第41話 縁はつながるもの

学生時代、何かの本で読んだことがある。人生におけるあらゆる障壁は、神様からの試練なのだと。その試練を乗り越えることによって、人は神様に喜ばれる人格へと成長できるのだと。


バカバカしい。神様は、すべての人間が試練を乗り越えられると考えているのだろうか。乗り越えられた人間だけが特別で、乗り越えられなかった者はどうでもいいということなのだろうか。


そもそも、神様に喜ばれる人格への成長なんて望んでいない。私はただ、あの人の喜ぶ顔を見ていたかった。生まれてくる子どもと一緒に、平凡でも幸せな日々を送りたかった。


そんな願いも虚しく、最愛のあの人は心筋梗塞であっけなくこの世を去った。ねえ、神様。これがあなたの言う試練なの? 悪いけど、こんな残酷な試練はとても乗り越えられないよ。


断崖絶壁の岸壁に佇みながら、葉子は胸のなかでひたすら神への不満を述べ続ける。この一週間、泣きに泣き通し、一生分は涙を流した。


それでもまだ、涙が枯れることはない。考えてみれば、人間の体のほとんどは水分なのだ。体のなかから干からびでもしない限り、涙が枯れることもないのだろう。


目を閉じると、断崖絶壁の岸壁へ激しく打ちつけられる波の音に混じり、あの人の優しい声が聞こえた気がした。


ゆっくりと目を開き眼下の海を見下ろす。早く行かなければ。もう一週間も経った。早く行かないと、あの人に置いていかれてしまう。


葉子は母なる海へと目を向けたまま、静かに足を踏み出した。そのとき──


「この時期の海はまだ冷たいよ?」


突然背後から声をかけられ、葉子は弾けるように後ろを振り返った。


そこにいたのは、女優かモデルかと見紛うばかりの美しい女性。自殺の名所と呼ばれるこのような場所に似つかわしくない、エネルギーに満ちた目と雰囲気が印象的だった。


「ほら、こっちおいで」


艶やかな長い黒髪を風に靡かせながら、女は葉子へ手招きした。


「……ほ、放っておいてください。もう……私には生きる意味なんて……ないんです」


涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、震える声で言葉を紡ぐ。


「生きる意味がない?」


「……最愛の人に先立たれて……一人にされて……もう、もう……私には……あの人のもとに行くしかないんです……」


嗚咽する葉子を女はじっと見つめ続ける。


「君は……二つ間違っているよ。まず、生きる意味。君がそのまま海に飛び込むと、私は酷いトラウマを抱えるだろうね。もしかすると、一生悪夢にうなされるかもしれない。そうならないよう、君は思いとどまる必要がある。ほら、生きる意味あるだろ?」


初対面、しかも自殺しようとしている相手に対し、とんでもなく自分勝手な謎理論を説く女に、葉子は思わずぽかんとしてしまった。


「そ……そんなの、私には──」


「もう一つ。君は一人じゃないじゃないか……お腹、赤ちゃんがいるんだろう?」


葉子がハッとした顔を女に向ける。なぜわかったのか。まだ妊娠八週目あたり、お腹はほとんど出ていない。


「お腹がほとんど出ていないのに、なぜわかったんだって顔してるね?」


この人は心が読めるのだろうか。葉子は内心密かに慄いた。


「飛び降りる踏ん切りがつかなかったのは、心の奥底でお腹の赤ちゃんを道連れにしていいのかって葛藤してたんじゃないのかい? それに、何となくお腹へ触れていたし」


たったそれだけで見抜いたというのか。というより、この人はいったいいつから自分のことを見ていたのだろう。


「まあ、偉そうなことを言ったけど、決め手は勘さ。私にも、かわいい娘がいるからね」


ニコリと天使のような微笑みを向ける女に、なぜか葉子の目は釘づけになった。不思議な雰囲気と魅力。もしかして、自分を救うために天から降りてきた女神なのではないか、と本気で考えてしまった。


