第28話『今私たち絶対絶命なんだし。』
気がつくと、私を覗き込むフェザナの顔があった。横たわる私を胸に抱いている。
彼は涙を流していた。泣く声はないまま、静かに涙だけが流れていた。
しびれる腕を上げて、彼の頬を指先でぬぐう。
「フェザナ、」
まるで何日も声を出していなかったような、枯れた声。どのくらい時間が経ったのだろう。背中の痛みは引いていた。でも体中に倦怠感がまとわりついていて、すぐに体を起こせない。まるで体の背中側半分がおもりにでもなったよう。
……私の、何が失われたんだろう。
わからない。ただ体がだるいだけで、何も変わっていないような気がする。
記憶なんてそれこそ大量にあるからちょっとした事が失われていても、もしかすると気づけないのかもしれない。
自転車の鍵の形とか、日めくりカレンダーが何日で止まっていたかとか、小学校の校章の形とか、幼い頃に見たアニメの悪役の名前とか、そんな些細な事から失っていったら、多分、全く自分が変わった事に気づけないだろうな。それでも失う事によって、私が変わるんだ。
「……私と旅に出た事で、貴方には辛い事ばかり強いている……」
なおも涙を止めないフェザナに、力なく笑ってみせる。
そんな事ない。きっと向こうの世界でも同じような気がする。
失うと宣言されていないし、全てじゃなくて遠い記憶の大部分って違いはあるけど。本当はその上に新しい自分を上書きする事で、失っていないように感じているだけなんだ。
こんなにも痛みの伴う事を、全く気づかずにいるんだ。
彼が重月を、記憶を失うと告げずにヴィアスの力を取り戻すために必要な変化だと言っていたら、もしかすると最後まで気づかなかったのかもしれない。もしかするとその方が気が楽だったかもしれない。
それでも彼が気づかせてくれたから、私がここに存在する事ができるんだ。
異世界での私。この世界での私。
そこに違いなんか何もない。重なる月を経験し、異世界での私が抜けた体に残るのは、異世界から来た私がドノスフィアで培った私だ。異世界での十六年があるから、この世界での私になれる。
ただ全て忘れてしまったら、きっと帰るべき世界を見失ってしまう。だから全てを失う前に冒険を終わらせなくては。
私は彼の涙をぬぐった手をそのまま彼の頭に乗せ、そっと撫でた。
「大丈夫。このくらい大した事ねぇよ」
そう言って笑う。彼は辛そうに目を閉じた。その向こうに少しずつずれていく二つの重なった月が見えた。
まるで私の事を覗き見る、臆病な子どものように見えた。
少しずつ、ずれていく月。
嫌な予感がする。
胸騒ぎを感じて体を起こそうとするが、背中側がおもりになって思うように動けない。
「まだ起きるのは無理です。もう少し体を休めないと、」
フェザナは私を押し戻そうとした。違う、そんな事してられないんだってば。
何かの気配を感じる。初めて湖を見た時から消えない疼き。止めるフェザナの腕から何とか体を起こし、腕をついて湖を見る。
湖は、静かに波打っていた。
静かに、しかし着実に波は大きくなっていく。何かが、現れる。左手に握っていた剣を杖にして体を起こそうとするが、いまだ思うように体が動かない。
膝をついて両手で剣を握り、体を支えたまま湖を凝視する。
ゆっくりと湖の水面が盛り上がってそのまま高く上昇したかと思ったら、水の間から現れたのは、黒々と濃い闇が渦巻く今までとは違う巨大なヴィスだった。
……なんて事、こんな体じゃ戦えない、どうやってフェザナを逃がす?
今までのヴィスとは明らかに違う。あれが、悪意の強かったヴィスって事? こいつがいたからこの付近にヴィスがいなかったんだ……
ヴィスはいまだ攻撃する気配がない。
どうする? 今のうちにフェザナを走らせる? でも人間が走って逃げ切れるほど、ヴィスは甘くない。
フェザナがそっと結界を敷き始めた。ちょっと待って、向こうの結界も強くしてるって言ってたよね? 同時に二つの結界を維持するなんて、相当大変なんじゃない?
