第五章

「お待たせいたしました、マルゲリータでございます」

 先に出てきたのは、パスタではなくピザの方だった。薄いグレーのエプロンを着た従業員が置いた皿の上には、宣材写真そのままの鮮やかな色をしたトマトとチーズとバジル。それぞれ「いただきます」と呟いてから、右手とフォークで一片を持ち上げた。

「すごい、大変だったんですね、お仕事」

「ちょっと、そうなんです。ごめんね、全然連絡できなくて」

「いえいえ、それは全然」

 前回と同じ、濃い紺色の背広姿だった。だが、今日のカズキさんから感じる「大人っぽさ」は、成熟した凛々しさというよりも、くたびれたような苦々しさに近かった。健康そうな胸の厚みも、まるで萎んでしまったかのように、捉えることができない。

「普段は全然そんなのないんですけど、残業とかも結構続いて」

「ああ」

「もう、話しかけられても答えてる余裕ない、みたいな」

 持ち上げた一片のピザを、カズキさんは淡々とした仕草で齧った。

「今は、とりあえずひと段落って感じですか」

「そう、ですね。この後は、ちょっと落ち着くかな」

「よかったです、お疲れ様でした」

「いやあ。ごめんね、何の話だったっけ」

 ピザを置いて、手を拭き、スマートフォンを取り出す。どうやら、メッセージアプリでのやりとりを遡ろうとしてくれているらしかった。

「ああ」注目を集めるための咳払いのような、意味のない言葉で口火を切った。「あの、ちょっとここに来る前に、用事で寄ったところがあって」

「えっ?」

「そこで、せっかくだったので」椅子の下のカゴに入れていたショルダーバッグから、その小さな紙袋を取り出す。「大したものじゃないんですけど」

「え、いやいや、そんな」

「いえ、大したものじゃないので」

「えー、そんな。すみません」受け取りながら、紙袋に印刷されたロゴを見つける。「あ、コーヒーだ。これ、有名なところですよね」

「ちょうど、お店があったので」

 カズキさんの表情は、笑顔というよりも、驚きの方が上回っているように見えた。

「わあ、ありがとうございます。じゃあ、帰っていただきます」

「はい、是非」

 カズキさんが椅子の下へと手を伸ばした時、薄いグレーのエプロンを着た従業員が、今度はパスタのプレートを携えて、現れた。

「お待たせいたしました、オマール海老のペスカトーレでございます」


・・・・・・・・・・


「あ、やばい」薄暗いスクリーンの、深い赤色をしたベルベットのシートに腰を下ろした時、カズキさんは呟いた。「ちょっと、怪しい感じだったら、起こしてね」

「ですよね。お腹いっぱいだし、僕もちょっと」

「集中しとかないとね」

「まあでも、きっと面白いので」

「そうだね」

 作品としては本日最後の上映回ながら、客席の半分ほどはすでに埋まっていた。空間に満ちた独特の静けさから、話す声が自然と小さくなる。

「有名な監督なんですよ、海外で賞とかも獲ってて」

「そうなんだ」

「脚本も、原作の作家さん本人が手がけたっていう」

「へえ、楽しみ」

 短く、あっさりと答えてから、カズキさんは大きく息を吸って、シートの背もたれから背中を浮かせた。

「背筋伸ばしてたら、大丈夫かな」

 そう冗談っぽく言って、小さく笑った。


・・・・・・・・・・


「面白かったね、ちゃんと」

 一階に到着し、エレベーターから降りて開口一番、カズキさんは言った。

「面白かったですね」

「ちょっと、所々記憶のないところもあるけど」

 そう言って苦笑いを浮かべる。隣でうつらうつらとしていることには気付いていたが、無理に起こす気にはなれなかった。

「最後のシーン、凄かったね。演技が」

「キャスト、皆さんハマってましたよね」

「本当に。最後のセリフとか結構、ジーンと来た」

「分かります」

 そこでカズキさんは、ふっとガラスの向こう側を見遣って、口を開いた。

「そして、もしかしてあれは」表情は苦笑いのまま、変わらない。「例の場所の賑わいですか」

「ですね。なんか、すごい人出に見えますね」

「この前より断然、だってあの黒いの全部、人だよね。すごいな」

 その瞬間、すでに感じ取っていた。あの時二人を引っ張ってくれた、言葉のない約束のような力が、今日ここには無いということ。それは、口を開く前から理解できてしまっていた。

「どうします、覗いてみますか?」

「いやあ。ちょっと今日は、もういいかな」

 踵を返す。二つの靴は、改札の方へと向かう。

「そうですよね。また今度」

「そうだね、また」

 そこから改札まで、互いに口を開くことはなかった。追い越していく雑踏が次々と沈黙を埋め合わせ、辿り着くまではあっという間だった。

「じゃあ、ありがとう。楽しかった」

「こちらこそ、ありがとうございました。楽しかったです」

「今度は、休みの日にゆっくり遊びたいね。夜からじゃなくて」

「ああ、そうですね。ぜひ、お願いします」

「うん、じゃあ。帰り、気をつけて」

「はい。カズキさんも、お気をつけて」

「ありがとう」

 カズキさんは呟くように言って、小さく手を振り、笑顔のままで振り返った。改札を通り、エスカレーターへと去っていく。そして何事もなかったように、次々と数えきれない人たちが、同じ改札をくぐって進む。

 振り返り、地下に降りるエスカレーターへと向かう。煩い飲み屋通りを通り抜け、定期券売り場を過ぎれば、地下鉄駅の構内に着く。改札を通り、下り線のホームに降りると、ちょうど列車の到着するところだった。車内はまばらで席は空いていたが、ポールにもたれて立った。ドアが閉まり、列車が動き出した直後、ポケットの中のスマートフォンから、通知音が響いた。

『今日はありがとう、楽しかったです!コーヒーもありがとう〜 今度はゆっくり遊びましょう、帰り気をつけて!』

『こちらこそありがとうございました!楽しかったです〜 今度は土日とかにどこか行きたいですね! カズキさんもお気をつけて〜』

 T駅から数えて四つ目の駅で、列車から降りた。改札を後にして階段を上り、家へと向かう道中、ぽつりぽつりと立つ街灯ばかりの夜道は人の気配もなくひっそりとして、夜が一気に更けてしまったようだった。車もまばらな静寂の中、ふたたび通知音が鳴った。

『遊び行ってご飯食べたりして、夕方からクリスマス広場とかね! 来週、再来週が土日予定ありなので、その先でまた連絡します!』

 思わず、その場に立ち止まった。その言い回しには身に覚えがあった。

 因果は、切なさよりむしろ滑稽さを感じさせた。咄嗟にそんなことを思う自分が、とても嫌な奴に思えた。

『いいですね! 再来週以降、了解です〜』

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