「さあ、おいで。今から少し観光に出るつもりなんだ。一緒に甘いものでも食べよう」


その言葉に葉子はもう抗えなかった。これが言霊というやつなのだろうか。


「せっかくのかわいい顔が涙でぐしゃぐしゃじゃないか。一度、私が泊まっているホテルへ一緒に戻ろう」


香澄と名乗った女が葉子の手をとり歩き出す。手のひらにじんわりとした温もりが伝わり、また目頭が熱くなるのを感じた。



──香澄と名乗った女性が泊まっていたのは、どこにでもあるようなシティホテルの一室だった。


部屋には小さなキャリーケースが一つ。旅行、にしては荷物が少なすぎる気がした。


「とりあえず顔洗っておいで。そのあとはメイクかな」


「メイク?」


「うん。きちんとメイクするだけで気分も変わるものだよ」


そういうものかな、と思いつつ葉子は洗面所へと向かい、鏡の前に立つ。ノーメイクで飾りっ気のない顔、目の下にできた青いクマ。今さらながら、何て酷い顔だと思った。


洗面所から戻り、促されるままに椅子へ腰をおろす。簡易なテーブルの上には、いくつものメイク道具が並べられていた。


「普段からメイクはあまりしないのかい?」


「ファンデーションとリップくらい、です。ここ最近は……それすらもする気が起きなくて」


「そっか。せっかく素材がいいんだから、ちゃんとメイクしないとね。まずは……クマを何とかするか」


リキッドコンシーラーを手にした香澄が、目の下にできたクマをカバーするように丁寧な手つきでラインを引いた。


化粧下地を顔全体へ伸ばすように塗り、次いでリキッドファンデーションを塗ったあとフェイスパウダーで仕上げる。


「ベースはこれでいいかな。じゃあどんどんいくよ」


流れるような手つきでメイクを進めていく香澄。いつも簡易的なメイクしかしない葉子にとって、それは初めての経験だった。


パティシエがケーキを作るときのように、香澄は繊細な手つきで作業を進めてゆく。その手際のよさは、とても素人とは思えない。もしかすると、プロのメイクアップアーティストなのだろうか。


されるがままになりながら、葉子はそんなことを考えていた。そして二十分後。


「うん。できた」


ふぅ、と小さく息を吐いた香澄は、完成した葉子の顔を俯瞰で見て満足そうに頷いた。


「さあ、見てごらん」


テーブルに寝かせていた卓上ミラーを開き、葉子の方へ向ける。


「これが……私……?」


見事にメイクアップされた自分の顔を目にし、葉子は驚きを禁じ得なかった。胸が……ドキドキする。


「どう?」


「こんなに……変われるんですね……」


「ふふ。かわいく変身できるのは女の子の特権だからね」


鏡をテーブルの上に立てた香澄は、葉子の背後に周り髪をブラッシングし始める。


「ん、これでよし。じゃあ、何か甘いもの食べに行こう。ええと……うん、二時間くらいは余裕あるな」


「あ……何か、予定があるんじゃ……?」


「大丈夫だよ。さあ行こう」



フロントで呼んでもらったタクシーで向かったのは、車で十分ほどの場所にある著名な観光地。


どうやら、そこに目的の甘味処があるらしい。何でも、百年以上続く老舗の甘味処なのだとか。


「ここだよ」


当時の古民家をそのままお店に転用したという店内は歴史情緒にあふれ、なぜか懐かしい気持ちにさせてくれた。


席につくと、香澄が慣れた様子で店員を呼び注文をしていく。初めてのお店なので、葉子はすべて香澄に任せることにした。


スカートから伸びる足を、どこからか入り込んだ隙間風が撫でてゆく。まだ春先なので、日中はやや肌寒い。


「妊婦は体冷やしちゃいけないよ。はい、これ」


香澄がバッグから取り出した膝かけを受け取る。ほんとに、この人は人の心を読めるんじゃないだろうか。


それにしても、本当に美人だ。いったい、何をしている人なんだろう。モデル……女優さんとか? でもメディアで見たことはないような。


そんなことを考えているうちに、注文した品がテーブルへと運ばれてきた。食べてしまうのがもったいないと思えるほどの、彩り美しい和菓子に思わず目を奪われる。


とても優しくしつこくない甘みが口のなかに広がった。美味しい。和菓子はそれほど好きじゃないのに、なぜかとても美味しく感じる。


「どうだい? 沁みるだろ? 甘いものは女の子の心と体を元気にしてくれるんだ」


ニコリと微笑む香澄に、葉子の頬がかすかに緩んだ。香澄も甘味を口にし「んー!」と感嘆の声を漏らしている。


不思議な人だと思った。どうして、初対面のまったく無関係な相手にこれほど優しく親切にしてくれるのだろうか。


甘味を味わいながら、いろいろな話を聞かせてもらった。とても表情豊かな人だけど、特に子どもの話をしているときは嬉しそうな表情を浮かべていたのが印象的だった。


自分もいつか、こういうふうに子どものことを話す日が来るのだろうか。いつのまにか、死にたいという気持ちはなくなっていた。約一時間半、甘味とお茶を楽しみつつ、自分の悩みもいろいろ相談させてもらった。



