの言葉に、自らが大切にしていたものを再び喪失してしまうような感覚に陥ったリコリス。
彼女は我に返ったように王子に駆け寄り、彼の手を両手で優しく握りしめた。
「アネモスさま……! 置いていきませんよ。私は、ここにいます……」
「こほっ……。う、うん……」
すると、痣が発していた光が次第に収まり、アネモスの咳と呼吸も少しずつ落ち着きを取り戻していく。
呪いの症状が落ち着いたことで、王子はぐすぐすと鼻をすすって涙を流し始める。
苦しみに耐えた甥の背を優しくさすっていた王弟が、神妙な表情で呟いた。
「最近は前よりも呪いによる発作が酷いね。このままにしておくのは危ないな……」
王弟が囁いた言葉に、罪悪感が増したリコリスは眉間に皺を寄せてアネモスの手を強く握りしめる。
「えへへ、母上の手はあたたかいね」
王子は手を握り締められたことに安堵したのか、自らが孤独ではないことを確かめるかのように、痣のない頬にリコリスの手を手繰り寄せた。
「私の手は、しわしわの手です。触っても何も良いことはありませんよ?」
「ぼくのご飯を作ってくれているからだよね?」
確かに、慣れない料理も、部屋の掃除も、幼い子どもの世話も……この場所へ潜入する為に彼女が懸命に覚えたものだということに違いはない。
「それは……」
自身を案じてくれていると信じて疑わない王子のあどけない姿に、リコリスは言葉を詰まらせる。
(どうして私は、こんなに幼い子にまで手をかけるなんてことを悪魔に誓ってしまったのかしら……)
本来ならばリコリスは、現王妃の息子のそばにいるべき人物ではない。
彼女がアネモスの元にやってきた理由は、亡き息子の無念を晴らすため。
復讐対象の一人が、国王の子であるアネモスに他ならないからだ。
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