第2話 記憶

 日はもうだんだんと昇ってきている。

 人々が炊飯する煙が小屋から立ち上っているのが、早夜の小屋の窓から見えた。

 肩に背負った男を土間よりも一段上になっている板張りの床に寝かせると、獣から取った毛皮を掛けてやる。暖かくなってきたと言っても、寝ている人物にとっては気温が低すぎる。


「まだ寝てるのか?」


 そう声をかけても男はまつ毛さえぴくりとも動かさない。

 不安になってまた手を鼻先にかざし、呼吸を確かめた。

 規則正しい呼吸を感じる。

 それに厚い胸板も上下している。

 やはり寝ているだけだろうと思い、男の傍らに座りこみ、しばらく寝顔を見ていた。


 わりと整った顔をしている。肌も綺麗で、引きしまった口元と輪郭、意思の強そうな眉が印象的だ。


 とたん、くう、と腹が鳴った。

 そうだ、まだ朝飯を食べていなかった。今日は魚を捕りにいく予定だったのだ、と思いだした。

 いまから魚を釣ってこようか……。

 そう思ったが、一人で寝ている男が心配で、早夜は粥をつくることにした。

 土間にある窯で麦と雑穀と食用の草で粥を作ると、それに塩をひとつまみ入れた。そしてゆるい火にかけて温めておく。


 土間から板の間に上がって、また男の顔を見る。

 腕を組んで胡坐をかき、着ているものも見た。

 白い髪、群青色の高価そうな着物。

 そして赤と白の宝玉の首飾り。

 何度見ても豪族に思えた。


 じっと顔を凝視していると、ふとまつ毛が動いた。


「あ……」


 その男が口を開いた。


「気が付いたか!」


 早夜は思わず大きな声を出していた。何故かとても嬉しくて、男に満面の笑みを向ける。


「わたしは……? どうしてここに? ここはどこなのだ?」

「お前は海に小舟で流れ着いてたんだ。ずいぶん上等な小舟だったぞ」

「小舟……覚えていない」


 うつろな目をして男は早夜を見た。

 初めて見た彼の瞳は、黒かった。

 少しほっとする。黒い瞳なら、この豊芦原中つ国にはごまんといるからだ。

 青とか緑だったらどうしようかと早夜は思っていた。もしそうだったら村に溶け込むのは難しいからだ。


「そなたは……?」

「俺? 俺は早夜。ここは豊芦原とよあしはら中つ国の日雫村ひだむらという漁村だ。お前の名前はなんていうんだ?」

「わたしの名……わたしの……」

「ああ」

「覚えていない……」


 え? 聞き間違えたわけではなさそうだ。男は申し訳なさそうにその意思の強そうな眉を寄せた。


「名前を覚えてないの?」

「ああ。そのようだ」

「そのようだって……」


 男はすっと寝床から上半身を起こした。

 やっぱり身体が大きい。

 あまりにもその男が大柄なので小柄な早夜は子供に戻ってしまったかのように感じられた。

 少し気押されながらも、質問をしてみた。


「他に何か覚えていることは?」

「……無い」

「……は?」


 何も覚えていない? じっと男の目を見てみるが、嘘を言っているようには見えなかった。

 また腕を組んで早夜は考える。

 うーんと、唸り声をあげて、一つ男に提案した。


「じゃあさ、名前だけでも俺が決めていい? お前、俺が海で名前を聞いたとき、なんとか「はやかぜ」なんとかって言ってたんだ。だから「速風」ってよんでいいか?」

「はやかぜ……か」

「うん、はやかぜ。いい名だと思う」

「はやかぜ……か。ああ、いい名だ」


 速風はにこりと笑った。


「取りあえず飯を食おう。粥が温まっている」


 早夜はいそいそと粥を窯からはずすと、土鍋から木杓で椀によそった。

 速風の方には多くよそってやる。きっと腹をすかせているだろう。

 椀を速風と自分の前に置き、小さな木杓を二本持ってきて、一本を速風に渡す。


「食べよう。腹減ってるだろ?」

「悪いな、ありがとう」


 無邪気に聞いた早夜に礼をいい、速風は有難く粥を口に含んで行く。


「ああ、うまいな」

「そうだろう? 俺、けっこう料理上手なんだ」

「そういえばここには早夜一人で住んでいるのか?」

「そうだよ。あと番犬のクロウも一緒だ」


 クロウという名を聞いたからか、クロウは「わんっ」と吠えて答えた。

 早夜は誰かと一緒に飯を食べるということが久しぶりで、嬉しくて思わず笑みが漏れる。