ゆらゆらと揺らめくヴィスの影が一瞬はためいたと思ったら、鋭い小型ヴィスが連続で飛び出してきた。
とっさに剣を抜き、フェザナを引き寄せ背中にかばう。フェザナの結界が崩れたのがわかった。立ち上がる事ができないから、立て膝の体勢のまま向かってくるヴィスを切りつけるだけで精一杯だ。
「ヴィアス!」
フェザナが私の肩に手を置いて治癒魔法をかけているのがわかった。彼の手の当たるところだけが温かい。でも体に変化はない。
たぶんね、さっき魔法をかけるって言わなかったから、そうなんじゃないかなぁとは思ってたんだ。私の体の異変に対しては魔法は効かないんだ。
襲い掛かってきた小型のヴィスは、悠然と舞いながら親ヴィスの周りを飛んでいる。ムカつく態度だな……
「フェザナお前、背後の森まで最短距離で逃げられるか?」
ヴィスから視線を外さずに、肩越しにちらりとフェザナを伺う。
「そんな、貴方を置いては、」
「置いて行けるかわかんねぇだろ。逃げる方が大変かもよ」
軽く笑って言うつもりが、苦笑にしかならなかった。
これじゃ余計に心配させちゃう。体は動かないし、魔法は効かないし、八方ふさがり。はっきり言って、フェザナを守りきる自信ないかも。
「できません。ティアルたちなら大丈夫です、向こうには結界があります。私と貴方の力だけでなくオルも使っていますからあちらは大丈夫です。でも貴方には何もないじゃないですか」
ヴィスから目を離さない。ヴィスは私たちの会話を聞いているかのように、悠然と浮いたままこちらを見ている。
「体も動かねぇしな。だから逃げろっての。守りきれるかわかんねぇ」
「嫌です! 貴方を置いていけません!」
「怪我じゃすまないかもしれないんだぞ! わがまま言ってんじゃねぇ!」
「できません! 私が貴方を守ります!」
……あまりのセリフに絶句した。いや、攻撃できない上に結界も張れないのにどうやって守るつもりですか? ……あー、どうしよ、すげー嬉しいかも……
思わず顔がにやける。いやいやそんな幸せに浸ってる場合じゃないよ、今私たち絶対絶命なんだし。
「お前に何かある方が後々大変だろうが。頼むから、合図したら走れ」
「でもっ、」
ヴィスが動く! 漂っていた小型ヴィスが一斉にこちらに向いて飛んできた。
「行け!」
ヴィスから目を離さずにフェザナを突き飛ばす。
自分は剣で何とか体を支え、立ち上がる。私の周りだけ重力が倍になってるんじゃないの?
「っはぁ!」
勢いをつけて立ち上がり、その勢いで剣を振り上げる。
体が重いんだったら、重力で叩っ斬ってやる!
「うりゃーーーーーー!!」
重さで振り回した剣は、向かってきたヴィスの二体を切り裂いた。しかしまだふわりと避けた三体がいる。飛べるか?
ヴィスに向かって走り出す。重い、こんなんじゃ追いつけない!
思うように動けない私をあざ笑うかのように、時間差で向かってくる。一匹目を何とか剣で抑えたところで、二匹目が肩を引き裂き、三匹目が腿を切り裂く。
抑えていた一匹も、私を押しのけるようにして離れていく。
「う、っわ」
バランスを崩して座り込む。
せっかく立ち上がってたのに! こんなに軽く吹っ飛ばされるなんて、ヴィアスの力なんて解放されてないんじゃない? っていうか、逆に足引っ張ってるっての!
親ヴィスはそんな私を湖の上に浮いたまま観察している。
あー、しかもまた出血。肩はまだしも腿の傷はひどいな……
「ヴィアス!」
フェザナの声。森に逃げたんじゃないの?! 思わず振り返る。
「バカっ! 来るな!」
背後に気配。振り返ると、さっきまで三体だったヴィスが向かってきながら一体にまとまったところだった。何それ! しかも狙いは私じゃない!
「フェザナ!!」
足を泥に取られたように体が重い、こんなの今更走ったって間に合わない!
