第8話 傷跡の代わりに、我が儘を乞い願う
見える世界は相変わらず赤いままだった。
じわりと涙で霞む。
傷一つないのに、一歩踏み出す度に足が痛みを訴える。内側から針が飛び出すような痛み。それは足から広がり、腕を、肺を、頭を苛んでいく。
痛い痛い痛い。
幻肢痛のように、ない痛みを感じている。指一本動かす度に、針が一つ刺さるような感覚。
止まって蹲ってしまいたかった。
いたいいたいと子供のように泣き喚いてしまいたかった。
それでも、それでも、と。
胸に抱えた大切な人よりも優先するモノはないと、世界の外側も、内側も。あらゆる全てを無視してただ今だけは、走り続ける。
どれだけ走ったのかなんてわからない。
ただ、わからないままでも、無我夢中で目指していた場所には着いていた。
はぁ、はぁ、と荒い息が喉を詰まらせる。
でも、それでもと足を動かす。
死にそうになりながら辿り着いたのは、一軒の診療所。周囲の家々と比較すれば立派な、やや土で汚れた白い漆喰の壁に囲まれた診療所の戸を叩く。
叩く。
加減なんてできるはずもなく、そもそも音なんて鳴りっぱなしの耳鳴りで聞こえもしない。
それでも、伝わっていると願って戸を叩き続けると、内側から荒々しく開いた。
「うるっさい!
こんな夜更けにどこの馬鹿が……っ!?」
苛立たしいと、診療所から出てきたのは女医だった。
白衣こそ羽織っていないが、昼間、シルアと村を訪れた時、敵意を剥き出しにしていた白衣の女性。
汗と血で濡れた俺。そして、メイド服を血で真っ赤に染めるメリアを見て、目を見開いて言葉を失っている。
息をするのも忘れて、呆然とする女医に俺は頭を下げる。
「お願いします。
彼女を、メリアを助けてくださいっ……!
どうか、どうかっ、お願いしますっ!」
メリアを抱えていなければ、土下座をしていただろう。
それでも、できる限り頭を下げる。
言葉も、行為も。
どれを取っても懇願だったけど、俺にとっては泣き言とそう変わりはしなかった。
親でも、先生でもない相手に。
ただただ泣いて縋って。
けど、俺にはこうすることしか残されていなくって、情けないと笑われたとしても、頭を下げ続けるしかなかった。
でも、女医にとっては突然で、いきなりで。
そして、俺は領主であった。
「……私は、お前が嫌いだ」
全身の血が、残らず身体の外に流れ出たような寒気を覚えた。目から溢れる涙が血なのではないかと、錯覚してしまう。
ここでも、ヴィルが付き纏うのか。
顔しか知らないヴィルを恨めしく思う。唇に歯を立てる。裂けるほどに噛む。痛いのは俺だけど、ヴィルを傷付けようと唇に歯を食い込ませる。
女医がヴィルを嫌っているのはわかっていた。そのことを忘れていたわけじゃない。
けど、そんなことまで考える余裕なんてなくって。
助けてくれる。助けられそうな人なんてこの人しか思い浮かばなかったから。
だから、嫌いと言われようとも、俺にはお願いし続けることしかできない。
「お願い……しますっ。
俺はなにをされても構いません。
だから、この子を……メリアを助けてくださいっ」
長い沈黙が挟まったような気がした。
けど、実際にはそんなに経っているはずはない。俺が長く感じただけで、瞬きぐらいだったのかもしれなかった。
ぽつり、と女医が呟くように尋ねてくる。
「……お前の命を対価にするなら、助けると言っても?」
震える。
頷くべきだ。
そもそも、命なんてさっきまで捨てるつもりだった。
代わりにメリアを救ってもらえるというのなら、それで十分。俺の支払えるモノとして、唯一で、けれども、今最も軽いモノなのだから。
「それは……」
けど、
「ごめんなさい」
駄目だ。
死ぬわけにはいけなくなったから。
「……俺が死ぬなら、メリアも死ぬって言うんだ」
そして、実際に自分を刺して見せた。
「だから、俺は……死ねないんだ」
上げた顔はどんな表情をしているんだろう。
見上げる藍色の瞳には、俺の姿は映っていない。黙って、見つめてくる女医を見つめ返すことしかできない。
息の詰まるような沈黙が流れていた。
破ったのは、深い深い女医の沈黙だった。
「……中に運べ」
背を向けて、素っ気なく、けれども力強く女医が言った。
呆けていた俺は、最初その言葉の意味がわからなくって、「え……」と零すことしかできなかった。
愚鈍だったからか、苛立ちを隠そうとせず彼女は舌打ちをする。
「現領主は嫌いだ。
助ける義理はない」
ないが、
