第4話 起きたら、エロゲしながら寝落ちしていて、頬によだれの痕が付いている

「誰……って」

 惚けるように口を動かすと、喉元の短剣が僅かに動いた。

 すっと、薄皮の切れる感触にヒヤリとする。短剣の触れた箇所から、血の雫が喉仏を通っていくのがわかった。


 玩具でもなんでもなく、事実短剣だと頭が認識すると、この状況が冗談ではないのだと理解する。あれだけ熱かったのに、血の気が引いていく頭は氷水に漬けたように冷えていた。

 でも、なんで。

 銀髪メイドに怪しまれていたのは知っていた。俺自身、ヴィルの人となりを知らないため、彼のように振る舞うのは最初から諦めてもいた。


 けれど、見た目はそのままヴィル・クラウドで。

 中身が変わったなんて、そんなファンタジーな現象。魔法のないこの世界で、そう簡単に辿り着けるとは思っていなかった。いくら怪しまれようとも、よっぽどでない限り疑惑に留まると。

 そんな俺の思惑を壊す事実を、銀髪メイドは見下しながら冷徹に告げてくる。


「ヴィル・クラウドは酒を好みません。

 大嫌いと断言できるほどに」

 心臓が跳ねる。

 あ、と声にならない声が喉に詰まった。それは待ってという静止を望む衝動だったのかもしれない。

 けど、銀髪メイドは止まらない。残酷なまでに現実を、ヴィル・クラウドという人間を押し付けてくる。


「特にワインは視界に入れたくないほど拒絶していました。

 昔、社交界でワインを一杯飲んだ時に、公衆の面前で嘔吐したのがトラウマになってしまったのです。

 そのため、誰に勧められようが、絶対に口にするはずがありません。

 ――本物のヴィル・クラウドなら、ですが」

 確信めいた物言い。

 熱は冷めても、酒が回って働かない頭。上手く思考はまとめられないけれど、あぁ、謀られたんだなという認識だけはできた。

 そして、よっぽどな真似をしてしまったんだと。


 銀髪メイドの凶行ですっかり酔いの火照りは冷めた。けど、身体からアルコールが抜けきったわけじゃない。

 相変わらず頭は湯気で視界が塞がれたように判然とせず、身体の動きも鈍い。

 やっぱり酒は悪いことばかり。けど、これからどうなるんだろうという考えが過る辺り、恐怖も鈍くなっているのかもしれない。感情の鈍化。こんな状況だけど取り乱さないでいられている今を思えば、お酒も悪いことばかりではないのかもしれない。


 恐れはある。けど、命の危機に反して考えを巡らせるぐらいには落ち着いてもいた。

 どうして銀髪メイドに短剣を突き付けられ、脅されているのか。

 平和な現代で生きていた俺からすると過剰な暴力にも映ってしまうけれど、凶行の理由はわからないでもなかった。


 やっぱり、成りすまし、だよな。

 それも貴族の、と頭に付けばどれだけ重大な咎になるのか。

 身体は本物のはずで、意図したものではなかった。結果的に乗り移ってしまっただけ。事故と言ってもいい。

 ただ、言い訳をしたところで状況は変わらないし、本物のヴィルの安否が不明なままではさもありなん。


 このまま殺されるのかな、俺。

 喉に当たられた冷たい感触が、死を連想させる。

 馬乗りになっている銀髪メイドを突き飛ばして逃げ出したい衝動はある。あるが、華奢な彼女に抵抗できないほどに、身体の酔いは深刻だった。恐怖とは別の理由で指先が震えるぐらいには。

 メイドだけあって、ヴィルが酒に弱いことも知ってたみたいだし。

 こうなることを見越してメリアにご褒美を提案して俺に酒を飲ませたというのなら、迂遠で、けれども用意周到だった。


 いつからこうすることを考えていたのか。

 計画性を感じて、衝動的とは思えない。

 そもそも、銀髪メイドは本来のヴィル・クラウドを嫌っていると思っていた。その点においては、感じる悪感情からも間違いない気がする。それでも、あるじが害されたと知って、こうした直接的な行動に出る辺り、彼女なりに表には出せない思い入れがあったのかもしれない。


「今一度問います。

 貴方は誰ですか?」

「誰って、言われると……誰だろうね?」

「はぐらかしているのですか?」

「そういうつもりじゃないけど」

 抵抗できず、短剣で脅されている状況でふざけられるわけもない。

 ただ、正直、こうして改めて誰かと問われると、答えに窮するぐらいには、自分がわからなかった。


 現代日本で生きているエロゲ大好きな普通の高校生。

 高校生がエロゲ趣味で普通……? という疑問は湧くけれど、それはともかく。俺の認識ではどこにでもいるような学生でしかない。けど、そんな説明をしたところで、異世界のメイドに伝わるとは思えなかった。

 名前を名乗ったところで同じ。誰ですか? と再度尋ねられるのが関の山だろう。


 となると、じゃあ俺って誰ってことになって。

 考える。現代と異世界。意識は連続していて、確かに俺であるのに証明ができない。説明ができない。

 もしかしたら、俺はヴィル・クラウドそのもので、ただただ頭がトチ狂って転生だ異世界だなんて思っているだけなのかもしれない。そう思うと、背筋に薄ら寒いモノを感じる。

 俺は俺なのに。

 自己の証明ができないのがこんなにも怖いものだとは思わなかった。こういうのを、アイデンティティ・クライシスというのかもしれない。なんか格好良いなと思える辺り、まだ余裕はありそうだけど。


「そもそも、疑いって酒だけ?

