第三章

『O県在住です。会社員やってます。邦ロック好きで、フェスよく行きます! 最近ジム通い始めました〜 趣味同じ方、ご飯行きましょう!』

 アプリのプロフィール画面を表示させたまま、もう一度顔を挙げて辺りを見回した。金曜日の夜、T駅北口正面のエレベーターの前は上階へ向かう人の列が絶えず、背後のガラス壁の向こうには広場の煌びやかなイルミネーションと、それを影で覆い尽くしてしまうほどの人の姿がある。

 約束の午後七時を回ったが、それらしき人物は見当たらない。もう一度、画面に目を落とす。ユーザー名の欄には「KH」とある、察するにイニシャルだろう。三十五歳、その表記の横には「友達募集/恋人募集」の文字が並んでいた。そして、どこかの居酒屋と思しき場所で撮られた、飲み会の最中らしき屈託のない笑顔の写真。グレーのラフな半袖シャツを着た、健康的に見える言わば「普通」体型の、目元は幼げながら表情全体に大人らしい落ち着きを感じさせる顔立ちの、凛とした雰囲気のある容姿をしていた。

 顔を挙げてみる。ふと、こちらを見つめていた一人の背広姿の男と、目が合った。

 写真の人物であるという確信はなかったが、こういった待ち合わせは一瞬の目配せで、なんとなく相手が判別できてしまうものである。案の定、彼はまるで顔見知りを見つけたような自然さで、ワイヤレスイヤホンを外しながら真っ直ぐに歩み寄ってきた。応じる気持ちで、こちらからも近づいていく。

「ヒロさんですか?」

「はい」

 咄嗟に、相手の名前も確認しようとした。ところが、あの「名前」をいったい何と発音すれば良いものか、分からなかった。

「はじめまして!すみません、ちょっと遅れちゃって」

「いえいえ、全然」

 身長はほとんど同じくらいだったが、体格は写真よりも一段とがっしりして見えた。背広のラベルの切れ目から、ビジネスシャツを膨らませた胸の厚みが窺える。顔立ちに至っても、写真で見るよりも精悍である印象を受けた。

「お店、どうしましょうか。何食べたいとか、あります?」

「そう、ですね。何でも、僕は大丈夫ですけど、どうですか?」

「そうですねえ、自分も別に、何でも」

 そして考えを巡らすように、彼はしばし黙ってから、改めて口を開いた。

「賑やかな方がいいですか、それとも静か目なところが」

「できれば静かな方が、お話とか」

「そうですよね」彼は大きく頷いてみせた。「それだと、ここの上の飲食店街とか、ちょっと歩くとお寿司屋さんとかもありますね。南口の方の、焼き鳥屋も美味しかったな」

「ああ、いいですね」

「この地下の飲み屋通りもあるんですけど、けっこう賑やかだから」

「じゃあ」これだけ提案してもらって、何の意思も示さないのは失礼だと感じた。「ちょっと上の階、覗いてみますか?いろいろあるし」

「上、行ってみましょうか。何があったかな」

 ちょうど、三機並んでいるエレベーターのひとつが、上階から戻ってきた。辺りの数人とともに、扉の前へと踏み出す。

「確か、海鮮居酒屋とかはあったと思うけど」

「あ、いいですね。海鮮、好きです」

「本当ですか。じゃあ、そこ行ってみましょう。美味しいですよ」

 扉が開き、大きな機体が出迎えた。二十人くらいは乗れそう、と思われる広々した印象は、その壁面がガラス張りでデザインされた効果によるものかもしれない。

 十人ほどが乗り込んだが、最上階である九階に着くまでに止まったのは一度だけ、六階で一組の男女が降りただけであった。残りの者は全員が、自分たちと同じく九階のレストラン街を目的としていた。六階から十秒と経たず、重力が軽くなり、扉が開く。抑え気味の、暖かい色の照明が包む上品な雰囲気のフロアへ、それぞれが連れ立って出ていく。ふと、すぐ正面に構えられた店舗の看板を見て、彼が呟いた。

「そうだ、パスタもありますね」そして、入口前に提示された「ディナーメニュー」を指差して振り向いた。「ここも美味しいですよ」

「美味しいです。実は、ちょうど先週」

「あ、来ました?」彼は目を丸く開いて、小さく笑った。「そうなんだ。じゃあ、別のところがいいですね。こっちだったと思うんですけど、居酒屋」

 彼は先立って、フロアの奥の方へと歩き出した。そして一番奥の突き当たりに、一枚板に筆文字の看板を掲げた、その店はあった。

「ここです。久しぶりに来たなあ」

 ちょうど入口のそば、若い女性の従業員がレジ機に立って作業をしていた。彼はそのまま、彼女に声をかけた。

「すみません」

「はい、いらっしゃいませ」

「二人なんですけど、入れますか」

「二名様ですね。只今カウンターでのご案内ですが、よろしいですか?」

「大丈夫です、よね?」

 振り返った彼に、問いかけられた。もちろん、問題はなかった。

「はい、全然」

 彼は小さく頷いて、また従業員の方を向き直し、大きく頷いて言った。「お願いします」


・・・・・・・・・・


「市立図書館、自分も通ってましたよ」

 彼は、少し声のトーンを高くして言った。三杯のハイボールを飲んで、顔が赤らむといった外見の変化は見られなかったが、店に入った時と比べてその喋り口は、いくぶん饒舌になってきたように思われた。

