第42話 とても憂鬱なんです

十月も半ばをすぎ、日中もかなりすごしやすくなった。青々としていた木々の葉は少しずつ黄金色へと変化し始め、金木犀が蠱惑的な香りを振り撒き自己主張をし始めたことで、誰もが秋の訪れを肌で感じていた。


「はぁ? 何言ってんのよ。秋と言えば『食欲の秋』でしょうが」


やや冷んやりとした女子トイレの空間に、白鳥沙羅の甲高い声が響いた。


「あなたこそ何を言ってるんですか。秋と言えば『読書の秋』でしょう?」


手洗い場で手を洗い終えた陽奈が、ハンカチで手を拭いながら横目でジロリと沙羅を見やる。


「はぁ……これだからアメリカ帰りのガリ勉ちゃんは困るのよね〜。日本への理解が少ないんじゃないかしら?」


「お言葉ですが私はガリ勉ではありません。する必要もありませんし。あと、日本文化や歴史に関しては間違いなくあなたより理解できていると思いますよ」


「ぐっ……!」


淡々と言葉を紡ぐ陽奈を、沙羅が「ぐぬぬ」と睨みつける。先日の一件以来、陽奈と沙羅は会話を交わす機会が増えた。


と言っても、だいたいいつもこのような感じである。知らない者からすると険悪に見えるかもしれないが、彼女たちのクラスメイトからするととてつもない変化だ。


以前の陽奈は誰かと積極的に会話するようなことはなく、話しかけられても無視することも多々あった。特に沙羅に対しては。こうして会話のキャッチボールができていること自体、彼女たちを知る者にとっては奇跡なのである。


「……食欲の秋よ」


「いいえ、読書の秋です」


「食欲!」


「読書」


と、二人が不毛なやり取りをしていたところ――


「秋と言えば、やっぱりスポーツの秋だよね~」


陽菜の隣に立ち、手を洗い始めた桃香がのんびりとした声を出す。どうやら、用を足しながら二人の不毛なやり取りを聞いていたようだ。


「ああ……そういや、そんなのもあったわね」


興が削がれたかのような素振りを見せる沙羅に対し、桃香はにんまりとした笑みを浮かべる。


「そうそう、やっぱり秋と言えばスポーツだよ。もう少しで運動会もあるし。楽しみだね~」


桃香が口にした言葉に、女子トイレから出て行こうとしていた陽菜の体が固まる。


「……は?」


沙羅と桃香を振り返った陽菜の顔には、「何それ」と言わんばかりの何とも言えない表情が浮かんでいた。


「いや、この時期はいつも運動会あるじゃん。一ヶ月前くらいから先生も言ってたし。もしかして、あんた聞いてなかったの?」


「……興味なさすぎて記憶から抹消していました」


「ほんと、あんたって……。言っとくけど、運動会に参加しないのはマズいわよ? この学校、なぜかイベントごとには力入れてるし。内申点にも影響するかもだから」


「内申点は正直どうでもいいのですが」


「何かムカつくわね」


「……まあ、参加はしますよ。去年も運動会だけは参加しましたし」


「ああ……そういやそうだったわね。体育は基本休むくせにね」


「大きなお世話です」


陽菜がふいっと顔を背けたタイミングで、昼休み終了を告げるチャイムが校内に鳴り響き、三人は小走りで教室へと駆けだした。



――男は外で稼ぎ女は家を守る。今どきそのようなことを口にすると、きっと時代錯誤と言われるだろう。


だが、少し前まで日本ではこのような考え方が当たり前だったし、自分もそう考える両親のもと育てられた。


だからこそ、自分は若いころから身を粉にして働き続けてきた。家事は何一つせず、育児にもノータッチだったが、妻は何も言わなかった。今思うと、自分には何も期待していなかったのかもしれない。


価値観や常識などは時代にあわせて変化する。人々も、時代の変化にあわせて価値観や常識、知識をアップデートしなくてはならない。それができなかったからこそ、自分は家庭を顧みることなく、結果的に息子もあんなふうになってしまった。


マンハッタン、ミッドタウンイーストのアパートメントへ戻った影浦春樹は、四人がけの大きなソファへ腰をおろし天井を見上げた。


日本の外資系企業へ勤めていた影浦が、アメリカの親会社へ転属となったのが約五年前。妻と二人の息子を日本へ残し単身で渡米し、仕事でもそれなりの成果を出していた。


息子たちと離れるのは多少寂しかったものの、家族を守るために働くのだと考えればそれほど苦ではなかった。息子たちも、きっと父の背中を見て立派に育ってくれるはずだ。そう思ってやまなかった。のだが。


