第11話 須佐

 嵐の夜が去った。

 小屋の隙間から朝日が差し込んでいる。早夜はそれをぼんやりと見る。

 ああ、朝か、と思ったとき、小屋の扉を打つ音がした。


 とん、とん、と規則正しい音から、だれかが叩いているのだろうと思う。

 早朝の突然の客の来訪に不思議に思いながら、早夜は扉を開けた。


 そこには茶色がかったぼさぼさの髪を後でまとめた、速風と同じくらいの年ごろの男が立っていた。体格も速風のように逞しい。

 その男は早夜をみるとニカッと笑った。


「すまないねえ。オレの友達がここで世話になってると思うんだが、まだ寝てるか?」

「友達……速風のことですか?」

「ああ、ここではそう言われてるのか。そうそう、その速風。連れて帰りたいから起こしてくれる?」


 連れて帰る……。その言葉に早夜の顔色は、ざっと青くなった。

 速風の知り合いということは、この人物は神、もしくはそれに準ずる者であり、高天原たかまがはらで生活しているものだろう。


 高天原……その世界のものしか、足を踏み入れることは出来ないと言い伝えられている。

 そこへ行く為には『天浮橋あめのうきはし』という、どこにあるかも分からない橋を超えて行くと言う。


「高天原の方ですか?」

「ああ? あー話が早くていいねえ。そうさ、オレは海の神、須佐すさだ」

「須佐さま……。速風をつれていっちゃうんですか……?」

「なになに? 寂しいの?」


 少し意地悪く目を細められて、早夜は羞恥で視線を逸らせた。


「そんなことは……」


 おおありだ。速風のいない生活なんて、今は考えられない。


「まあいいから、速風を起こしてよ」


 そう早夜に迫る須佐の声に応えるように、速風が言った。


「わたしはここだ。それにどこにも行く気はない」

「ああ、大速おおはや。覚えてる? オレ、須佐だけど」

「知らん」

「冷たいねえ。一言かい」


 須佐は早夜を無視して速風のいる板の間へあがると、彼の前に胡坐をかいた。


「帰れ」


 速風は語気強く一言つげる。


「んー。帰るわけにもいかないんだよね。オレ、大速のために姉上の誤解を解かなくちゃいけないしね」

「大速? 誰だ、それは。それに姉上とは?」

「覚えてないなら、こう呼ぼう、速風。それとオレの姉上は天照あまてらすさまだ。速風には妹君にあたられるんだが、覚えてはいないみたいだな」

「そなたは高天原から来たのか」


 確信を持って速風は聞いた。

 早夜もそう思った。

 もっと二人の話を聞きたくて、土間から板の間へと上がり、速風の隣に座る。


「色々と忘れちゃっているんだねー。まあ、ほとんど全部オレのせいだけど。ごめんね」

「ごめんねって……」


 須佐はてへっと茶色のぼざぼざの頭に手をあてた。

 軽い。あまりにも軽すぎる。

 記憶を失って高天原から小舟で流され、神力も失った速風に対して。

 だが、何故か憎めなかった。


「詳しく教えてもらおうか」

「うーん、どこから話したらいいのかな」

「どこからでもいい。話せ」

「そうだね、じゃあ、まず君の名前から。君の名前は『大速風男神おおはやかぜおのかみ』という、風の神だ」

「な、なに?」


 早夜がもう一度、と聞き返す。


大速風男神おおはやかぜおのかみ


「聞き覚えがないな、本当にわたしの名なのか?」

「そうさ。そして、オレは須佐之男すさのおという海の神だ。ここまで分かった?」

「……ああ」


 あまりの須佐の軽さに反発したくなるが、不承不承ふしょうぶしょう、頷く。


「問題はここから先の話だ」


 須佐は一旦目をつむってから開き、早夜と速風に目をやると話しはじめた。




 ある日、高天原の天照大神の宮で、神がみの宴が催された。神がみは歌い、踊り、無礼講とばかりに宴を楽しんでいた。

 当然、その場には須佐と速風も招かれていた。

 須佐と速風は天照の兄弟神のため、待遇も良かった。

 そして、須佐は元来の調子の良さで、速風にどんどんと酒をすすめ、飲ませて酔いつぶした。

 その上須佐は、酒に酔い大暴れして他の神たちの不況を買い、さんざん散らかして帰っていってしまった。最後に朝までその場に残された、酔いつぶれて寝ていた速風が、天照の不興を買ってしまったのだ。


『わたくしの宮でなんという失態。この惨状と、朝まで酔いつぶれていたという罪で、お前を罰する』


 そう、天照は言った。


 家臣たちの讒言ざんげんもあった。

 速風を良く思っていなかった者たちが、天照に吹きこんだ言葉はこういうものもあった。


『風の神とは言えども、天照あまてらす様の宮でこの狼藉、許せるものではない』


『追放されるのがよろしいかと』


 それを聞いた天照はもっともだと思い、命を下した。


『この者の記憶をすべて奪いさり、小舟に乗せて地上界へくだせ』


 と。

 速風は『忘却の酒』という強い酒を飲むことを強要され、天照の前でその盃をあおった。

 高天原のものたちは、その場で倒れた速風を運んで小舟に乗せて、人間のいる地上界へと流したのだ。




「わかった?」

「ある程度は分かったが、何故この騒動の元凶である須佐が無実なんだ」


 速風は納得いかずに須佐に聞く。


「オレは姉上のお気に入りだから。誰かに罪をなすりつけて、オレをかばうために、速風が犠牲になった」


 そう言った須佐の顔は、今までおちゃらけていた表情をきゅっとひきしめ、真面目な顔になった。

 そして速風の前に両手をついて勢い良く頭を下げる。


「すまん!」

「……」

「ゆるしてくれとは言わない。けれど、オレはどうしても大速おおはやを高天原に戻してやりたいんだ。『忘却の酒』の力を中和する『覚醒の酒』も持ってきた。これを飲めば神力も戻る。そしてオレが姉上に謝って、お前を高天原に戻れるようにする」


 須佐は懐から小瓶をだして、ばんっと板の間に置いた。


『覚醒の酒』 


 これを飲めば、速風は風の神として覚醒する。

 そして高天原へと帰ることができる……。


「帰れ」


 しかし、速風は無常に須佐を切り捨てた。


「わたしは帰らない。今の生活が気に入っている。早夜と寝起きし、魚をとって、狩をして。日の出と共に起きて、日暮れと共に寝る。そういう生活が好きなんだ」


 しかし須佐も譲らなかった。


「なら風の制御はどうする? ミウとタウがここにきているだろう? ここ最近大地を襲っている嵐はどうする?」

「それは……」

「風の神は大速だけだ。オレもミウとタウから聞いて大速がここにいることを知った。もっとよく考えろ」


 諭すように言った須佐に速風は彼らしくなく、激昂した。


「勝手な! 神力を取りあげ、海に流しておきながら、大地が荒れればまた戻れと言うのか!」

「それが神だ。早夜だって嵐で迷惑をこうむっている人間の一人だ」

「くっ……」


 早夜の名を出されて、速風は言葉を失った。

 自分の力の無さを痛切に感じて自己嫌悪に陥ったのは、つい昨日の嵐のときだ。


「今日はこの辺でオレは帰る。これ、置いていくからな」


 須佐は『覚醒の酒』を置いて、早夜の小屋を出て行った。

 まだ村のものが起きだしていない、早朝のことだった。

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