第3話 昨今のソシャゲーの女主人公のように可憐なヒロイン

 手を上げる。鏡の男も手を上げる。

 鏡から離れようとすると、男も同じように離れていく。

 寸分違わない動き。これがパントマイムというのだろうかと、益体やくたいもないことを考えてみる。

 いや、分かってはいる。透明なガラス越しに動きを真似されているわけじゃないことぐらい。


「だからって、さぁ……」

 黒髪に、煌々と紅く光る瞳。

 明らかに日本人ではない相貌が、今にも泣きそうな顔をしていた。現実を受け止められないと、鏡に映る誰かの顔が訴えている。

 瞳は見開きっぱなしだというのに、乾くことなく濡れ続けていた。


 常識とか、現実とか。

 これまで立っていた地面が不確かな物だったと知ってしまったような気分だ。そもそも、今までの人生の足跡すら信じられなくなっていく。

 鏡の前で途方に暮れる。

 同じように、左右対称の世界で呆けている誰かを見ているのが、無性に恐ろしかった。


「どうか、しました……か?」

 いつ、来ていたんだろうか。

 静かで、気遣わしげな声が耳から伝わり、深海のように深いおりの底から俺の意識を浮上させる。

 顔を向ければ、重厚な扉が僅かに開いていて、その隙間から金髪の少女が心配そうに俺を見ていた。


 扉を開けた音すら聞こえていなかった。

 その控えめな態度から、入る前にノックや声掛けもしたんだろうなと、少しだけ悪く思う。……思うが、気付く余裕なんてなくって、今の声すら音として認識できたのはたまたまだ。右から左に素通りしてもおかしくなかった。


「……あ」

 彼女の気遣いになにか気の利いた言葉を返そうとしたが、声にはならなかった。小さく喉が鳴っただけ。考えるより先に声を出そうとして、不発になってしまった。

 そのせいで余計に焦って、舌が回らなかった。反比例するように、頭の中はぐるぐる絡まっていくのだからままならない。

 なんて返事すれば。

 あれ。そもそも、声ってどうやって出すんだっけ。


 焦燥が臓腑ぞうふを焼く。目が回って、世界が回って――

「大丈夫、ですか?」

 服の裾を引かれる。視線を下げると、蒼玉そうぎょくの瞳が瞬いていた。

 息を呑む。

 見惚れて、意識まで呑まれそうになったけれど、その瞼が微かに震えているのが見て取れた。

 それはきっと怯えで。

 気付いたら、すっと波が引くように荒れていた心が凪いでいく。


「……うん、大丈夫。

 ありがとう」

「なら、よかったです」

 にへ、とぎこちないながらも精一杯の笑みに、肩の力が抜ける。伴って、目尻も下がった。


 あんな目にあったばかりで、男である俺に近付くのにどれだけの勇気が必要だったのか。

 想像しかできない。

 けど、容易くないことだけは、彼女の反応で十二分に伝わってくる。


 正直、『もちろん大丈夫じゃない』と肩を落として返したかった。

 これまで、当然だと思っていた自己の証明すらあやふやで、自分が何者なのかすら曖昧になっているのだから。こんなにも精神が不安定になったことは、これまでの人生で初めてだった。……2番目は、専用ルートに入った途端、聖女のような性格が悪魔に変貌したヒロインを見た瞬間なのはともかく。


 俺と同じか、それ以上に不安を抱えている彼女を前にして、ぐちぐちと嘆いていられるほど情けない男ではないつもりだ。

 なにより、自分のことで手一杯の彼女に、余計な心配を掛けさせたくはなかった。

 だから、一時。今だけは、恐怖も不安も胸の奥に仕舞い込んで鍵を掛ける。宝物のような扱い。その実体は負の感情でしかないのだが。


 金髪の少女が肩からズレたストールを直す。

 華奢な手。その女性らしい仕草のせいか、つい彼女に容姿に注目が向く。


 とても今更ではあるのだが、当然ながらダメージファッションというのも乱暴で、肌面積の広い破れたドレスはもう着ていなかった。

 寝巻きを兼ねているのか、ゆったりとした白いワンピースのような服装で、内心うっと唸ってしまう。

 乙女ゲーのヒロインに似ているだけあって、彼女の容姿は整っている。

 例えるなら、昨今のソシャゲの女主人公のような可憐さがあった。可愛く、華やかであるのだけど、アイドルとは違って身近に感じるというか……。いや、よくよく考えて見ればゲームとはいえ俺は彼女ががが。


「あの……。

 改めてになりますが、お礼をさせてください。

 ありがとうございました」

「は、はいっ!?

 いや! お礼というなら、むしろ俺こそお世話になったというかお世話してもらったというか!」

「……?

