第40話 いったい何があったの?
「ご迷惑をおかけしました」
樹里だけでなく、咲良や葉月、晶、さらにまったく面識のないマコト、その関係者と、多くの人が自分を捜すために時間を割いてくれていたことを知った陽奈は、みんなの前で深々と頭を下げた。
葉月と晶は「よかった」と胸を撫でおろし、咲良は優しく微笑みながらそっと陽奈の頭を撫でた。
一方、樹里は陽奈とまったく同じ謝罪の言葉を、全力で蹴り飛ばした警察官へ述べていた。事情が事情だからか、壮年の男性警察官にも笑って許してもらえた。男性警察官に怪我がなかったのが不幸中の幸いである。
なお、警察官へ飛び蹴りを食らわす前に鳴っていたスマホ。電話をかけてきたのは陽奈の母親、葉子だった。
コンビニで乾電池式の充電器を購入した陽奈は、葉子に連絡をいれ、そのとき自分の完全な勘違いであったことを知らされたようだ。
葉子からの電話は、陽奈から連絡があったことを伝えるためだった。とりあえず、今から家まで送ると樹里が伝えると、葉子は申し訳なさそうに声を震わせた。
電車で送っていくつもりだったが、マコトが「乗ってけ」と言ってくれたため言葉に甘えることに。まずは全員で陽奈を自宅まで送り届け、樹里も自宅近くまで送ってもらった。
暗いところが苦手な樹里のために、咲良がマコトへ「送ってやってよ」と進言してくれたのである。マコトも快く応じ、その後咲良や葉月、晶は同じ駅でおろしてもらうことになった。
「また困ったことあったらいつでも連絡してこい」
駅のロータリーに車を停めたマコトは、咲良に電話番号を書いた紙を渡した。LIMEも交換したようだ。どうやら、マコトは咲良を気に入ったらしい。異性としてかどうかはわからないが。
こうして、大勢を巻き込んだ陽奈捜索大作戦は終了した。
──翌日。
「おはよー」
「おはよー」
登校してきたクラスメイトの挨拶が飛び交う教室のなか、沙羅は机に頬杖をついてぼーっと黒板を眺めていた。
昨日、神木はちゃんと自宅に戻ったのだろうか。あのあと、電車に乗ったあともそればかりが気になった。
それに、神木が聞いたという母親の電話。あれは結局どうだったんだろう。やはり神木の勘違いだったのだろうか。できることならそうあってほしい。
小さくため息をついた沙羅が、陽奈の席へと目を向ける。神木はまだ登校していない。ちゃんと登校してくるのだろうか。
大切な友達と離れたくないと、大粒の涙をこぼしていたクラスメイトの姿が脳裏に蘇る。あんな神木は一度も見たことなかった。
いつも無表情で寡黙、感情を表に出すことがほとんどない神木が、悲しみに打ちひしがれ声を押し殺して泣いていた。おそらく、その話をほかのクラスメイトにしてもまず信じてもらえないだろう。
教室の引き戸を開ける音が聞こえ、沙羅は弾けるように視線を向けた。
「あ、沙羅ちゃんおはよー」
「……おはよう桃香」
沙羅へ向かって手を挙げる桃香のあとに続き、由美も教室へと入ってきた。桃香は自分の机へ、由美は教室後ろのロッカーへランドセルを置くと、沙羅のそばへやってくる。これはいつものことだ。
ちらりと正面の時計に目をやる。いつもならすでに神木は登校している時間だ。
「あれ? 神木さんまだ来てないんだ」
「ほんとだ。珍しいね」
二人に胸のなかを覗かれた気がして思わずドキリとした。もしかして表情に出ていたのだろうか。
「か、神木のことなんかどうだっていいわよ」
相変わらずだなぁ、と由美、桃香が顔を見あわせたそのとき──
教室の引き戸がガラガラと開いた。入ってきたのは、見慣れた無愛想で無表情なクラスメイト。
「あ。神木さん来たね」
陽奈が登校してきたことにほっと安堵した沙羅だが、思わず顔を背けてしまった。一方、陽奈は沙羅に目もくれず自分の席へ着席する。
あまりにもいつもと変わらぬ様子に、昨日見た彼女は別人だったのではないかと疑いたくなるほどだった。
「……ん?」
一度席に着いた陽奈が、席を立ち沙羅のそばへ近づいてきた。予想外な行動に、由美と桃香も驚きを隠せない。それは沙羅も同様だった。
「白鳥さん」
「な、何よ」
「昨日はありがとう。これ、洗ってきました」
陽奈が何かを差し出す。それは昨日、嗚咽を漏らす陽奈に渡したハンカチだった。
「あ……うん……。で、どうだったのよ……?」
「私の勘違いでした。それでは」