ヴィスが私を越えて行こうとした瞬間、剣を支えに思わず体を投げ出した。
「ヴィアス!!」
投げ出した瞬間、駆け寄ろうとしたフェザナが両手で口を押さえている姿が見えた。背中に受けた衝撃の痛みで声が出ない。
「……かはっ、」
うわ、血吐いちゃったよ……フェザナが駆け寄ってくる。
「……戻るなっつーの……」
何とか体を起こすも、腕をついて座る体勢すら大変……
フェザナは顔を上げてヴィスを睨みつけて立ち上がり、意識を集中すると、あの武器をつけた左手が赤くぼんやりと光るのが見えた。
口の中で呪文を唱えながら左手を高くヴィスに掲げ、一際高く呪文を放った。
キィンという甲高い音がして赤い光が膨らんでいく。
「?! どうして……」
しかし、彼の手からは何の光も放てず、逆に呪文が終わると赤い光はガラスに吸い込まれ消えてしまった。
「どうして! なんで何も起こらない! 呪文だって間違ってないのに!」
フェザナは悔しそうに腕を振ってはヴィスに向ける。
「……動けよ……動け!!」
悲痛な叫び。しかし、彼の手からあの光が放たれる事はなかった。
「どうして……」
呆然と左手を見詰めるフェザナ。ヴィスが迫るのにも気づいてない。危ない!
思わず彼の服を引っ張って抱きかかえると、体をよじって回り込む。
「!! ぐっ!」
「ヴィアス!」
衝撃の強さに一瞬目が眩む。目の前に泣き出したフェザナの顔。
ああもう、敵に背中向けてる自分もムカつくってのに、真っ正直にその背中狙ってくるヤツもムカつく。
「……だから自分を大事にしないと、俺が怪我をするっつったろ?」
痛みに耐えてそれだけ言う。
彼の奥の手も効かないし、私なんかまともに動けてない。フェザナが戻ってこなかったら無茶やる事も可能だったけど、彼を傷つけたくないし、どうする? 絶体絶命……
……ここで終わっちゃうの? ここまで来たのに、せっかく遺跡のヴィスを倒して、ようやく本当の目的地に向かって旅が始まったってのに。
仲間もできてこれからって時に、こんな絶不調の時に襲われてゲームオーバー?
――― そんなのイヤだ!
イヤだ、そんなの。私なんか自分の記憶までかけてんのに! 未来だけじゃない、過去までかけて冒険してるってのに、こんなところで終わっちゃうなんて納得いかない。
私は運命の剣士ヴィアスなんだから、絶対切り抜けてみせる。絶対クリアしてみせる。
――― 私が、ヴィアスなんだから!!
「ざけんじゃねぇぞ……」
呟いてフェザナを離し、振り返ろうとした。
「ヴィアス、体が……」
フェザナの言葉に思わず手を見る。何これ、体が光ってる……?
青白い光に体全体が包まれたように発光している。どういうこと?
「ま、どうでもいいや……」
体が、軽い。戻ってる。いや、何か今までと違う力がみなぎるのを感じる。
ヴィスに視線を戻して立ち上がる。後悔しろよ……
「……ぶっ殺す」
いまだ浮遊する小型ヴィスに向かって走り出す。ヴィスも向かってくる。
「はぁぁぁぁぁーーーーーーー!!」
剣を持ち直し、握った親指に力を込めて柄にあったオルを押し砕く。風!
「うりゃーーーーーー!!」
振り下ろした剣と共に強い風が巻き起こる。小型ヴィスは軽々と砕け散る。
「次はお前!」
湖の親ヴィスに向かって走り出す。親ヴィスは悠然と体をひらめかせ、三メートルはありそうなヴィスを連続で投げてきた。
「きかねぇっての!」
剣を翻すと頭上で右手から左手に持ち替え、勢いのまま横に切り裂く。左に流れた剣を右手で持ち直し、剣の重さで叩き斬るように振り下ろした。
体が軽い。いや軽いっていうより、動きにリズムを感じる。軽く動くところは軽く、重さを必要とするところは力強く。
比べてみると今までは動けていただけのような気がする。三メートル級のヴィスと戦っている間にこんな余裕があるなんて。
「ほら、残りはお前だけだぞ」
私はいまだ悠然と湖に浮かぶ親ヴィスに、にやりと笑って振り返った。十体近いヴィスを倒した後なのに息もあがらない。体の発光はいつの間にか消えていた。
「そこにいると届かねぇんだよ。こっちまで来いよ、倒してやるからさあ」
剣を親ヴィスに向けて片手で掲げる。親ヴィスはふわりとはためいたかと思うと、その体を小さく収縮しはじめた。な、何? 縮んじゃったよ?