「患者を見捨てるほど、落ちぶれてもいない」
背中を向けたまま、ぶっきらぼうに吐き捨てる女医の言葉が胸に染み入る。鼻がツンッとする。
内からこみ上げてくる大きなもののせいで、上手く声にならない。それでも、必死に。回らない舌を動かしてありがとうと伝えようとした。
届いたかわからない。そもそも、ちゃんと音になっていたのかさえ怪しかった。
「早くしろ。死なせたいのか?」
せっつかれ、未だに痛みを残す足に力を込める。
お礼すらままならない俺だけど、せめて最後までメリアを抱えていようと、腕に力を込める。
伝えきれなかったお礼は、きっと後で。
メリアが助かった時に伝えようと……そう思った。
■■
メリアをベッドに寝かせて、邪魔だと部屋の外に放り出されて。
寝れもせず、部屋の外で待っていた。
処置室の外で膝を抱えて蹲る。心配で動悸が速くなって、水中でもないのに溺れているようだった。
不確かで、曖昧な時間。
どれだけ経ったのかはわからない。ただ、長いという感覚だけが常に付き纏っていた。
溶けてなくなってしまいそうな自意識。
それが鮮明になったのは、ドアが開いて「終わった」という女医の言葉によってだった。
「できることはした。
後は、本人次第だ」
言われて、部屋に入ろうとしたのを、女医に蹴って止められる。
身体に力なんて入ってなくって、呆気なく倒されてしまう。
「馬鹿が。
待つにしても病室に移ってからにしろ」
もどかしく思いながらも、女医の邪魔をするわけにはいかない。
メリアが病室に移る間、また膝を抱えて待つ。待つ。待つ。
そうして、「終わった」と2度目の報告を受けて部屋に駆け込む。
病室だと。
そう認識させる、清潔感のある白い部屋だった。
物は少なく、窓際の傍にベッドと椅子が置いてあるぐらい。
「メリア……」
その上では、
血に染まったメイド服ではない、清潔な白い服で身を包み、静かに胸を上下させるメリアの寝姿があった。
顔色が良いとはとても言えない、青白い肌にぐっと唇を噛み締める。
昨夜、歯で抉った傷が痛むが、気にはならなかった。
ベッドの脇。
木でできた椅子に腰掛ける。
「死なないで」
口にした言葉はなんて白々しく、都合が良いんだろう。
自分は死のうとしたくせに、死んでほしくないなんて。
それでも、俺は死んで欲しくなくって、ベッドの上のメリアの手を握りしめる。冷たい肌。本当はもう死んでいるんじゃないかと思わせる体温を感じて、ぐっと目元に力が籠もった。
祈るように彼女の手を両手で握る。額に当てる。
どうか、どうかと。
無事を想う。願い続ける。
ただ夢中でそうしていると、窓から朝日が差し込んできた。
夜明け。
けど、瞼閉じたままの俺の視界はまだ赤いままで。
このままずっと世界は赤く、夜明けなんてこないんじゃないかと、そう思っていたけれど、
「貴方様」
――――
呼ばれて、無意識に俯いていた顔を上げる。
知らぬ間に、メリアは上半身を起こしていて。
眩い陽光の中、花のような微笑みを浮かべていた。
「……メリア」
「はい」
返事がある。
生きている。そう実感して、握っていたメリアの手をより強く握るけれど。
起き上がった拍子か、
「……っ」
喉が引き攣る。視界が急にぼやけた。
胸の下。
新雪のように白い肌の中心には、深い刺し傷が残ってしまっていた。
縫い痕が痛々しく、まだ塞がって傷跡は未だ生々しい。
「ごめん……ごめん、ごめんっ」
きっとこの傷は残る。
そう思った時、俺は懺悔するように両手を掲げて、謝ることしかできなかった。
消えない傷。
作る必要なんてなかったその傷を見て。
俺は泣いて、縋って、許しを請うしか……なかった。
「……我が儘を」
メリアが言う。もう一度「我が儘を」と。
俺の意識を向けるような誘いの声に、ゆっくりと顔を上げる。
遠くを見つめるように、前を向いて。
白い漆喰の壁を見続ける彼女のその横顔が、ふっと困ったように口元を緩めた。
言いづらそうに。
けれど、願うように。
「我が儘を口にしてもいいのなら、これからも一緒にいてほしいです。
――死ぬまで、一緒に」
胸から喉にかけて、こみ上げてくるモノがなんだったのか。
俺にはわからなかった。
けれど、俺に彼女の言葉を否定するだけの勇気も、権利も、なにも残っていなくって。
ただただ、「うんっ、うん……っ」と何度も何度も、頷くことしかできなかった。
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