相変わらずな無表情のまま伝えると、陽奈はサッと踵を返し席へと戻っていった。
沙羅が返却されたハンカチに目を落とす。そっか。やっぱり勘違いだったんだ……よかった。
思わず口元が綻びそうになるのを、沙羅は気合いで我慢した。一方、由美と桃香はあんぐりと口を開けて固まっていた。
これまで、沙羅から一方的に絡んだり挑発したりといったことはあったものの、陽奈から話しかけてくることは一度もなかった。
しかも、先ほどの話ぶりからすると、昨日一緒にいたとも受けとれる。急転直下の急接近ぶりに、由美と桃香は腰が抜けるほど驚いてしまった。
「さ、さ、沙羅ちゃん! いったい何があったの!?」
「そそそ、そうだよ! どういうこと!?」
「……うっさいわね。何でもないわよ」
身を乗り出して質問攻めしてくる由美と桃香に若干の鬱陶しさを感じつつも、沙羅の心はどことなく弾んでいた。
──昼下がりの午後、芸能の仕事ということで学校を早退した綾辻桐絵は、白い制服の袖口についた小さな茶色いシミを気にしつつエレベーターを降りた。
堀口学園の白い制服はとても素敵だと思うけど、汚れが目立つのは難点よね。約束の時間まで暇を潰そうと、カフェでコーヒーを注文したのが誤りだった。
ツインテールにまとめた髪を揺らして歩きながら、桐絵がため息をつく。『冬島出版』とプレートが掲げられた扉を開くと、一人の女性がこちらへ向けて手を振った。ファッション誌、ガルガルの担当であり副編集長の明日香だ。
「桐絵ちゃーん、こっちこっち! ミーティングスペース入ってて!」
促されるままにミーティングスペースへ向かい、ボックスタイプのソファへ腰をおろす。今日は次回撮影の打ち合わせだ。少し待っていると、明日香が資料片手にミーティングスペースへやってきた。
「お待たせ。さっそく次の撮影のことなんだけど」
セミプロモデル、タレントの卵として活動している桐絵にとって、こうした打ち合わせは慣れた作業である。特に何の問題もなく、滞りなく打ち合わせは進んだ。
「あ、そうそう。今回のカメラマンは諏訪さんだから、よろしくね」
「諏訪さん?」
「そ。あの神木陽奈ちゃんを撮影したカメラマンよ」
神木陽奈の名前を聞いた瞬間、桐絵の心臓が大きく跳ねた。
「
「お、そうそう。あの写真がめちゃくちゃ好評で、諏訪さんったら一躍人気カメラマンの仲間入りだもんね」
「……カメラマン云々ではなく、被写体の女の子が凄かったです。正直、ちょっと震えました」
「でしょ? もともとジュリちゃんが撮影場所に陽奈ちゃんを連れてきてたのよね。で、たまたま現場へ遊びに来てたCuteeeenの担当者があまりの逸材ぶりに感動して撮影と掲載を直談判したのよねー」
再び跳ねる心臓。そして、やはりあの二人は接点があったのだと理解した。
「あの……ジュリ、ちゃんと神木陽奈ちゃんはどういう関係なんですか?」
明日香の顔に「おや?」といった表情が浮かぶ。以前まではジュリと呼び捨てにしていたはずだ。それに、ジュリの名前を口にするときは表情も険しくなっていたのに。どのような心境の変化なのだろう、と明日香は首を捻った。
「あ、ええと……友達らしいわよ」
「友達? 小学生と……高校生が?」
「うん、本人がそう言ってた。現場でもめちゃくちゃ仲良かったよ。撮影してないときなんかずっと手繋いでるくらい」
「そう……なんですね」
桐絵はやっと理解した。あのとき、なぜ神木陽奈があれほど激昂したのか。見知らぬ相手へいきなりランドセルで殴りかかるほど怒り狂っていた理由を、やっと理解できた。
「……明日香さん。ジュリちゃんって、いったいどんな子ですか? 明日香さんから見て」
「ジュリちゃん? いい子よー? 幼いころにお母さんが亡くなられて、お父さんも海外での仕事が多いみたいだから、身のまわりのこと全部一人でやりながら、読モもやってる感じ。周りに気を遣えるし礼儀正しいし、裏表もいっさいない子ね」
おそらく、そうなんだろうとは思っていた。祖母を助けてくれたと知ったとき、今まで勝手に作りあげていたジュリのイメージは完全に崩壊していた。
「そう、ですか……。あの、できることなら、いつかジュリちゃんと一緒に撮影する機会を設けてくれませんか? そのときは私の扱いは小さくていいので」
「……驚いた、桐絵ちゃんがそんなこと言うなんて。うん、わかった! 何とかしてみるね」