収縮というよりは凝縮と言った方が正しかった。その影は月の光の前で、完全な闇色だった。これ以上ない黒。そしてヴィスは霧や煙のような体ではなく確固たる人間の影のような形になったのだ。まるでマントを羽織る人影のように、左側がひらめいている。
悪意の強かったヴィスは形を持つんだっけ? ただでかくなるだけじゃないんだ……剣をおろして構える。
しかし人影の形になったヴィスは空中に仁王立ちのまま、まるで私を見つめるようにじっと動かずにいたかと思うと、見極めでもしたかのように闇の色にすうっと溶けて消えていった。
……何で、攻撃してこなかったんだ?
「ヴィアス……」
振り返ると近づいてきたフェザナが、やっぱり泣き出しそうな顔で立っていた。
「すみませんでした、また貴方の言う事を聞かずに貴方を危険な目に……」
その先を言わせないように引き寄せて抱きしめる。
「はいはい、わかったから。お前の役目は治癒だろ。また怪我しちゃったから治してくれよ」
彼の頭を軽く叩く。
――― ありがとう。あんな状況の中、守るって言ってもらって嬉しかった。
彼の髪に顔を埋めて、心の中で付け加えると彼を離した。
「この武器……」
彼は目線を左腕に落とした。魔法を増幅させるわけじゃないんだ。フェザナの魔法、吸い込まれちゃったし。
「大事な時に役に立たない……私と同じです……!」
右手の関節が白くなるほど強く、左腕を握っている。顔を伏せたままだけど肩が小さく震えている。
……それは自分に対する悔しさだから、私が何を言っても何もならないんだろうな。
彼はあの時、彼の知る攻撃魔法を使ったんだろう。多分、何も間違いはなかった。ただ一つ、この武器を使おうとした以外は。
「……大事な時ってのがいつか知らないけど、お前が戦いまでできるようになったら俺がいる意味なくなるじゃん」
上目遣いで伺うように言うと、フェザナは驚いて顔を上げた。そしてまるで泣き出しそうな笑顔で微笑んだ。
「ヴィアス!」
遠くから呼ぶ声に振り返る。ケイガが森の中から走ってきた。
あれ、もう見張り交代の時間?
ケイガは私の肩をつかむと耳元に口を寄せた。
「邪魔しちゃ悪いと思ったんだけど傷が見えたから、そういうんじゃないのかと思って」
もう、全然違いますよ……
彼はそのまま私の体をまじまじと眺めた。
「何だよそれ、どうしたんだよその傷!」
「あ、コレ? フェザナが激しくって」
「! ヴィアス!!」
フェザナは真っ赤になって声を上げた。あはは、何の想像してんだよー。言いながら笑って森に向かいかけて、ふと立ち止まる。
もしかして、私が完全なヴィアスに近づいたなら剣も成長するんじゃない?
視線を落として剣を鞘から抜こうとすると、その腕を捕まれた。
「だめです。手当てが先」
フェザナの顔を見ると、有無を言わせぬ真剣さがある。
「えー……でも、ちょっとだけ」
お願いするように上目遣いで見ると、怒ったような顔で首を振る。
「いいじゃん、後でちゃんと手当て受けるし、何なら朝まで抱いて寝てくれてもいいから」
「だめです。バカなこと言ってないで戻りますよ」
そう言うと私の腕を引いて森にずんずん歩き始めた。
あのー、気分が盛り上がったトコでやっときたいんですけどー……怪我をした左足を気にしながらも湖畔を見ると、ケイガが散らばっていたオルを拾って戻ってくる所だった。
静かな湖畔に、全てを見守るような月が大きく輝いていた。
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