店を出てタクシーで市街地まで戻り、香澄は駅で降ろしてもらった。後部座席の窓が開き、香澄が顔を出す。


「じゃあ、ここでお別れだね。私から一つ、君に言っておきたいことがあるけどいいかい?」


「何でしょう?」


「今日のことは忘れること。過ちを犯そうとした君はもういない。あとは前を向いて歩いていくだけさ。今日のことは絶対に振り返らず、明日からは明るい未来だけを見て生きるんだよ?」


香澄が慈しむような目を向ける。


「か、香澄さんとのことも……ですか?」


「そうだ。私のことを思い出せば自然に過ちを犯そうとしたときのことも思い出してしまう。忘れたほうがいいのさ」


目を伏せる葉子に、香澄が「下を向かない」と優しく声をかける。


「また……いつかお会いできますか……?


「そうだね……縁がつながれば、きっとまた会えるさ。運転手さん、出してくれ」


後部座席の窓が閉まる。タクシーが発進する寸前、香澄の口がパクパクと動いた。


『がんばれ』


たしかに香澄はそう言った。遠ざかるタクシーを眺めながらら葉子は腰を折る。顔をあげた葉子は瞳に強い光を宿すと、踵を返ししっかりと前を向いて歩き始めた。



──バラエティー番組が終わり、報道番組のキャスターが最新のニュースを流暢に読みあげる声がリビングに響く。


葉子はすっかり冷めたコーヒーに口をつけ、静かにテーブルへ戻すと小さく息を吐いた。


「あれから……私は香澄さんに言われた通り、あの日のことを忘れようとした。前だけを向いて、生まれてくる子どもと頑張って生きていこうと考えたの。そこからは……とにかく必死だったわ……」


「そんなことが……あったんですね……」


葉子の口から語られた驚くべき事実。まさか、母親と葉子とのあいだに接点があったなどと、樹里は夢にも思わなかった。


「うん……。樹里ちゃんを初めて見たとき、なぜか懐かしい気持ちになったの。どこかで見たことがある、とも思ったわ……。陽奈から読者モデルと聞いたから、雑誌で見たのかなってそのときは思ってた」


「……」


「……樹里ちゃん、香澄さんは……いつ?」


「今から……八年前です。道路に飛び出した女の子を庇って車に……私と同じくらいの女の子を守って、母は亡くなりました」


葉子が目を伏せる。その肩が少し震えているように見えた。


「私は……私は……何て不義理なことを……。命の恩人の香澄さんが亡くなったことも知らずにのうのうと……!」


絞り出すように言葉を紡ぐ葉子の両目から涙がこぼれ落ちる。


「それは違います! 母が忘れるように言ったんですから、お母様は何も悪くありません。それに、母は絶対にそんなこと気にしない人ですし」


葉子の隣へ移動した樹里が、膝の上の手をそっと握る。あの日、あのとき、絶望の淵にいた自分の手を優しく引いてもらったときの記憶が蘇り、葉子はしゃくりあげながらさめざめと泣いた。


「母は……アパレル関連の事業の傍ら、女性や身寄りのない子どもを支援する活動をしていました。多分、お母様と出会ったのも、その活動で県外へ出かけていたときのことだと思います」


「香澄さんが……そのような活動を……?」


「はい。だからこそ、お母様のことも放っておけなかったんだと思います」


葉子の涙は止まらない。どのような理由があろうと、命の恩人を記憶から消してしまっていたこと、この世を去り二度と会えなくなったこと。


後悔と哀しみ、自分への怒りがどんどん湧きあがってくるのを感じた。


『縁がつながれば、きっとまた会えるさ』


別れ際、香澄に言われた言葉が耳の奥でこだまし、葉子はにわかにハッとする。


そうだ……縁はつながったんだ。もしかすると、香澄さんが縁をつないでくれたのかもしれない。


震える肩を優しく抱き続ける樹里に、香澄の面影と温もりを感じながら、葉子はつながった縁に感謝し、そしてまた涙した。

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