第29話『私は思ったより恵まれている。』
雨が降り出した。
ケイガは初めて見る雨にはしゃいでいる。
そうか、砂漠の街じゃ雨降るわけないもんね。
「すげーな、水が勝手に降ってくるんじゃ、水売りなんかやってらんねぇなー」
頭からびしょ濡れになって雨の中を走り回る。無邪気にはしゃぐケイガを見て、カザキが呆れたように言う。
「その水が地下を通って砂漠まで達してるんだよ。砂漠じゃ地表に出てないんだから、水売りは必要だろうが」
「ああー、そうなんだ? 別に水売りがイヤだったってワケじゃねぇよ。毎日楽しかったし」
そう言ってカザキの肩に腕をまわして笑う。カザキは小さく「そういうつもりで言ったんじゃねぇよ」と呟いたが、ケイガは聞こえないような顔をしていた。
湖畔を離れて数日、いまだ森は深い。
時々登れそうな木に登ってはギリョン山脈の方角を確かめているから、向かっている方角は間違っていないと思われるけど、木に登っても森の果てを見る事はできなかった。
砂漠から離れると、足元はぬかるみ空気は湿気を帯びてくる。始めは心地よかったが、ここ数日は重たい湿気に気が滅入るほどだった。そして雨。
なんつーか、一気に梅雨の季節って感じ。日本の夏はジメジメしててイヤなんだよねぇ……そう言えば、ここの季節っていつくらいなんだろう。私はずっと長袖の服を着ているけど、砂漠で出会ったケイガとカザキは半袖のまま。
砂漠じゃ確かに暑かったけどそれ以上に日差しが痛かったから、慣れない私には半袖を着る勇気はなかったし。結局今まで長袖だけど、気温からいくとやっぱ初夏って位なのかなぁ。
私は雨避けに張った毛布の下で、ぼんやりと垂れる雫を眺めていた。木の根に寄りかかって膝を立て、剣を肩に立てかけるようにして抱いている。
あの湖での戦いの後、結局フェザナは手当てが済んでも剣の成長をさせてくれなかった。それどころか、魔法で無理やり私を寝かしつけたのだ。
起きてすでに日も高く昇っているのに気づいた時、何だか裏切られたような気がした。どうしてもやめてほしいんだったら、そう言ってくれれば素直に寝たかもしれないじゃない……
でも私を驚かせたのはフェザナの態度だった。
今までのフェザナだったら「ヴィアスのためです」とか言いつつも泣いて詫びると思ってたのに、その日のフェザナは違っていた。
「あなたの体に負担をかけないようにするためです」
毛布をかけたままの体を起こし、ふてくされてフェザナを見やると彼はきっぱりとそう言った。確かに体は楽になっている。
「でも無理やり寝かせる事はないだろうが。俺だってそこまでバカじゃない」
「私がお願いすれば、聞いてもらえましたか?」
「昨日だって、剣の成長をせずに大人しく手当てを受けただろ」
「貴方は気づいていません。手当ての最中だって剣ばかり見ていたじゃないですか。貴方の体は月の変化を経験したばかりなんですよ。それだってどれほどの負担がかかっているか、私には知識で想像するしかできないのです。その直後に無理な戦いをし、更に剣の成長までやったらどんな事になるか」
私、そんなに剣ばかり気にしてた? 全然自覚ないんだけど、私はそんなに剣士っぽいんだろうか。
「だからって俺の意思を無視する言い訳にはならないだろう」
彼から視線を外す。彼の言ってる事のが正しいのはわかってるけど。
「ええ、言い訳はしません。私の力では何一つ変えられない事がわかった今、旅の目的地まで貴方を無事届ける事だけが、私のすべき仕事なのだとわかりました」
彼の言葉に思わず視線を戻す。どういう事?