来た時は満席の混雑ぶりだったが、何時間経ったのだろうか、店内はもはや、あと数組の客が残るばかりだ。

「資格の勉強してた時、よく使ってました。でも、CDなんて置いてました?」

「あるんですよ、CDコーナー。けっこう色々置いてて」

「色々?」

「やっぱりクラシックが一番多いんですけど、ポップスも、邦楽洋楽けっこうあります」

「えー、そうなんだ」目を丸くして驚いてから、枝豆をつまんで言う。「ちょっと、また行ってみたいな。久しぶりに」

「家から七、八キロあったんですけど、自転車で通ってました」

「八キロ!すごいね」

 彼は、ラストオーダーで注文したハイボールのジョッキをぐっと煽った。背広を脱ぎ、その腕が確かに鍛えられているのはシャツ越しに見てとれた。そして、大きなジョッキをゆっくりと置いた彼は、おもむろに表情を崩した。

「でも、同じようなことやってたかも、学生の頃は。自転車で、レンタルのお店何軒もはしごしたり。新譜の日とか」

「僕もやってました。当日返却で借りて」

「そうそう。また、返しに行くのが大変なんだよね」

 そうなんですよね、と頷きながら、思わず口元が緩んだ。最後に残った唐揚げに箸を伸ばしながら、話題を続ける。

「僕、バイトもやってたんです、レンタルビデオで。大学の頃」

「へえ、いいなあ。憧れだったかも、レンタルのお店でバイトするの」彼はふたたび、枝豆へと指を伸ばす。「どこのお店ですか?」

「あの、東区の方にあるショッピングモール、分かりますか」

「都市高の近くのところ?」

「あ、そうです」

「えっ、自分よく行ってましたよ」

「本当ですか」

「前、あの辺に住んでたから。それ、何年前くらいですか」

「大学の頃だから、三、四年前ですかね」

「今のところに引っ越したのが、確か三年前とかだから、じゃあもしかしたら」

「会ってるかもしれないですね」

「ですねえ。へえ、そうなんだ」

「でも、あのお店ももう無くなっちゃいましたもんね」

「あ、そうなの?」

「はい。ていうか、レンタルのお店はもう、この辺ではほとんど」

「ああ、確かに見ないかも。最近」そう言って彼は、思い出したように続けた。「だいたい、CDを聴く機械がないんじゃない?」

「僕は一応、パソコンで」

「あ、そうか。パソコンでね」

 そこで彼の口調は、自身が年長であることを意識したような、どこか懐かしむようなゆったりとしたトーンに切り替わった。

「昔はさ、例えばラジオとかで聴いて『いいな』って思っても、CD買うなり、借りるなりしないと、まともに聴けなかったからね。今はもう、それこそフェスとかで気になった曲とか、もうその場で聴けるから。サブスクとかでね、すごいよ」

「CDとかDVDとか、わざわざ借りに行ったり、なかなかしないですよね」

「そう考えると、そうだよね」

 そこでふと、何気ない間が空いた。会話を続けなければという義務感も、沈黙の気まずさも感じることなく、有り体の気持ちで問いかけた。

「気になる曲って、やっぱりフェスとかで聴いてっていうのが、多いですか?」

「最近は、そうですね。あとはサブスクで出てくる『おすすめ』とか」

「ああ。いいですよね」

「メロディーもだけど、歌詞で好きになることが多いんです。最近」

 彼はぐっと、先程よりも少し長めの一口で、ハイボールを煽った。

「自分、こっちの人と会ったりするようになったの、結構遅くて。だから、人を好きになったりっていうのも、それまで全然」

「片想いとか、なかったですか?学生の頃とか」

「なかったですね。カッコいいな、とか、ただ思ったりはしてたけど。だから、前まではラブソングとか、普通に『いい歌だな』って聴いてたんですけど、意味が分かるようになったっていうか」

 なんて言うのかな、鱈の味醂焼を一口分崩しながら、彼は小さく呟いた。

「こう、経験を通して気付くっていうか。そういう時があって」

「なんか、分かる気がします」ただ調子を合わせたわけではなかった。「何となく聴いてたのが、こういう気持ちのことだったのか、みたいな」

「そう、そう。すごい、刺さっちゃって」

 味醂焼を口に運ぶと、彼はぴったりと箸をそろえて置いて、言った。

「難しいですよ、恋愛って。やっぱり」

「そうですよね」

 そう頷いた途端、他者になった自分に冷ややかに捉えられたような、気恥ずかしさを覚えた。饒舌になっている、などと他人をとやかく言えた身ではないと、自覚した。

「いや、そうですよねっていうか、僕は全然、まだまだですけど」

 そう付け加えると、それを言うことで誤魔化すつもりだった狼狽をまるまる察されたのか、彼は慰めるように言った。

「でも、若いのに落ち着いてますよね。ヒロさん」

「そう、ですか?」

「うん。なんか、普通に同世代と話してるみたい」彼は小さく笑った。「いい意味でね」

 おもむろに近付いてきた従業員のひとりが、空いているカウンター席の調味料のカゴを片づけ始めた。気付いた彼は、ちらりと腕時計に目をやった。

「あ、もうこんな時間」

「何時ですか」

「一〇時四〇分だって」

 彼が差し出してくれた、腕時計に見えたそれは、手首に装着するタイプの電子デバイスだった。その液晶に浮かび上がった数字は、確かに「一〇:四二」と示している。だが、そこに時刻としての現実味は感じられなかった。数えて三時間半という時間が流れたような実感は、まるでなかった。

