第5話 死にたいという問いかけを否定できない。

 ベッドに倒れるシルアを置いて。

 俺はメリアに手を取られて、引かれるままに走り出す。

 半ば放心状態で、なんでメリアがここに? とちらりと疑問が過ったけれど、口に出すことはなかった。


 どこまでも伸びていくような青い絨毯の上を走る。

 半円を描き、等間隔に並ぶ窓の外は木々が密集し、あたかも不気味な黒い雲のような影となってうごめいていた。


 強く、痛いほどに掴まれた手を握ってくる。

「……メリア?」

 どこに行くんだろう。

 わからないままに、ただ、必死に前を向いて歩く彼女に呼びかけた。けれど、返ってくる言葉はなくって、息の詰まるような吐息が漏れ聞こえてくるだけだった。


 遮二無二走って、走らされて。

 辿り着いたのはメリアとこの屋敷に初めて訪れた時に、迷って入り込んでしまった部屋だった。俺が使っている部屋と同じように執務机があって、この屋敷の中で唯一、時を刻む振り子時計がカチ、カチと音を鳴らしている。

 最初はヴィルの部屋だと思っていた。

 けど、それはシルアに怒られながら否定されている。だから、これまで誰の部屋かわからないままだったけど、今ならわかる。きっとここは――

「……大丈夫ですか?」

 声を掛けられて思考の海から浮上する。

 合せて、カチャリッと鍵を閉める音が俺の意識を明瞭にした。


 扉の前で呆然と突っ立っていた俺を窺うように、メリアが下から覗き込んできていた。見下ろす蒼い瞳は心配そうに揺れているが、相変わらずどこまでも透き通っていて、宝石のように輝いている。

「あー、うん。

 大丈夫――」

 心配するメリアを気遣って、平気だと、心配する必要はないんだと伝えようと反射的に口が動いた。そうするべきだと思ったし、事実、正しいのだろう。

「――……じゃ、ないか」

 けど、張った去勢を裏返す。それは否定の言葉だったけれど、俺の本心から出た本音でもあった。


「いいんだ。いい。もう、いいかなって」

「ヴィル様……」

 今、なにが起こっているのか、メリアはわかっていないはずだ。

 だからきっと、俺の言葉の意味も正しく伝わらないに決まっている。

 けど、それすらもどうでもよくって。

 終わりにしたいと、この世界に来て初めて諦めを吐露した。愚痴でもなく、弱音でもなく、終着を。


「いきなりこんな身体になって、わからないことだらけで。

 それでも、どうにかしなくちゃって思ってたんだ。……思ってたんだよ」

 諦めがあった。どうしようもない諦めが。

 これまで張り詰めていた糸がプツンッと切れたような虚脱感。多分それは、あの時。シルアに殺されるのを受け入れようとした時に、切れてしまったんだと思う。

 もう無理だって。

 胸に去来するのは堰き止めて重い重い負の感情。目の前のことで精一杯で、気付かないうちにおりのように溜まっていた感情が、ダムが決壊したように溢れて止まらない。


「でも、殺したんだよ俺は」

 罪悪感があった。

 人を殺した。

 助けてと懇願されたからなんて言い訳で、他にも方法はあったはずなのに、俺は手を掛けた。

 言い訳はある。

 突然だったからとか、メリアが襲われていたからだとか。

 相手が悪人だったからいいんだなんて見ないふりをしていたけれど、やっぱりそれは言い訳で、確かに俺は人を殺めたんだ。


「ただの学生だった俺に領主なんて務まらない」

 どうにかしたいなんてのはただの希望でしかなかった。

 できるだけやるなんて言葉を使っていたのはメリアやシルア。領民たちを救えなかった時の保身でしかない。俺が失敗すれば人が死ぬなんて、考えたくもなかった。

 責任なんて負いたくない。なのに、俺の行動に誰かの命がかかってしまう。

 どれだけ俺には関係ないとうそぶいたところで、責任感という重圧からは逃れられなくって、押し潰れてしまいそうだった。


 それでも、それでも、と。

 虚勢であっても頑張っていられたのは、俺なんかよりも悲惨な目に合っているメリアをどうにかしてあげたいという同情と偽善だけだ。それも今となってはどうでもよくなって。

 死んだら、全部元通りになる。

 そう思ってしまうと、抵抗する気力なんて湧いてくるはずもなかった。


「……死にたいんですか?」

「そう、……見える?」

「見えます」

 だって、とメリアは消えてしまいそうなほど儚げに笑う。

「私と同じ顔をしていますから」

 メリアの手が俺の頬に触れる。

 瞼の下を彼女の親指が撫でた。離れた指先が、どういうわけか濡れていた。


「……どう、なんだろう」

 死にたいと思ってはいる。けど、同時に元の世界に帰りたいとも思っている。

 でもそれは、どちらかと言えばロードのようなものだ。死ねば、この世界に来る前に戻るんじゃないか。根拠もないのにそう思っている。そう、願っている。

 ただ、その考えが浅はかなのも頭の裏側。頭蓋骨をガリガリ削るような感覚と共に理解もしていた。

 これが所謂、自暴自棄というものかと、冷静なのか諦観なのかと自分の状態を把握する。別に可笑しくなんてないのに笑ってしまう。多分、なにかが壊れたんだろう。


「そう、ですか」

 溜まっていた息を吐き出すように、メリアが呟いた。

 なにを思っているのかわからない。

 瞳に薄い水の膜を張りながら、俺ではない誰とも知れない顔を鏡のように映し続ける蒼玉は、彼女の心の内を明かしてはくれなかった。


 止めないんだな、と。

 そう思っていると、扉の鍵が音を立てて開く音が、振り子時計の音と重なった。

 屋敷の鍵を管理しているのはシルアだ。

 この屋敷には彼女の道を阻む物なんてなく、むしろ迎え入れるようにドアが開いた。


「シルア様……」

 振り返ると、片手に短剣を握りしめたシルアが立っていた。

 銀の髪は乱れている。

 顔に掛かった髪をもどかしそうに払い除けた。


 細く、薄められた銀月は虚ろで、メリアと同じでなにを思っているかはその瞳からは窺い知れない。ただ、握った短剣が月の光を反射させ、鈍く光っているのを見て、まだ諦めてないんだというのだけはわかった。

 だから、前に出ようとした。

 無意識だったけど、メリアを庇うつもりだったのかもしれない。

 けど、そうした俺の行動を邪魔するように、前に出たのはメリアだった。

 もういい、と。

 そう彼女を静止しようとしたけど、乾いて喉が張り付いたように上手く声が出せなかった。そのせいで、一歩出遅れて、メリアが話すを作ってしまった。


「どうして彼を殺すんですか?」

 メリアにとって、それは当たり前な質問だったろう。

 彼女から見れば、俺はシルアのあるじで、シルアにとっては仕えるべき対象なのだから。まかり間違っても、殺すべき相手ではない。

 けど、それはメリア視点での話でしかなかった。


「どうして?」

 ぼやくようにシルアが言う。

 僅かに俯かせていた顔を上げ、メリアに向きを合わせる。けど、どこを見ているのか。焦点の合わない瞳は虚空を映すように暗く、光を消失させていた。

 ふ、と笑うように吐息を零す。口の端が、三日月のような弧を描いた。


「決まっております。

 ご主人様が、私の恩人であるセント様を殺したクルク男爵に、浅ましくも媚びて、なにもしようとしないからです」

「恩人……?」

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