 メリアにおしゃくをしてもらったから断れなかったっていうのもあるんじゃない?」

 無駄と分かっているが、悪あがきとのつもりで釈明してみる。「……その言葉自体が自白のようなものですが」という銀髪メイドの苦々しい発言には同意を示すけれど、白々しくも今だけは過去のトラウマから目を逸らして飲んだという説を主張してみる。

 ただの時間稼ぎ。乗ってくれないかなと思ったけれど、使用人という職業柄か、銀髪メイドは律儀だった。


「私の名前を仰ってください」

「……」

 押し黙る。やっぱり、白々しい時間稼ぎにしかならなかったらしい。

「最後に、教えてもらえたりする?」

「…………。

 シルアです。貴方には一度も呼ばれませんでしたが」

「自己紹介もされてなかったからね」

 諦めと共に、自嘲めいた冗談を口にする。もちろん、くすりとも笑ってくれず、閉じた薄い唇はキツく結ばれたままだ。


「よろしく、シルア」

「はい。宜しくお願い致します。名前も知らない貴方様」

 言葉にこそしなかったが、そしてさようならと続きそうだった。代わりに、立った刃が首を薄っすらと差し込まれる。


 死ぬな、これは。

 と、ここまでくるとなんだか他人事のように思えてしまう。

 だからといって、死にたいと思っているわけじゃない。助かりたいし、助けてほしい。けど、こうも絶望的な状況だと、諦観が重くのしかかって抵抗する気力も湧かない。

 なにより……と、思い出すのはこの世界に来てしまって、初めて人を手に掛けた光景だ。


 血の海で息絶えた男。

 罪でべっっとりと濡れた己の手。

 悪人とはいえ、人を殺した俺は許されるべきではないんじゃないかと、毎夜思い悩み目を覚ました。その度、隣で穏やかに眠るメリアの寝顔を見て、彼女を救えたんだから正しかったんだと心を慰撫していた。思えば、メリアが寝床に潜り込んでくるのを拒否し切れなかったのは、そうした安らぎを求めていたからかもしれない。


 けれど、清算されなかった罪はこうして追ってきた。それは、殺人を犯した俺には当然の報いなのかもしれないと思う。もっというなれば、たとえ故意ではなかったとしても、ヴィルの身体を乗っ取った時点で、既に人を殺めていたのと同義だったんだろう。


 そう思うと、身体が動く動かないに関わらず抵抗する気は起きなかった。

 それに、もしかしたらと思うんだ。


 このまま殺されたら、元の世界に帰れるかもしれないって。

 安易な考え。そもそも、ゲーム世界ではなくここは現実だと認めていたのだから、ご都合主義な考えよりも尚酷いように思う。ほとんど現実逃避なのだが、最後の最後。死ぬ間際ぐらいそう願ってもいいはずだ。


「……その顔はなんですか」

 断頭台の刃。

 罪人である俺を裁く執行人が、呻くように声を発した。

 どうしてだろうか。月の光に照らされたその顔が今にも泣きそうなほど、苦しそうに見えるのは。

「ヴィル様と同じ顔なのに……全然違う表情」

 空いたシルアの手が、俺の頬に触れる。

 雪のように冷たく、溶けてしまいそうな指先が、輪郭をなぞるように動いていく。


「なんですか、それは……。

 貴方がヴィル・クラウドというのなら、もっと怯えてくださいっ。醜悪であってくださいっ!

 実の父親を殺した相手に媚びへつらう塵屑が、優しくあっていいはずがありません――っ!!」

 肌を撫でていた指先が立つ。爪が突き刺さる。

 銀の瞳。氷が溶けるように波打ち、月の雫が俺の頬で音を立てて弾ける。


 憎しみと苦しみ。

 その両方を表情に載せるシルアを見て、ずっと葛藤していたんだなとようやく知る。

 ヴィルの父親。前領主は事故で死んだという話だったが、真実はそうでなかったらしい。

 きっと、クルク男爵が殺して、ヴィルは見てみぬフリをしたんだろう。


 シルアが前領主にどんな思いを抱いていたかは今更知る由もないけど、こうした直接的な行動に出るぐらいだ。慕っていたんだろう。

 だから、許せなくって。

「貴方は悪人で、屑で、死ななければならない罪人ですっ。

 だから、だからっ……私の行いは間違っていない!」

 それでも、今も良心との間で苦しみ藻掻き、正当性を主張するシルアを俺は優しい人だなって思う。そうでなければ、きっと今日どころか、初めて会った日にこの首を切られていたはずだから。


 もっと違う出会い方をしたかったなぁ。

 悪役貴族の背景にいる、名前のないモブな悪党でなんかなく、俺自身として出会いたかった。

 けど、まぁ。

 これでシルアの思いが少しでも晴れるのならいいのかなって、短剣の刃が肉を裂き、痛みが首から広がっていくのを感じながら思った。


 辛くって、苦しいだけの夢はこれで終わり。

 次に目が覚めた時には、エロゲやりながら寝落ちしていた見慣れた部屋だろうと瞼を閉じようとして、ドンッと突然シルアが突き飛ばされた。

「……ッ!?」

 驚く吐息が聞こえた。

 同じように俺も息を呑み、同時に手を強く掴まれた。


「――ヴィル様……!」


 涙の飛沫が舞う。

 光の粒のように散るその中で、顔をくしゃくしゃにしたメリアが俺を引っ張り上げた。

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