あるとき、大学生になった長男の恭平が問題を起こした。それは、古い時代の日本男児を地で行く私にとって、許しがたい行為だった。


まさか、恭平の性癖があのように歪み、そしてあのような行動を起こすとは。怒り狂った私は、被害者のお嬢さんへ心から謝罪し、恭平を半ば強引にアメリカへ連れてきた。


もしかすると、それもいけなかったのかもしれない。弟の和真はアメリカでの生活になじんでいたが、恭平はこちらでも問題を起こし、手がつけられなった挙句あのようなことになり、半年ほど前に日本へ戻ることになった。


やはり、私がいけなかったのか。もっと、家族を顧みるべきだったのか。後悔してももう遅い。


スーツのポケットからスマホを取り出した影浦は『glamorous』へログインした。ユーザーの大半を若者が占めるSNSだが、影浦は以前から仕事の情報収集に役立てていた。


ただ、今影浦がログインしたのは仕事で使っているアカウントではなく、裏垢である。誰にも話せない悩みや愚痴、葛藤などをただただ垂れ流すためだけに作った裏垢。


右手の親指でポチポチと何やら打ち込んで投稿した影浦が、ふぅとため息をつく。


緩慢な動きでソファから腰をあげキッチンへ向かい、ウイスキーのボトルを手にとるとグラスへなみなみ注いだ。


アルコール度数の高い琥珀色のウイスキーを、ストレートのまま喉へと流し込む。喉が焼けるように熱かったが、顔を顰めながらかまうことなく流し込んだ。



――電話で声を聞いたとき、何となく元気がないなと樹里は感じた。


『陽菜、学校で何かあったん?』


ベッドへうつ伏せになった樹里が、スマホを耳にあてたまま言う。


『どうしてですか?』


『んー、何となく声が元気なさそうというか……』


『……別に何もありませんよ』


『いや、それ絶対に何かあるやつじゃん』


『……』


『え、まさか学校でイジメられたりしてないよね?』


ベッドから身を起こした樹里が、眉根を寄せながら真剣に問い正した。


『私ってそんなふうに見えます?』


『いや……全然見えない』


『まあ、そんなんじゃありませんよ。ただ、運動会が迫ってるので憂鬱なだけです』


電話の向こうで、陽菜が「はぁ」と大きくため息を漏らした声がはっきりと聞こえた。


『お、そうなん? いつ?』


『……月末の土曜日です』


『へー! じゃあ応援行くよ! みんなで!』


『は!? ほ、本気ですか……?』


『うん。ダメ?』


『う……ダメではないですけど……恥ずかしいです』


本当に恥ずかしいのか、声がだんだんと小さくなったのを樹里は感じた。


『どうして? あ、運動苦手だからか』


『そうですよ。できることなら参加したくないんですが……』


『そういや、陽菜って体育の授業は全部見学してるんだっけ。それなのにどうして運動会は出るの?』


『お母さんがそういうイベント好きなんですよ。だから絶対に出なさいって。本人は仕事で応援にも来られないくせに……』


陽菜が唇を尖らせている様子がありありと目に浮かび、樹里の口元が綻んだ。


『あー、いるいる。お祭りとかのイベント好きな人。お母様もそうだったんだ。じゃあ……なおさら応援に行かなきゃね』


『……無理して来なくていいですよ?』


『いや? むしろ行きたいんだが?』


『ぐ……』


『陽菜の学校の運動会も、お昼は応援に来た家族とかと一緒にご飯食べるの?』


『そうですね。グラウンドの周りとか体育館に敷物を敷いて……お弁当広げていた記憶があります』


『よし、じゃあ私がお弁当作るから、みんなで一緒に食べよう!』


『……いいんですか? 樹里、目立っちゃうんじゃ……いや、もっと目立つ見た目の人もいますけど……』


陽菜の頭のなかに「イェーイ」とピースする葉月と昌の様子が思い描かれた。


『大丈夫だよ。さすがに小学生にまで知られていないと思うし。よーし、頑張って腕振るっちゃおう。陽菜も頑張ってね』


『はい……。でも、本当に……何も期待しちゃダメですよ?』


『ん? どゆこと?』


『私……本当に運動苦手なんで、活躍もできないというか……』


珍しく自信なさげに言葉を紡ぐ陽菜に、樹里は「何かかわいい」と感じ思わずにんまりとしてしまった。


『大丈夫だって。陽菜が頑張ってるとこ、見て応援したいだけだからさ』


『……わかりました』


とりあえず、陽菜の好き嫌いだけ確認した樹里は、電話を切るとさっそくレシピを考え始めた。


んー、お弁当作るの久しぶりだな。高校に進学したばかりのころはよく作ってたけど、最近は学食ばかりだし……。


しかも、今回は一人分じゃなくて大人数のお弁当だ。腕の振るいがいがある。うーん、おにぎりと卵焼き、タコさんウインナーは鉄板として、あとは唐揚げにエビフライ……あ、野菜もとらなきゃだからサラダもいるな。


あ、大きな重箱あったかな。今のうちに探しとくか。


頭のなかでお弁当のなかみを考えつつ、重箱を探すため樹里はブツブツ呟きつつキッチンへと向かった。

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