第2話 初めて飲んだワインは苦さと気遣いに染み入る

「なるほど。

 これが今夜……か」

 忘れてしまったと、慌ててメリアが厨房から持ってきてくれたグラスを傾ける。

 夜空とも違う、濃い紫が同じように斜めになった。匂いを嗅ぐと、葡萄の香り。そして、アルコールが鼻をツンッとさせて顔を顰めさせてしまう。


「大人しく留守番をしていたらワインをあげるので、ヴィル様と一緒にどうか、と」

「留守番のご褒美、ねぇ」

 子供のようだけれど、与えた物は随分と大人らしい。

 それっぽく、グラスをぐるぐる回して、小さな渦を作って弄ぶ。

「ワイン、好きなの?」

「……初めて飲みます」

 隣に椅子を持ってきて座っているメリアは恥じらうように顔を伏せる。蝋燭の火。その光の色合いのせいか、彼女の顔を赤く染めた。


 メリアの扱いが上手いというか、理解しているというか。

 銀髪メイドは彼女を言いくるめる方法を良くわかっているようだ。ご褒美はワインそのものではなく、俺との他愛もない時間ということか。その気持ちの受け止め方が未だにわからず、この状況に追いやった銀髪メイドの冷めた顔を思い出して、一口も飲んでいないのに口内に苦々しさが広がるようだ。


 ――だいたい、俺があの部屋のワインを売っていいかって言ったら、めっちゃ怒ったのに。

 この世界で、ワインはそこそこ高級品だ。平民では手が届かないぐらいには。

 まだこちらの金銭や物価を把握しきれてはいないけれど、売ればそれなりにはなるらしい。なら売っちゃえば? というのは安易な考えかもしれないけれど、そう的外れでもなかったように思う。

 ……思うが、そう口にした時の銀髪メイドの憤りたるや、竜の逆鱗に触れたかのようで、今思い出しても血の気が引く。良く生きてるな、と我ながら思うぐらいには怒っていた。


 それなのに。

 こうして、メリアには褒美として与えるのだから、些か納得できないものがある。このワインも含めて、そもそも所有権って誰なのかもわからないし。

「この気持ちをなんと表現すればいいのか」

「ワイン、嫌いですか?」

「ん? なんで?」

「飲んでないので」

 言われて、そういえば飲んでないなと気付く。


 ワイングラスの中でぐるぐる回したり、香りを嗅いだり。

 それなりに楽しんでいたように思っていたけど、ワインは飲み物なのだから、飲まなければ本来の意味は真っ当できない。

「嫌いってわけじゃない、けど……」

 手元の濃い紫の液体を見下ろす。

「飲んだことないからなぁ」

 口にして、意外そうに「そうなんですか?」と言われて、唇は乾いたままだというのに口が滑ってしまったのに気付く。

 銀髪メイドが俺と飲むことを勧めたということは、ヴィルは飲めるはず。なのに、初めて飲むというのは、不審が過ぎる。


 怪しまれたかと思い、メリアを窺うとどうしてか嬉しさを噛みしめるようにはにかんでいた。

「じゃあ、私と一緒ですね?」

 ……よく小っ恥ずかしいことをさらっと口にできるよな。

 これが乙女ゲームのヒロインなのか。邪気のない好意に当てられて、心臓が痒くなる。どうしてか、その笑みを見ていられなくなって、顔を逸らしてしまう。

 飲んでないけど、多分酒のせいだなと熱を持った頬を指先で撫でる。


 少し前まで高校に通っていて。

 それなりに真面目な学生だった俺は社会のルールも遵守していたので、さっきまでは飲んでもいいのか? って、無意識な躊躇いを抱いていたのだと思う。

 けど、法律も身体も違う。なら、いいのかなって、羞恥も手伝ってワインを煽る。

 煽ったが、

「うえぇぇええぇ……にっがぁ」

 初めて飲んだお酒は、喉を焼くように苦かった。口の中に収めたままでいられず、犬のようにべっと舌を出してしまう。


 なにこれ苦いんだけど。え? 苦すぎない? ワインって、葡萄ジュースみたいな味をイメージしてたんだけど、こんなに喉に来るというか……うへぇ。

 ヴィルの身体に合わないのかはわからないが、あまりにも酒との相性が良くない。よくこんなの好き好んで飲むなと思う。

「だ、大丈夫ですか?」

 心配してくるメリアに俺は口元を抑えながら、もう片方の手でちょいちょいっと彼女の持つグラスを指し示す。指先を追いかけ、なにやら考えるような間を置いて、恐る恐る口を付け――