「クロウが速風を見つけたんだ。クロウの吠える方へ行ったら速風の乗ってた小舟があった」

「小舟……か。乗った記憶もなければ降りた記憶もないな」

「でも今のところ、話もできるし、飯も食べられる。あとは追い追い、何が出来て何が出来ないのか試してみるしかないな」

「すまない。わたしの為に。迷惑を承知で甘えることにする。今ここから出て行けと言われても行くあての無い身、そなたに頼るしかないのが現実だ」


 真面目腐った顔でそういう速風に早夜は笑った。


「くっはははっ! 『わたし』とか『そなた』とか、本当に豪族なんだね」

「豪族……?」

「この豊芦原中つ国を治めている地方長官たちはみんな豪族さ」

「わたしが豪族? 地方長官? そんなに偉い人物だとは思えないが」


 笑っている早夜を困り顔で見つめる速風だ。あごに手を当てて考えるような仕草をしたが、「やはり思い出せない」と首をふる。


「絶対そうだよ。だって相手のことを『そなた』っていうのはたぶん、豪族くらいだ。前にこの村に来た豪族がそう言ってるの聞いた」

「そうか……。そなたがそういうのなら、そうなのかもしれないな」


 何か納得できずにいるような口調で速風は粥を啜った。


「それでさ、速風」

「なんだ」

「速風の髪の毛なんだけど……」


 早夜は速風の髪を見て真剣な顔をする。


「その髪は切って布でも巻いて隠しておいた方が良いと思う」

「何故?」

「うーん、そこで「なんで」っていうのか。速風は得体が知れないな。その若さで白髪なんて、だれもいないよ。さっき隣の真緒おばさんにも「鬼か」って言われた。速風のその白い髪は悪い意味で目立つんだ。自覚……ないみたいね」

「そうなのか……」


 少し意気消沈した様子の速風に、早夜は首を傾けてその白い髪を見つめた。


「本当は切るのは嫌だと思うけど、今は我慢して?」

「何故切るのが嫌だと思うんだ?」


 早夜はふっと溜息をついた。


「そこでまで「なんで」か。本当に色々忘れちゃってるんだなあ。でも豪族の普通と俺たちの普通が違うのかな。髪を長く伸ばしているのは正式な儀式や祭の場で結う為だよ。速風のその長い髪も、きっと儀式や祭のときは綺麗に「みずら」に結ってたんだと思う。俺も儀式とか祭のときは結うよ。だから長いんだ。あとは女の人は普通におしゃれで長くしてるな」


「つまり今この髪を切るということは、儀式や祭のときに結えなくなるということか」

「そう」


 速風は笑った。


「なら考えるまでもあるまい。わたしは儀式にも祭にも出なければいい」

「うーん、でも、ね……。そうもいかないと言うか……まあ、いっか。白い髪で仲間はずれにされるよりはいいからな。待ってろ。今、石小刀いしこがたなを持ってくる」


 食べ終わった椀を片付けて水場へ下げると、早夜は石小刀を持って速風の元へ戻ってきた。


「今切るのか?」

「ああ。今のままじゃ、外に出られない。着る物も後で調達してきてやる」

「何から何まで済まないな」


 早夜は速風の後ろに回ると、その長い絹糸のような白髪をそっと左手で掬いあげた。

 しっとりとした手になじむ感触が、気持ちが良い。切るのがもったいないと思った。


「綺麗な白髪なんだな。絹糸みたい」

「そうか? ありがとう」

「礼なんていらない。俺はこれからこの髪を切るんだから。いいか? 切るぞ?」


 束ねた髪に内側から外側へと、さくっと石小刀を滑らせた。

 早夜の手に残る光沢のある長い白髪、それと手から離れて頭の脇に流れた白髪。


「ありがとう」


 速風は再度、早夜に礼を言って己の髪を自分の手で触った。


「短いな」

「うん」

「何かすっきりした」


 早夜は部屋の隅に置いてあった洗濯済みの布を持って速風に渡した。


「後はこれを頭に巻いておけば、しばらくの間はみんなにはばれないよ。俺はこの髪を山に捨ててくるから」


 早夜はそう言うと布袋に速風の白髪をしまい、彼の背後から正面に回った。


「いい? 俺はこれから山にいく。その間、誰が来ても扉を開けちゃダメだぞ」

「承知した」

「じゃあ、行ってくるから」


 早夜はそう言うと、速風の髪を捨てるために山へ出かけて行った。

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