「私は、自分を過信していました。貴方の力になり、共にこの旅を成就するのが私の仕事だと。でも違いました。私には何もできないのです。だから貴方を戦いと旅に万全の体勢でいられるようにするのが、私にできる唯一の事なのだと悟りました。たとえ貴方を怒らせる事になっても」
彼は膝をついて私の顔を見た。強く思いつめた表情。
そんな事、あるわけないのに……彼がいなきゃ、私なんかどこへ行っていいのかすらわからない。確かにあの武器は湖畔では作動しなかった。でも戦いは元々私の領分なんだから、そこまで思いつめる事はないと思うんだけど……
私はため息をついてフェザナを見た。
「……わかった。でも、いくらなんでも魔法で無理やり寝かしつけるのはやめてくれ。このまま襲われちゃうのかと思ってドキドキしたから」
とぼけたように言うと、フェザナは固くしていた表情のまま一気に赤面した。
彼はそれから、精力的に動いている。
今までのように極力魔法の使用を抑え必要となるまで使わないのではなく、積極的に使い、パーティーが安全に旅を続けられるように努めている。何だか性格も変わったみたいだ。
なんて言うか、男らしくなった(それは失礼な言い方なんだけど……)。
私の方は時折、無性に寂しさを覚えるようになった。
それはひとえに心に見えない穴を抱えているからなんだと思う。名前を失った時に感じた明確な喪失ではない、その喪失そのものを思い出す事ができないんだから。でも失った事は感じる。だから何か物足りなく寂しく感じるのだ。
私は、何を忘れたんだろう。
片っ端から思い出せるものを挙げていきたい気もするけど、失ったものに気づきたくないという気持ちもある。もし大事なものだったらどうしよう。大事なものなのに、簡単に忘れていたらどうしよう。
そんな思いを振り切るように、体力も万全に回復した所で剣の成長を試みた。
剣は目を見張るような成長を遂げた。一見地味に見えるのだが、剣の全てに細かな魔法文字が彫られ、その文字を彩るように細かくオルが散りばめられている。大きさは以前のものと変わりないが、存在感と重厚さでは比べようもない。
その成長を目の当たりにして、自分の中の失われた部分がいかに大きいのか逆に思い知らされた。
止む気配のない雨が、雨避けの毛布を重くしていく。
端から垂れた雫が、まるで義務のように一定のリズムで落ちていく。肩に冷たい剣の感触を感じながら、そっと剣を抱き寄せる。
この剣が、私がなくしたものの印なんだ。
「ちょっと狩りに行って来る。頭から水に濡れるのって贅沢でいいし」
ひとしきりはしゃいだ後、ケイガはテントに戻ってきて言った。
「お前はもうずぶ濡れだろうが」
カザキが呆れて言う。
「あんまり遠くまで行くなよ」
「ヴィアスがここら辺のヴィスはみんな退治しちゃったから大丈夫だよ」
ケイガは笑ってそう言うと、自分の剣を持って森へ出て行った。カザキはそんなケイガを座ったままで見送った。
「止みそうにありませんね」
フェザナが近づいて言った。
「ティアルの様子を見てきます」
「ああ、不安なようだったら、しばらく一緒にいてやってくれ」
雨避けの毛布は三枚張ってあって、ケイガとカザキ用、私用と、フェザナと荷物用になっている。ティアルはいつものように馬車の荷台にいた。
湖畔の夜以来、よくおびえるようになったのだ。あの夜、ティアルは夜中に起き出していたらしい。
特殊だったけどヴィスなら今までだって何度も遭遇してるのに、何が彼女を怖がらせているのか全くわからないので、ただなだめて落ち着かせるしかなかった。
「どうせこの雨だから、大した獲物は見つからないよ」
カザキが小さく息をついて、立ち上がると私のテントに来た。
狩りをするほど食料に困っているわけではないけど、あるに越したことはない。でもやっぱり私は小動物を殺すのにためらいがあった。
それで命を落とす事になっても?
多分それでもできない。可哀想とかもあるけど、殺す事を克服したら、忘れてしまった私を二度と取り戻せないような気がするのだ。
向こうの世界では食べる為に殺す事なんかなかったんだから……なかったはずだから。
――― ああ、もう! それは忘れてない事でしょ?
私は思わず両手で顔を覆った。
私の住んでいた所では、食べるためには働いてお金を稼いで食べ物を買うの。それは間違いない。忘れていない事にまで自信なくしてどうするの。
「ヴィアス……」
声をかけられて、カザキが傍らにいるのを感じた。両手を離す。
カザキは隣に座ると、同じ木の根に寄りかかって遠くを見た。
「前に、お前に言われた事があったよな、『まだ結果が出る前だ』って」
彼はそのままの体勢で言った。それはシャングライの遺跡に行く前の話?