「片づけましょうか」

「そうだね」

 力強くハイボールを流し込む彼、ジョッキの中でがらがらと崩れる角氷を尻目に、味醂焼に箸を伸ばした。


・・・・・・・・・・


「あれってさ、もしかして」

 エレベーターから降りて間もなく、彼は正面のガラス戸の向こう側を指した。

「クリスマス広場ですね」

「ですよね、もうやってるんだ。いや、来た時もちらっと見えて、気になってて」

 彼は、改札へと向かう足を止めて、見入るようにその場で立ち止まった。

「あの光ってるの、全部イルミネーションですもんね」

「そうです。すごいですよね」

「すごい。そして人出もすごい」

 彼の言う通り、広場にはこんな夜更けとは思えないほどの賑わいが窺えた。もちろん、イルミネーションも変わらない明るさで辺り一面を照らし出しており、その空間はどこか時間の流れから隔絶したようですらあった。

 隣の彼に目を戻した。遠くの盛況を見つめる彼は、これまでと大人っぽさから一転して、どこか幼い子どものように映った。

「ちょっと見てみます?」

 気を利かせたとかいうことはなく、そう提案することこそ、自然な流れだと感じた。

「まだ、大丈夫ですか?時間とか」

「はい、僕は全然」

「じゃあちょっと、いいですか?」

 その言葉をきっかけにして、足枷のような何かから解放されたように、ふたり揃って北口から外へと歩き出した。

「自分、これ毎年やってるのは知ってたんですけど、ちゃんと覗いたことってなくて」

「そうですか」

「そう、そう。だから」

 進むにつれて、長いエスカレーターや、二階部分の影で阻まれていた視界が、だんだんと開けていく。ついに中央のツリーの全体が見えた時、彼は驚嘆の声を上げた。

「すごい!」

 最終電車も間近とは思えない、かき分けるほどの人混みだった。広場へと踏み入り、イルミネーションの全容がようやく露わになる。アーチ状の輝くオブジェや色を変えていく街路樹のLEDが現れるたびに、彼は「こんなすごかったっけ」とか「うわあ、すごいな」とか、屈託のない声を漏らした。

「あ、なんか出店みたいなのも」

「ホットワインとか、ありますよね」

「へえ!美味しそう」

 広場の入り口に立ったその場所から、八割方が埋まって見える長テーブルの群れの向こう側、ちょうど正面の奥に「WINE」と書かれた屋根のコーナーが見える。

「ヒロさん、ワインとか、どうですか?」

「あ、飲めます。一杯、飲みたいですよね」

「ね、せっかくだし」

 もうひとつ足枷の取れたような気持ちで、賑わうテーブルの間を抜けながら、その店へと歩き出していった。だが、ちょうど半分くらいを進んだところで、カウンターの向こうから手を伸ばしたスタッフが、掛かっていたメニュー表を取り上げてしまうのが見えた。

「あれ?」

 彼らはてきぱきとした手つきで、店じまいの準備を始めていた。そういえば、と振り返る。ごった返していた外の方に比べて、出店とテーブルが並ぶこのメインエリアの中は、若干まばらである。テーブルの人々は、ばらばらと立ち始めている。ステージの隣に張り出された、大人の背丈くらいある大看板を見た。営業時間は「午後十一時まで」とある。状況は、直感的に理解できた。

「ああ、もう終わっちゃったんだ」

「えー、そうなんだ」

 彼もまた、実際に時間を確認するまでもなく、終業時刻を回ってしまったことを感じ取ったらしかった。

「残念だなあ」

「人多いし、まだやってると思ったんですけど」

「ね、本当に」

 彼はその場に立ち止まって、青と白に輝く巨大なクリスマス・ツリーを見上げた。

「でも、まあこれ見れたし、いいか」

 言い聞かせるように呟くと、彼はまた、元の大人らしい口調に戻って言った。

「いやあ。ありがとうございました、今日は本当に。楽しかったです」

「こちらこそ楽しかったです、ありがとうございました」

「そうだ、よかったら連絡先、交換しませんか」

「あ、是非」

 スマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いて、互いのプロフィールを登録した。表示された名前は「Kazuki」とあった。やはり、例のユーザー名はイニシャルであったらしい。

 画面から顔を上げると、彼はまた目を細めて、空に届くようなツリーを仰いでいた。

「また、リベンジしたいですね」

「そうだね。今度は飲みたいね、ホットワイン」

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