 それは、どういう意味でしょうか?」

「………………忘れてください」

 わからないと、首を傾げる無垢な少女の瞳に良心が疼く。


 変なことを考えていたせいで、言わなくてもいいことが口からまろび出てしまった。

 とんだ下衆野郎だと羞恥に身悶える。あまりの居た堪れなさに足が逃げたがっているが、彼女がしゅんっと落ち込むのは目に見えているので耐える他に道はなかった。罪悪感で死にそうだ。


「それなら……はい」

 俺の雑な忘却のお願いに、彼女は素直に、小さく頷いてくれた。

 良い子だなぁと思うが、棘がない代わりに爆弾を落としてくる。

「私はメリアと言います」

「……そっかぁ」

 天を仰いだ。

 当然、無神論者な俺に応えてくれる神も仏もありはしない。


 目の前に居る金髪の少女はメリア。

 そして、俺がプレイしていた乙女ゲームのヒロインの名前もメリアだった。

 不自然なまでの一致に額を押さえる。頭痛がする。


 2次元と3次元。

 差はあれど、明らかに乙女ゲーム『異世カレ』のメインヒロインであるメリアと似通った顔立ちをしている。現実に存在していれば、こうなるといった完璧な再現だった。

 古いゲームキャラが、最新の映像技術で美麗に、的確に表現されたような造形美。リアルさ。


 これはもう、腹を括るしかないのか?

 似ているとか、酷似しているとか。

 内心ですら明確な表現を避けてきたが、こうも至るところにゲームとの関連性を見つけてしまうと、偶然で片付けるのは苦しくなる。

 本当に、こういうのは小説とかゲームの中だけにしてくれよ。

 思わずため息をくと、均整の取れた胸の前で手を重ねたメリアが伺うように上目遣いを向けてくる。


「まだ、体調が優れませんか?」

「あー、いや。体調は……」

 身体そのものが入れ替わっているのは大問題だが、

「……大丈夫、です」

 ぎこちなかったが、どうにか言い切る。

 説明したところで頭のおかしい奴と思われるだけだし、これ以上心配させるわけにもいかない。


「それなら、よいのですが……えっと」

 俺を伺う、というよりも、察してほしいとでもいうように蒼玉の瞳を上目で向けては、逃げるように泳がせる。

 両手の指先を合わせてもじもじと、なにかを待っているような……?

 そこでようやく、あぁと気付く。


 彼女の名前に驚いて至らなかったが、名前を名乗られたのなら、返さないわけにはいかないだろう。

 人として、社会人として至極当然な礼儀だ。俺はまだ学生なわけだけど。

「俺は――……」

 名前を口にしようとして、ピタリと止まる。喉まで出かかったそれを、ぎゅるぎゅると押し戻していく。

「おれ、は?」

 不思議そうに言葉を繰り返されて、額から冷や汗が流れ落ちてくる。


 待って。

 このまま本名を名乗っていいのか?


 どういう原理か不明だが、別人に成っているこの状況。

 そんな中、この身体とは関係のない名前を口にして、後々不都合はないのか。面倒事になるほど居たくはないが、いつまでこの状況が続くかはわからない。

 遭難と同じ。最悪の事態を想定しつつ動くべきだろう。


 けど、それならなんて言う?

 俺、この身体の名前なんて知らないし。


 もしも、これが『異世カレ』の世界だったとしても、俺はこんな男を見たことなかった。

 鏡を見た時に呟いた通り、『誰だこいつ』状態なのである。

 つまるところ、名乗るべき名前はわからず、現状は詰んでいると言える。


「……あの?」

「………………」

 戸惑いの声。気まずい沈黙が肌に刺さる。

 どうしようと、湿った唇を結んでむにょむにょと動かしていると、「失礼」と開いていた入り口から白髪を綺麗に整えた老執事が丁寧な所作で入室してきた。

 部屋に足を踏み入れ、一度立ち止まると、俺とメリアに向けてお辞儀をする。


「メリア様、ヴィル様、おはようございます」

 厳かな声音とは異なり、礼儀正しく対応されて思わず「お、おはようございます」と反射的に挨拶をし返す。隣でも、メリアが老執事に向けて挨拶をしていて、重たかった沈黙が緩む。


 声に出さず、心の中ではぁぁあああああっと深い安堵の息を吐き出す。

 この老執事がどこの誰かは知らないが、窮地を救ってくれたことに感謝しかない。重たかった空気を吹き飛ばし、なにより、この身体の名前を教えてくれたことにお礼を言いたかった。

 もちろん、老執事本人にそんなつもりはないだろうから、心の中で感謝の念を唱えておくだけに留めたが。


 目線をメリアに向け、小さな声で「ですです」と呟く。

 意味は伝わったのか、こくこくと小さく頷いてくれた。


 はー、良かった。

 なんだか問題全てが解決したように胸を撫で下ろしていると、顔を上げた老執事が口を開いた。

「本当なら、最初にご挨拶と説明をせねばなりませんが」

 そう前置きすると、老執事は強く瞼を閉じて、先程よりも深く深く頭を下げてきた。

「此度の件、誠に感謝申し上げます……!」

「…………へぁ?」

 酷く間抜けな声が口から漏れ出た。

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