「んぎゅっ!?」

 と、小さな悲鳴を聞いて笑う。


 苦くない?

 そう目で語ると、こくこくっと涙目で頷いてくる。やっぱり、俺の舌がおかしかったわけじゃないんだなとわかり、安堵する。同時に、なんだか無性におかしくなって、くくっと喉が鳴った。

 すると、共感めいたモノを感じたのか、瞼を濡らしながらもメリアがふふっと笑みを零す。ワインの苦みのせいか、顔が強張っていたせいで、変な笑い顔になっていたけれど、多分、俺も似たような顔をしているんだろう。


「なに? ワインってこんな苦いの? 美味しかった?」

「いえ、その。……あんまり?」

 貰った手前、大きな声では言えないのだろうけど、控えめな同意にそうだよねぇと深く頷く。

 不味いなぁ、不味いですね、と。

 口にし合いながらも、お互いにワインを注ぎ合って、飲んでいく。


 いくら飲んでも味は変わらず、不味くて苦いままだったけれど。

 開けてしまったからか、それとも、言葉にはできない和やかな空気に浸っていたいからか。

 ゆっくりと、ちょっとずつだけど、飲み続けた。


「……、紅い瞳の貴方様」

 一頻り飲み、ワインボトルの底が見え始めた頃。

 とろんっと、蜜のように瞳を蕩けさせたメリアが火照った手を重ねてきて、あたかも睦言のように囁いてくる。

「無理、しないでください」

 けど、口から溢れたのは、愛ではなく憂いだった。

「全部捨ててもいいんです。

 どこか遠くに、一緒に。私は、貴方さえいればそれだけで」

 彼女の言葉には熱があった。

 それが、酒で高まった熱か、本心故のものなのかは酔いで意識のぼやける今の俺には判然としなかった。

 けど、それはそれでいいなぁと熱を持つ頭で思う。


 まるで駆け落ちのような誘い。

 寄る辺のないこの世界で生きていくために、たまたまヴィル・クラウドという位置にいるが、拘る必要はないのだから。

 領民であれ誰であれ。

 ヴィルならざる俺が責任を感じる必要はなかった。


 でも、

「――大丈夫」

 どれだけ頭が回らなくっても、酔いが回っていても。

 口から出てくるのは平静を装った痩せ我慢だ。


 メリアだけはどうにかしてあげたいと、そう思うから。

 1人だったなら絶対に逃げ出していたであろうこんな状況でも、まだここにいられている。

 それは、彼女の悲惨な生い立ちによるものかもしれない。

 好きだと言ってくれたメリアに情が湧いているのかもしれない。


 歯を食いしばって、踏み留まる。

 そうするにたる感情の出所は俺自身にもわからない。

 けど、もう少しだけ頑張ろうって。

 そんな風に思えるのは間違いなくメリアのおかげだった。


 だから、もう一度言う。

「大丈夫」

 って。

 虚勢も口にし続ければ、いずれ本当になるだろうって、やっぱり虚勢を張って。


 そんな俺の言葉がどうメリアに届いたのかはわからないけど、

「はい」

 と、彼女はしっかりと頷いてくれた。

 けど、と。

 メリアは最後に残ったワインを俺にグラスに注ぐ。


「今日は休んでください」

 ワイングラスの濃い紫。

 霞がかった意識の中、グラスに口を付けて彼女の気遣いを煽る。そして、

「にっがぁ」

 と、しかめっ面を作ると、口元を隠したメリアがクスクスと笑ってみせた。

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