第2話 鏡の前に立つ。知らない男が映る。
「…………目を開けると、知らない天井でした」
て。
そんなモノは小説の中だけで十分だろうに。
明らかに自室とは違う、アンティーク調といった細工の施された白い天井に顔を覆いたくなる。というか、事実、両手で隠す。
けれど、唾液を飲み込んだ拍子に、口の中を満たす濃厚な酸っぱさが俺を現実へと引き戻す。最悪な目覚めに嫌になる。
口を洗えないものかと上半身を起き上がらせると、視界に広がったのはヨーロッパの映画にでも出てきそうな古めかしくも、格式の高そうな内装だった。
シャンデリアに、黒革のソファー。なんだかよくわからないけどお洒落っぽい模様の描かれたカーペット。
「ベッドも」
ぽふぽふと叩くと、埋もれるように反発してくれる。しかも、大きい。クイーンサイズはあるんじゃなかろうか。
すげーとやたら沈むベッドで軽く跳ねてから、やっぱり顔を覆う。
「いやどこだよここ……」
現実逃避すらできないぐらい、知らない情報で埋め尽くされている。
「だいたい、さっきまで――」
と、記憶を呼び起こそうとして、一瞬、視界が真っ赤に染まった。そして、むせ返るような濃い血の匂いが肺を満たす。
「うっ」
口を抑える。
胃から上ってくる吐き気に頬が膨らむ。喉が動く。
幸い……とは言いたくはないが、胃の中は空っぽで、吐き出すモノなんて残っていなかった。
吐き気はするし、口内の酸っぱさにえづきそうになるが、それだけだ。
ぷはっと口に溜まったガスを吐き出す。
代わりに、気絶する前の出来事を鮮明に思い出してしまった。
「そう、か。
俺は、人を殺したんだ……」
出来れば忘れたままでいたかった。
けれど、人間、幸せなことよりも辛い記憶のほうが残っているもので、完全記憶能力なんて持ってないのに、今、目の前で起こったかのように容易く思い出せてしまう。
脳に彫り込んだように。
短剣で文字を書くように、血と痛みが刻み込まれていた。
なにより、手が覚えている。
料理で動物の肉を切るのとは全く違う、短剣で人を突き刺した感触を。
1度だけじゃない。
2度も3度も、執拗に男の背中を刺し続けた感触は幾重にも折り重なって手に染み付いてしまっている。今は血で濡れていない、まっさらな手の平なのに、口を覆う手からありもしない血の匂いを
「……気絶してしまいたい」
そして、忘れたい。
望んだところで、人間の意識はパソコンのようにオンオフできない。
さっきみたいにキャパオーバーで気絶しないかと願うけれど、残念なことに意識はハッキリしていた。頭の中はぎゅうぎゅうで、風船のようにいつ破裂するかどうかという状態だけれど、あまりにも鮮明だ。
「まぁ、気絶して起きての繰り返し、ってわけにもいかないけどさぁ」
溢れるのは嘆きばかりだ。
けど、直視しなければいけない現実は至るところにあって。
考えなきゃいけないことは、それこそ山のように積み上がっている。
「夏休みの宿題のほうがマシだっだなぁ」
やらなかったし、提出しなかったけど。
その後、担任の先生に叱られたのを都合良く忘れて、掘り起こすのはあの少女のことだ。
肉達磨のように醜悪で、醜い男に襲われていた金髪の、美しい少女――乙女ゲーム『異世カレ』のメインヒロイン。…………に、あまりにも酷似していた女の子。
正直、あの時は頭がパンクして気絶するぐらいには、余裕なんてタピオカ1粒ほども存在しなかったので自信はない。いっそ幻覚と言い切れたなら幸せなんだが、周囲の環境がそれを許してくれなかった。
だって、どこもかしこも知らないものばかりだから。
他にも、ここがどこだーとか。
どうして俺がこんなよくわからん場所に居るんだーとか。
気になるというか、色々と頭を抱える問題だらけなんだけど、ここに来て1番ショッキングというか、知らなければと思わせるのは、彼女のことに尽きた。
「あの娘が襲われてたのも、バッドエンドの『悪徳貴族の慰み者』エンドに似てるような……」
似てないような。
あれ……どうだったっけ?
いやだって。
イベントスチルは見たことはあるんだけど、如何せんあのゲーム。乙女ゲーとは名ばかりに、ヒロイン凌辱エンドばっかりのエロゲーというか魂が抜きゲーというか。
その手のシーンばっかりだったんだもの。どれがどのシーンだったとかちゃんと覚えられないよ。
そんなんだから、女性向けなのにギャルゲープレイヤーばかりが買うんだ。その癖、本筋はちゃんとイケメンたちと乙女チックな恋愛してるんだから意味がわからな――閑話休題。
「でも、あの顔はメリアだと思うし、慰み者エンドのはず」
むむむと首を捻る。
2つの類似点。
勘違い、と断言できるならそれに越したことはないけれど、今のところ否定できる材料はなかった。
いっそ夢であったならと頬を抓ってみる。
「
自分を虐めただけになった。
そもそも、夢かどうかを痛覚で確認するって正しいの? 教えてエロい人ー。
ふざけてみても、もちろん事態は好転しない。
嘆息。
「で、あの娘はどこ?」
部屋はやたらだだっ広いが、居るのは俺1人。
まさか、隣で寝てないよなとちょっとドキドキしながら掛け布団を捲ってみるが、ドレスの破れたあられもない少女は居なかった。
はぁ……と、無意識に吐き出したのは残念だなと思ったわけではない。たぶん、そう。
「最初の部屋じゃないみたいだし、別の部屋かな?」
まぁ、囚われて手籠めにされかかった後に異性と同室。それも、2人きりになりたいわけもないか。
そもそも、この家、……家? というには、目に見える内装はあまりにもヨーロッパの屋敷っぽ過ぎるのだけど、気付かないフリをしておく。
近所にこんな豪邸があれば嫌でも目につくし、きっとインテリアに拘ってるだけだろう。思考放棄。
で、この家って、他に人が居るのか?
居たら居たで少女誘拐の犯人のお仲間さんだ。俺が居るのは謎だけど、歩き回っていいか悩む。
「ていっても、ここに残ってもしょうがないか」
髪を撫でる。
「ん?」
なんか、今、変だったような……?
感触、というか、なんだ。普段と違うような気が……。
血のせいかなぁと違和感を抱きつつも、ベッドの脇に足を下ろす。
「警戒しつつ、探索かな」
さっと立ち上がって、黒くて重厚な扉を目指して、ピタリと足を止める。
「…………。
これ、誰が着替えさせてくれたのかな?」
ベッドの近くに置いてあった姿見に全身が映って、俺のではない服に着替えさせられているのに今気付いた。
ラフなシャツにズボン。
「そういえば、血も」
……考えるのは止めよう。相手が女性だったら死にたくなるし、男でも絶望は奈落ほどに深い。
せめてあの娘じゃありませんようにと祈りつつ、鏡から離れようとして――
「……は?」
あまりにも大きな変化。
なのに、意識して見るまで気付かなかったのは、当たり前過ぎて見逃していたからかもしれない。
自分の影が犬猫の形をしていたとして、どれだけの人が自分の影じゃないと気付けるかというのと同じ。
影はそこに正しくあると、無意識下で理解しているのだから、わざわざ確認しようなんて思いもしないし、疑わない。
だから、鏡には俺が映るのだと、意識なんてしなくっても思っていた。
そのはずで、そんなの当たり前なのに。
「………………誰だ、こいつ」
まるで俺の内心を表すかのように、鏡に映る知らない男が目を剥いて驚愕していた。
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