乙女ゲームのモブ悪役に転生した直後、バッドエンドで犯されそうになっているヒロインを反射的に助けたら、片時も離してくれなくなった。

ななよ廻る

本編

第1章

第1話 始まりは悪役貴族の慰み者バッドエンドから

 絹を裂くような女性の悲鳴で目が覚めた。

 晴れた視界に飛び込んできたのは見たことのない広い部屋。そして、豪奢なベッドの上で今にも犯されそうになっている美しい少女だった。

 ただ、その端正な顔立ちは涙で濡れていて、悲痛と悲嘆に染まっている。


「くくく、なにを泣いている?

 喜べ!

 今からお前は私のモノになるのだから!」

「いやぁ……やめてくださいっ」

 お願いします、許してくださいと、泣きながら許しを懇願する金髪の少女に跨る男は無慈悲だった。

 肉の垂れた醜悪な顔を歪めて、口の端からよだれを垂れ流す。


 少女は必死で逃げようとするが、よく見れば両手首が太い鉄の錠に繋がれていた。錠から鎖が伸び、ベッドの上から逃げ出せないようになっている。

 鎖の音だけが虚しく、やけに耳に響いた。


 少女が着ている純白のドレスを男が破り捨てる。

「ひっ」とか細い悲鳴を上げた少女。無惨に引き裂かれ、白い谷間が男の視界に晒される。男の興奮を示すように、分厚い舌で己の口の周りを舐めた。


「大人しく私のモノになれ――」

 鎖と力で組み伏せ、美しい少女を手籠めにしようとする愚物。

 目を覆いたくなるような一連の光景を目にしてなお、俺は呆然と立ち尽くすばかりだった。


 なに、これ?

 なんでこんな……そもそもここは――。


 情報の整理が追いつかない。

 目の前で起こっている出来事が理解できない。

 視界に映る現実が、テレビの向こう側で起こる映画やドラマかのようで、自分のこととして直視できなかった。

 大粒の涙を零す少女と目が合うまでは。


「たす、けて……」

 ――――


 無意識というか、本能的というか。

 少女の懇願に突き動かされるように身体が勝手に動いていた。

 脅すためだろうか。棚の上に置かれていた剥き出しの短剣を手に取って、俺はベッドの上で今にも少女を貶めようとする醜悪な男を――突き刺した。


「あ、がっ……っ!?

 お、まえっ、なに――げぼっ」

 血走らせ、驚愕で目を見開く男の背を刺した。


 刺して、

 刺して、

 刺して、

 刺した。


「はぁ……はぁっ……」

 気付けば、白かったベッドは血で赤く染め上がっていた。

 俺の手には短剣が握られていて、見下ろした先には幾つもの刺し傷を晒した男が倒れている。これだけの傷だ。当然、事切れていて、脈なんて確認しなくても男が死んでいるのは見てわかった。


 握った短剣が手から離れない。

「はぁ……ぁ」

 力を抜こうとしても、指一つ動かせず、手の筋肉が膠着こうちゃくしてしまったかのようだ。

「ころ、した……?」

 俺が? 人を?

 見るからに最低な糞野郎で、死んで当然と思う相手だが、俺が人の命を奪ったという事実は変わらない。

 実感がない。けれど、人殺しの感触は、血と一緒にどす黒い赤となって俺の顔、手、身体の至るところにこびりついていた。


「……うっ、う゛え゛ぇ゛っ!?」

 バシャッと、胃から迫り上がってくるものを惨めに吐き出した。

 死体にこそぶちまけなかったが、ベッドの横。床には胃液と共に吐瀉物としゃぶつが赤いカーペットの上に広がった。透明で、白かったそれは、ベッドから絶えずこぼれ落ちてくる血と混じって赤く染め上げられていく。


 耳鳴りがする。視界が赤く染まる。

「あ、あ、……」

 込み上げて、また吐き出す。胃の中身がなくなるまで、それは続いた。


「どう、じで……な、んでぇ」

 ポタポタと。

 口から、目から、液体が溢れる。涙なのか、唾液なのかなんてわからない。

 ただ、あれだけ吐き出したというのに、胃がもたれているような圧迫感があまりにも苦しく、胃液すら出なくなっても苦しい、苦しいと身体が内側からなにかを吐き出そうとする。


 おりのように溜まるそれは、罪悪感なのか、それとも人を殺した嫌悪感からくるものか。

 わからない。なにもわからない。

 ただただ、とにかく楽になりたいと、えずきながら内側のなにかを醜く吐き出し続ける。


「だい、じょうぶ……ですか?」

「あ……?」

 ジャラ、と鎖の擦れる音がした。

 泣いて枯れた、けれども心地良い女性の声に惹かれてぐしゃぐしゃになった顔を上げると、不安そうに、けれども心配そうに長い金髪を乱した少女が見つめていた。


 少女は怯えるように身体を震わせながらも、うつ伏せで息絶えた男を避けて、ベッドの脇で蹲る俺に近付いてくる。

 無惨に破れたドレス。晒された肌を隠そうともせず、案ずるように手を伸ばしてきた。

 それを俺は見ていることしかできない。

 呆然と。魂が抜けたように。

 頬に触れそうになった指先は、伸び切った鎖によって阻まれ俺には届かなかった。


「……っ」

 悲しげに眉を寄せる少女。

 それは未だに囚われたままの自分を嘆いたというよりも、俺を慰められたなかったことによる心痛に見えた。


 お人好しだなと思う。

 同時に、強いなとも。

 こんな酷い目にあって真っ先に他人を心配するなんて。


 馬鹿だなぁ。

 けど、彼女の行動から汲み取れる優しさに触れたからだろうか。石を詰めたように重たかった胃が少しだけ、軽くなった気がした。

 喉のつっかえが取れ、呼吸がしやすくなる。

 息を吐き出し、吸い込む。……すえた匂いと味に顔を顰める。うえぇ。


「その……ありがとう」

「いえ」

 ドレスを裂かれ、涙と血で濡れた無惨な姿だというのに。

 首を横に振った彼女は、清廉に笑った。

「こちらこそ、助けていただきありがとうございます」

「………………あ」

 笑った顔を見た瞬間、気付きと同時に意識がぷつりと切れた。


 それは多分自己防衛で。

 処理しきれなくなった情報の波で、頭が壊れる前に身体が反応したんだと思う。


 気付いたらこんなところに居て。

 女の子が襲われていて。

 初めて人を殺して。


 一杯一杯だった俺の頭に最後の一押しをしたのは、皮肉なことに俺を気遣ってくれた少女の笑顔だった。

 どうしてか。

 それは彼女の顔に、その笑みに見覚えがあったから。

 けれども、それは本来現実で見ることの叶わない


 ――どうして現実に乙女ゲーのヒロインが?


 薄れゆく意識の中、瞳の裏には花のように笑うメインヒロインのゲームスチルが浮かび上がっていた。

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