第7話 生きている意味は彼が傍にいるから

「……なに、を」

 その言葉は、俺とシルア。どちらが発したモノだったのか。

 俺自身わからないけれど、メリアの肩越しに見る彼女の瞳が、満月のように丸くなっているのは見えた。その顔は驚きに彩られていて、きっと俺も似たような顔をしているんだろう。

 

「彼は死にたいと思っていて、

 シルア様は殺したいと思っている」

 ゆっくりと、背中が遠ざかっていく。

 窓から差し込む光の中にいたメリアの身体が、徐々に影の中に。


 止めないと。

 そう思っているのに、半端に手を伸ばしているだけで、足は動かなかった。

 驚きからだろうか。それとも、止める権利が俺にはないとわかっているからか。

 痺れたように微動だにできないまま、けれど、メリアの歩みは止まらなかった。


 停止した時の中、一人だけ動いているような、そんな感覚。

 ただ見ているしかできない中で、メリアは瞠目したままのシルアの前に辿り着く。辿り着いてしまった。

「なら、私には止められないですから」

「どうして……笑って」

 深い影の中、二人が重なる。

「彼が死ぬというのなら、私にはもう……生きている意味はありません」


 逃げるようにシルアが僅かに後ずさった。

 そのせいで、メリアの身体の影に隠れていた手が見える。メリアの手は、短剣を握るシルアの手を祈るように両手で包んでいた。真っ暗な影の中にあるというのに、その短剣自身が発光しているかのように鈍く輝いて見える。


「――っ」

 息を呑む。メリアがこちらを振り返ったから。

 背に隠れていたその顔は太陽の下で咲く花のように満面の笑顔で――なんで今なんだと身体の内側から嘆きが溢れ落ちる。

 その顔は、ゲームの最後。

 ハッピーエンドを迎えたヒロインが最後のスチルで浮かべていたものだ。

 こんな時に浮かべていい表情ではない。


 わけもわからないまま手を更に伸ばして、でも、足は彫像のように固まっていて倒れてしまう。

 待って。

 出ない静止の声を出そうとしたけど、音になんてならなかった。

 だから、彼女を止められるはずもなく、

「ありがとう」

 そう言って、メリアは笑ったまま、両手を抱くように胸元へ寄せて――音もなく、胸に突き刺した。


 ――――――……

 耳鳴りがする。

 時間が止まったように感じる。

 けど、本当に時間が止まるなんてことはない。止まっているのは、錆びて鈍くなった俺の頭だ。

 目の間の光景を認識できなくって。したくなくって。

 情報を処理できないでいる。

 映画を観ていて、途中で停止ボタンを押したかのような視界。

 再生ボタンを押したのは、ぽたんっという水の落ちる音。メリアの足元に広がっていく水溜りは、光のない影の中だというのにその色が認識できた。

 濃い。深く濃い赤。

 まるで俺の瞳のような――そう思った瞬間、メリアの身体がシルアに寄り掛かるように倒れた。


「……え」

 シルアが驚きの声を上げる。「今、なにを……」と呟いた彼女は縋るように空いていた片手でメリアを抱こうとしたけれど、するりとすり抜けていった。ぱしゃんっ、と小さな水音を立てメリアが赤に染まる。

 震えるシルアの手に残されているのは、血で濡れた短剣。まるで、それを恐れるように彼女はよろよろと後ずさる。

「嘘……だって、それなら、私は……なんのために」

 吐くように口元を抑え、膝から崩れ落ちるシルア。見る見る青褪めていき、その顔は今にも死にそうだ。けど、彼女に構ってはいられなかった。


 俺の意識の全ては満足そうに微笑み、血の海の中に沈むメリアにだけ注がれていた。

 ――なんだ、これ。

 頭が理解を拒む。けど、現実が許さない。

 否が応でも目の前の全てを受け止めろと、津波のように押し寄せてくる。


 どうして、メリアが刺されてる?

 わからない。

 どうして、俺は刺されていないのか?

 わからない。

 どうして、血が流れている?

 わからない。

 どうして、メリアは笑っている?

 ――わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない


 倒れたまま伸ばした俺の指先。その先端が赤い水溜りに触れる。

 肌に纏わりつく、ドロリとした感触。

 これは血だと、肌で理解をした瞬間、この世界に来て初めて、人を殺した時の光景がフラッシュバックする。


「あ、あ……」

 血の海に沈む男。

 短剣を握って、何度も何度も突き刺していく。

 濃厚で、むせ返るような血の匂いが過去と今を重ね合わせた。

 死んだ男。殺した男。

 では、倒れたメリアは?


 ――耳鳴りがする。

 視界が砂嵐のようにひび割れる。

 心臓から衝動が、血流のように身体中に広がっていった。

「違う、違う違う違う違う」

 こうじゃない。こうじゃないんだ。

 こんなことになるはずじゃなかった。

 こんなことになるなんて、思っていなかった!


 視界は赤く、ひび割れたまま。

 這うように倒れるメリアに近付く。力無く、諦観していた頭が今になって、考えたくもないのによく働く。

 メリアを支えないといけないと思っていた。

 村が燃え、家族は死に、友人や知り合いもいない。

 バッドエンドに到達してしまった彼女を、せめて俺が守らないと。そう思っていた。


 けど、違った。

 本当に守られていたのは誰だったのか。

 知らない世界。知らない身体。知らない名前。

 自分自身すら見失いそうになる中で、それでも今まで通り心を保っていられたのは誰のおかげだったのか。

 同情でも偽善でもない。

 メリアと一緒にいたかったのは、支えにしていたのは俺のほうだった。

 縋っていたのは他でもない――俺だった。


 今更だ、と辛辣な嘆きが胸中を乾かす。

 死のうとしたその先に待っていたのは、元の世界ではなく後悔だった。

 あぁ、本当に情けない。

 そして、あまりにも愚かだった。どうして今頃になるまで、そんな簡単な事実に気が付かなかったのか。


 這って、血に濡れて。

 伸ばした手はようやくメリアの手を握る。力は入っていない。けど、まだ暖かかった。

「違う、こうじゃない。まだ、まだだ」

 俺は選択肢を選んではいない。


 水のように、手から溢れてしまいそうなメリアの手を強く握り込む。

 絶対に離さないように。

 ゲームのように選択肢は出てこない。どこが分岐点だったのかなんてわかるはずもない。

 けど、まだメリアは生きていて。

 俺にはできることがあると、強く歯を食いしばる。


 穏やかに笑い、眠るように目を閉じるメリアの傍で膝を着く。

 首と膝の裏。

 腕を回して、落ちないようしっかりと抱え込む。絶対に取り零さないように。

「……」

 座り込み、生気を失った瞳を向けてくるシルア。彼女を置いて、俺は走る。


 部屋を出て。

 城を出て。

 朽ちた門を抜ける。

 メリアを死なせないために、助けてほしいと、それだけが足を動かした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る