カザキは少し逡巡するように目を伏せ、そして諦めたようにまた遠くを見た。
「あの時は、確かにそう思ったんだ。でも結果は出ちゃったんだ。俺はケイガに五年もムダに過ごさせてあいつの時間を奪ったのに、結局何も守れなかったんだ。井戸一つまともに」
そう言うと彼は私を見た。
「旅に出るのに、心残りだったのはそれだよ」
ケイガは少し寂しそうに微笑んでそう言った。
それは、井戸を壊す原因を作った私と行くのがイヤなんじゃなくて……
「五年勉強して守人として卒業しておきながら、あの井戸を守れなかった。それが俺の力なんだと思った。何とかできるかもしれないと思ったけど、やっぱりダメだった」
彼は視線を落として、木の根を指先でたどる。
「やっぱ自分の才能はその程度なんだと思った。せっかくヴィアスが励ましてくれたのに、あっという間に忘れてた」
指先で剥がした木の皮を、雨の中に投げる。
「旅を始めて、ヴィアスがどんどん強くなるのを見て、才能ってのはこういうのを言うんだと思った。けどそれも違ってたんだ。あの夜ヴィアスが怪我して帰ってきた後、フェザナに聞いたんだ。ヴィアスは強くなるために自分の全てを賭けてるって」
私は自分の両手を見た。手のひらには戦う印のように硬いまめが並んでいる。
「俺は何も賭けてなかった。勉強しに行けたのだってケイガのお陰だ。何も失わないで何かを得られる程、世界は甘くない。だからこれから何かを探す。何か自分を賭けられるものを。旅に誘ってくれて、ありがとう」
少し微笑んで私を見るカザキは、端正で優しげで、決意に満ちていた。
私は彼の顔を眩しげに見た。
「ヴィアス、確かに埋め合わせたところで過去は補えないし、結局失われた事に変わりはないけど、それでも、それがお前を壊す事にはならないと思うんだ。なんて言うか、ヴィアスはそのままでヴィアスなんだよ。
過去を失う事で新しい力が得られるんだとしても、失った過去は今のヴィアスを作ってる。全てなくした訳じゃないと俺は思う。お前が言ってくれた言葉や、お前が誘ってくれた事までなかった事になんかできないし、俺はあの時ああ言ってくれたお前が『ヴィアス』じゃないなんて思いたくない」
彼は話しながら言葉を強くしていった。
―― ああ、私はなんて事をしていたんだろう。
失った思い出を新しい記憶で埋め合わせ、失ったものなどなかったように振舞うのが、きっとヴィアスになる事なんだと思った。本質である私はなんら変わらないと思っていても、受け入れてしてしまったら向こうでの世界の自分を自ら捨ててしまうのと同じだと思った。
自分は変わらない。そう思っていても、わかっていても、それでも失ったものを思い知る事を考えると、恐怖を感じずにはいられない。私は弱い。
だからその恐怖におびえ、なるべく近づかないようにする事に気をとられ、他の事を考える余裕を失くしていた。
でも本当はそうじゃないんだ。
失ったものがあったのだとしても、それはどこかに残っている。私が言った言葉、私が起こした行動は、影響した相手に残る。それは私が記憶を失ったとしても、消えることはない。
きっと、私が失ってしまった部分を覚えてくれている人がいる。
私はそっと手のひらで顔を覆った。
「……ヴィアスの気持ちがわかる、とは言わない。絶対わからない事だと思うし。でも過去を失うのは辛いと思うけど、目の前に俺やケイガやフェザナもいるだろ。埋め合わせはできないのかもしれないけど、ヴィアスが失ったものにばかり心を奪われているのを見ると、それこそ目の前の俺たちを失ってる事にならないか?」
驚いて彼を見ると、彼は少し寂しそうな表情で私を見ていた。
……私は、過去や未来だけでなく、現在も失おうとしていたのか……
否応なく課せられた運命、不確かな冒険の先にある未来、その運命に奪われた過去。そしてその事に気を取られ、今、目の前にいる仲間たちすら思いやる事ができなくなっていた。
最悪だ。今までどれほど彼らに気を使わせたんだろう。皆、自分ではどうしようもないと知りつつ、それでも私を思いやってくれていたんだ。
私は自分の事ばかり考えて、それすら気づかずにいた。
失ってしまった記憶の中に存在した人たちは、ここには存在しない。こんな風に、今の私を思いやってはくれない。
「……ごめん、」
「別に謝ってほしいんじゃないって。でも、わかってくれたんなら、よかった」
カザキはそう言って微笑んだ。
確かに私は何かを失っている。それはわかる。
でも、私はここにいる。ここに、ヴィアスとして。
冒険を全うし、自分の世界に帰るために。
今はそれだけだ。だったら、それだけにしがみついていけばいい。その為の仲間もいる。私は思ったより恵まれている。
「この世界、ヴィアスがいるべき世界じゃないけど、これからこの世界の事たくさん見てたくさん知ってよ。俺、この世界に生まれてよかったと思ってるんだ。だから帰ったら、向こうの俺に教えてやってよ。どんな世界だったか」
カザキはさりげなく、私がこの先新しい記憶を増やしていく口実を与えてくれている。私は微笑んで頷いた。
それを見て安心したように体を木に預けると、雨の降る森を見やる。
「今まだ完全なヴィアスじゃないんだったら、ホントのヴィアスってどんなんだろなー」
カザキは軽い調子でそう言ってから、私に振り返った。
「きっとすげー女ったらしだよ。それは絶対だ」
「んだよ、それー!」
おかしそうにそう言う彼の頭を、私は笑ってはたいた。
雨はまだ降り続いていたけど、私の心は晴れていた。
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