第3話 月明かりの下、銀のメイドの夜這い

 暑かった。

 頭が痛かった。

「……気持ちわるぅ」

 寝室に向かう途中の廊下で、壁に手を付きながらどうにかこうに足を前に進める。足に力が入らずよろよろで、いつ倒れてもおかしくない。というか、先に口から出そうだった。


「不味いと思った段階で止めておけばよかった」

 一口飲んだ時点であれだけ苦くて不味いとわかっていたのに。

 気分の高揚と、メリアとの心地良い雰囲気に呑まれてワインを飲み続けてしまった。お酒の失敗は良く耳にするけど、まさか自分の身に降りかかるなんて思ってもみなかった。

「……うぷ」

 胃から上ってくる後悔を吐き出さないよう口を押さえる。涙で視界がぼやける。


「……まぁ、メリアが大丈夫そうなのは救いか」

 ワイン半量。俺と同じ量を飲んだはずのメリアは、顔を火照らせながらも気持ちよさそうに執務室で熟睡している。その顔は幸せそうで、あれだけ見るとお酒って良い物なんだと思わされてしまう。

 出来れば彼女の部屋のベッドまで運んであげたかったが、もちろんそんな余裕は毛ほどもない。執務室の椅子からソファーに抱えて移動させるのもギリギリで、起こさず倒れず吐き出さず。やり遂げた俺を褒めてあげたかった。


「多分、この身体と酒の相性が悪いんだな」

 ヴィルに仕える使用人だというのなら、主人の好みぐらい知っていそうなものだ。

 メリアを思ってか、それとも俺に対する嫌がらせなのか。

「……どっちもありそう」

 褒美として振る舞った銀髪メイドに恨みを抱きつつも、どうにか寝室のドアの前に辿り着く。執務室と隣り合った部屋だというのに、随分と長い距離を歩いたような気分だ。


 ドアノブに手を掛け、倒れるようにドアを開ける。

 というか、事実倒れた。ざらりとした絨毯の感触が頬を撫でる。うぅっと這いつくばって呻き声を絞り出す。

 このまま倒れていたいと思うが、ベッドまでは後は僅か。

 イモムシのように這って進む姿は酷く情けないだろうけど、体裁を取り繕う余裕なんてありはしない。誰も見ていないから、とかではなく、他人の視線があってもこうしていただろうと思う程度には不調が勝った。


「おぉぅ」

 どうにかこうにかベッドの脇に辿り着き、登山もかくやな心境でよじ登る。そうして、ようやく白いシーツに身体を埋めて一息を付けた。

「あー……あつぃ」

 頭がぼーっとして、とにかく身体が熱かった。

 覚束ない手付きでシャツのボタンに触れる。意識は混濁。指先は震えて、ボタン1つ開けるのにも苦労したけれど、どうにかシャツの胸元を開けると、溜め込んだ熱が放出されて、喉に詰まっていた物が取れたかのような開放感に全身から力が抜ける。

 飲む前までは肌寒いと感じていた屋敷の室温も、未だけは夏のプールのような心地良さがあった。


 ただ、まだ辛さはあって。

 気持ち悪さは喉に留まっている。意識がぼやっとする。

 けれどもそのおかげか、最近頭を悩ませていた事柄が曖昧模糊となっていた。酒に逃げる。なんて、どうかと思っていたけれど、実際に試してみると効果的だなと思う。


 一旦忘れて。

 けれど、明日になれば思い出す。


 異世界に会社なんてあるのかは知らないけど、俺も立派な社会人になったものだと重たい頭で自嘲する。

 気分は飲み会から酔っ払って帰ってきた父親そのままに。

 着替えるのも億劫で、うつらうつらと瞼が落ちそうになる。けど、耐える理由なんてないから、このまま気持ち悪さと心地良さを抱いて眠ろうと思った。

 けど、ドアを叩く音に妨げられる。

 それがノックだと遅まきながらに気が付いて、うぐぁあっと喉から倦怠と悲鳴と返事をごちゃ混ぜにした声を絞り出す。


「メ、りぁ……?」

 働く気のない頭だったけど、こんな時間にわざわざ銀髪メイドが来るはずもないということだけは導き出した。だから、彼女の名前を口にしようとしたのだけど、意味のある言葉になったかは微妙なところ。

 そもそも、声量が足りていない。ほとんど口の中で完結していた。とはいえ、睡魔と酩酊が同時に襲ってきて意識が混濁している。麻痺したように舌なんて動かせず、「うーぃ」と呻きか返事か。判然としない声だけをどうにか肺から押し出す。


 すると、ガチャリと。

 声が届いたのか、ドアの開く音。続いて、滑りの悪い蝶番ちょうつがいの羽ばたく音がした。

 誰かが部屋に入ってくるのは気配でわかった。

 ただ、ベッドで仰向けになったまま暗い天井を見上げていては、その誰かは認識できない。だからといって身体を起こせずにいると、声がした。


「まだ……起きていらっしゃいますか?」

 夜分に気を遣った、囁くような声量だった。

 冷たくって、けど丁寧で。

 声だけで銀髪メイドだってわかる明瞭さがあった。

 いつもなら冷ややか過ぎるその声も、焼石のように火照った頭には心地よく染み入る。


 怠くて、声を出すのも面倒だったから、返事の代わりに手を軽く上げる。

 蝋燭の火すらなく、光源は外から差し込む月明かりだけ。

 見えてないかもって、僅かに残った意識が危惧したけれど、「随分と酔っていらっしゃるようですね」と反応はあったので伝わってはいるらしい。


 ただ、その言葉に僅かな不満を覚える。

 用意したのは銀髪メイドだろうって。

 文句の1つでも言いたかったが、1杯で止めておけばいいのに、飲み過ぎたのは俺のせいだ。なにより、文句を言える元気なんてワインと一緒に底を付いてしまった。

 とりあえず、ぽふぽふとベッドを叩いて抗議はしておく。

 ただ、それだけで意図が正しく伝わるはずもない。

「はい。お傍に参ります」

 と、勘違いを生んでしまった。


 ちがーう。と内心零す。

 けど、胸中だから銀髪メイドに伝わるはずもなく、静かながらも歩み寄ってくる音がベッドを通じて伝わってきた。

 そもそも、こんな夜更けになんの用だ。

 時計なんて高級品、この部屋には置いていない。時刻なんてさっぱりで、おそらく日は跨いでいるぐらいの認識しかなかった。ただ、メイドが、それも女性が。あるじで男性である俺の部屋を訪れるには非常識さが伴う時間帯なのは間違いなかった。

 緊急な案件なのか。

 どうあれ、明日にしてほしいと思っていると、

「ぐえっ」

 と、潰れたカエルの声が吐き出された。

 声だけで済んだのは幸いだったが、それよりも重大な問題がある。


「……なに?」

 俺の身体を跨いで、馬乗りしてきた銀髪メイド。

 冬の月そのもののように、銀色の双眸が冷たく見下ろしている。

 倦怠で身体は動かない。

 けど、突然の行動に驚いてはいて、緩慢ながらも目を見開く。


 まさか、夜這いに来たなんて。

 下腹部に乗った銀髪メイドの尻を意識して思うも、やっぱりそれはまさかで。


 ――貴方は誰ですか?――


 月夜に煌めく短剣を喉元に突き付けられるのはもはや想像の埒外。

 息を呑む。

 短剣だけではない。鋭い言葉の刃が確信を突き、俺の頭の中を真っ白にさせた。

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