第30話 特殊能力
忙しいという字は「心を亡くす」と書く――
昔、誰かがそんなことを言っていた気がする。忙しくなればなるほど視野は狭まり、思考は鈍くなり、心にゆとりもなくしていく。たしかにその通りだ。
ただ、忙しくしているほうが心の安定を保てることもある。自分自身がまさにそれだ。もし、連日仕事に追われていなければ、自分は間違いなく心を病んでいたと思う。
ネルドラ帝国の軍司令官、シャラはそんなことを考えつつ自宅へ足を向けていた。軍司令官である彼女の自宅は、広大な軍部の敷地内にある。
基本的に、軍に属する者が敷地から外へ出ることはほとんどない。敷地内には規模の小さな街が展開し、商店や飲食店、医療機関など、生活に必要な施設はあらかたそろっている。
立ち止まったシャラがふと空を見あげた。すでに空は闇色に支配され、そのなかにポツポツと砂金のような輝きが見てとれた。
「ふぅ……」
小さく息を吐いたシャラが、再び足を進めようとした刹那――
「んぐっ!!」
突然、背後から何者かの呻くような声が聞こえ、シャラは身を低くしながら弾けるように振りかえった。そして、目に飛びこんできた光景に思わず息を呑む。
そこには、逆手にもったナイフを振りあげたまま、口から血を流している男の姿があった。よく見ると、胸のあたりからナイフの刃らしきものが飛びだし、全身はふるふると小刻みに痙攣している。
「こんな時間にぼーっとしてたら危ないよ、司令官さん」
男の巨体がぐらりと揺らいだかと思うと、ばたりと音を立てて倒れた。男の背後に潜んでいた者が姿を現す。
「……ジーナ隊長か。すまん、助かった」
華奢な体に肩まであるグレーの髪。特殊魔導戦団シャーレ、白夜部隊を率いる隊長ジーナ・セフィーロだ。
「要人の護衛が我々の任務だから、お礼を言われる筋合いはないよ」
ナイフに付着した血を拭いつつジーナが言う。
「それにしても、最近は軍の敷地内まで暗殺者が入り込むようになったかー。うちらの仕事が増えるな」
「……もしかして、ほかにも?」
「うん。セレナリアの暗殺者らしき者があと二人ほど入り込んでいたから、もう始末したよ」
「さすが……要人警護のエキスパートだな。まさか、ジーナ隊長直々に私の護衛をしてくれているとは思わなかったが」
普段、シャラの護衛をしているのはジーナの部下、ミオである。
「……ちょっと、聞きたいこともあったからね」
「聞きたいこと?」
眉をひそめるシャラの顔を、ジーナがじっと見つめる。
「うん。どういうつもりだったのかなって」
「……いったい、何のことだ?」
「うーん。娘を人間兵器として育てあげたこと?」
ジーナの言葉を聞いたシャラの顔がみるみる険しくなる。
「……ジーナ隊長。それをいったいどこで?」
「あ、噂レベルの話だと思ってたけど、やっぱり本当なんだ」
「……!」
にこりと笑みを浮かべたジーナとは対照的に、シャラは悔しそうに唇を噛んでいる。
「ジーナ隊長。できればその話を公にするのはやめてほしい」
「どうして? 帝国や軍を裏切った娘のことが恥ずかしいから?」
わずかに目を伏せたシャラが小さく首を振る。
「まあ、別に言いふらすつもりはないけど。てゆーか、よく自分の娘をあそこまで厳しく鍛えたもんだよね。私が親なら絶対ムリだと思う」
「そう……だな。そうしなくてよかったのなら、どれだけよかったか……」
「……どういう意味?」
呟くように口を開いたシャラに、ジーナが怪訝な目を向ける。が、シャラはハッと我に返ると素早く踵を返した。
「いや、何でもない」
そう一言残すと、シャラは再び前を向いて歩き始めた。
――鮮血の新たな拠点では、全隊員とレイナが今後について話しあいの最中だった。と言っても、すでに今後の大まかな動きは決まっている。皇帝をはじめとした、国の中枢に位置する者の暗殺、もしくは捕縛。
「問題は、それをどのように実行するか、です」
リンナがメガネを指で押しあげながら言う。
「うーん……うちらのなかで一番暗殺が上手なのはハイネだけど……」
双子の片割れ、アルシェがちらりとハイネを見やった。
「いや、そもそも顔が割れてるって時点で、こっそり暗殺するってのは難しいわよ」
「それもそうか」
ハイネに言われアルシェが肩をすくめる。
「それに、皇帝や軍司令官に近づけたところで、白夜の連中が護衛してるだろうし」
「あー……そっちのが問題だな」
はぁ、とため息をついたアルシェに、横からマルシェが肘打ちを喰らわす。
「じゃあ、いっそのことリザ隊長の
「却下。キーマ、あんたバカなの? そんな目立つことしたら、軍もシャーレも出てきちゃうでしょうが」
じろりとマリーに睨まれたキーマが、あからさまに肩を落とす。
「リザ隊長はどう思います?」
「ん……ターゲットが明確で、居場所もはっきりわかっているのなら、空から魔法で攻撃すれば暗殺できる可能性は高い、と思う」
全員がリザへ真剣なまなざしを向ける。
「ただ、それでも白夜には気づかれると思う。白夜というか、ジーナに」
「そう言えば、ジーナ隊長ってめちゃくちゃ耳がいいんでしたっけ?」
「いいなんてレベルじゃない。あれは、マリーの魔眼と同じような特殊能力。ジーナは五百メートル離れたところで針が地面に落ちた音でも拾えるって言ってた」
リザの説明に、鮮血の面々がぎょっとした表情を浮かべる。驚異的な聴力。これほど暗殺者にとって厄介な能力はない。
「任務外でだらけているときならともかく、本気になったジーナは手強い。多分、今は暗殺者に対して神経質になってるから、少しでも普段と違う音が耳に届いたらすぐ気づかれる」
「うーん……リンナ、何かいい案はない?」
端末を操作しているリンナへマリーが目を向ける。
「そうですね。隠密行動で暗殺するのが難しいなら、正面から行くのが一番手っ取り早いかと」
「何か、リンナらしくないゴリ押し案ね……」
「でも現実的です。何せ、鮮血は精鋭中の精鋭部隊なんですから。仮に検知されたとしても、私たちなら突破できるはずです。ただ、この場合戦闘の規模は大きくなるので、非戦闘員に被害を出してしまうおそれがありますが」
全員が考え込むような顔になる。もともとは自分たちが暮らしていた国である。できるだけ、非戦闘員の死者やケガ人は出したくない。
「もう一つの案は調略です」
「調略?」
「はい。つまり、帝国内に我々の味方を作る」
リンナの瞳が、レンズの奥でギラリと光る。
「それこそ……難しそうだけど。帝国を裏切った私たちの味方をしてくれる者なんていなさそうだし」
「そうですね。ですが、内通者を一人でも確保できれば、今後の動きはより容易になるはずです。できれば皇帝の近くにいる者、もしくは軍部の人間が味方になってくれたら……」
マリーをはじめ、アルシェやマルシェも難しい顔をして黙り込む。リンナはそう言うものの、とても現実的とは思えない案だった。
結局、この日は良案が出ないまま一日の終わりを迎えてしまった。
戦場に跳ねる兎 瀧川 蓮 @ren_takigawa
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