「よろしくお願いします」
桐絵は心から感謝し、深々と頭を下げた。
──夜。神木邸の食卓に並ぶ豪勢な料理の数々に、樹里と陽奈が「おおー」っと声をあげた。
昨日、陽奈を送ってきた際、葉子からお礼をしたいと食事に誘われたため、一度自宅へ戻ってから神木邸へやってきたのである。なお、今夜はお泊まりし、陽奈と一緒に朝家を出るつもりだ。
咲良や葉月たちも招待されたが、すでに予定が入っているとのこと。また近いうちにみんなでお邪魔しますとのことだ。
「さて……食事の前に。樹里ちゃん、昨日は本当にありがとう」
椅子に腰をおろした葉子が、かしこまって頭を下げる。大皿に盛られた唐揚げを箸で取ろうとしていた陽奈も、手をそっと戻した。
「いえいえ! お礼を言われるようなことでは……」
樹里が慌てて胸の前で手を振る。
「陽奈も自分の意思で帰ろうとしていたみたいですし、最後は警察の人が保護しようとしてたし、私たち大してお役に立ててませんよ」
「いいえ、そんなことないわ。樹里ちゃんたちが陽奈を捜してくれたことがどれほど心強かったか……それに、どこそこで目撃情報があったとか、何度か連絡してくれたでしょ? そのおかげで安心できたの」
「あはは……お役に立てたならよかったです。陽奈も無事でしたし」
「うん。帰りも送ってもらっちゃって。本当にありがとう」
再び頭を下げた葉子が「あんたはもう少し反省しなさいね」と陽奈へ視線を向ける。ふいっと顔を背けるが、反省しているのは葉子も樹里も理解していた。
「さあ、じゃあご飯食べましょ! 樹里ちゃん、いっぱい食べてね!」
ゴーサインが出たことで、陽奈が即座に唐揚げへ手を伸ばした。どうやらお腹がぺこぺこらしい。その様子に、葉子と樹里がちらりと視線をあわせ、クスクスと笑みをこぼした。
──楽しい夕食の時間を終えて、樹里と陽奈はリビングのソファでのんびりとくつろいでいた。キッチンでは、葉子が食後の後片づけをしている。
樹里が手伝いを申し出ると、さすがに今日はお手伝いさせられないわ、とやんわり断られてしまった。
「この芸人さんさ、最近よくテレビで見るよね」
テレビへ顔を向けたまま樹里が口を開く。
「そう……ですね……」
「ん? あ、もしかして陽奈、もう眠い?」
弱々しい返事を不思議に感じた樹里が陽奈を見やると、うつらうつらと船を漕ぎ始めていた。時間はまだ十九時半すぎ。普段なら問題なく起きている時間だ。
「陽奈ー? 眠いなら先にお風呂行ってベッド入りなさいよー?」
キッチンからも陽奈の眠そうな様子を窺えたらしく、葉子が声をかけた。
「うん……そうする……」
「陽奈、大丈夫? お風呂で寝ちゃダメだよ? 一緒に入る?」
「いえ……サッと入ってサッと寝ます……何だかとても眠くて……樹里はゆっくりしててください……」
ふらふらとバスルームへ向かった陽奈は、宣言通りわずか五分足らずで風呂からあがると、「おやすみなさい」と一言残し自室へと消えた。
「昨日、一人であんな大冒険をして、まだ疲れが残ってるのかもしれないわね」
洗い物を終えた葉子が、樹里の前に淹れたてのコーヒーを置く。豆から挽いて淹れたコーヒーは香り高く、樹里は思わず目を閉じてその香りを堪能した。
「ありがとうございます。そう、ですね。たしかに大冒険だったみたいですね」
ふふ、と微笑んだ葉子が樹里の向かいへ腰をおろした。しばし、昨日の出来事をもち出し会話に華を咲かせる。
「ほんと、あの子ったら、ねぇ……」
ふぅ、と小さく息を吐いた葉子が、スッと目を伏せる。その様子が、樹里には心を落ち着かせようとしているように見えた。会話がひと段落ついたタイミングで訪れたわずかな沈黙。再び口を開いたのは葉子のほうだった。
「……あの、樹里ちゃん。少し不躾な質問をしてもいいかしら?」
突然、真剣な眼差しを向けられた樹里の瞳に、かすかな戸惑いの色が宿る。
「は、はい。何でしょう?」
「……もし、間違っていたならごめんなさい。ひょっとして、お母様の名前は……香澄さん、ではないかしら……?」
樹里の目が大きく見開かれる。その反応だけで葉子には充分だった。
「ど……どうして、母の名前を……?」
「やっぱり……そうだったのね」
何かを懐かしむような、それでいて哀しむような、何とも言えない複雑な表情が葉子の顔に浮かぶ。一方、葉子の口から母の名前が出たことに、樹里はただただ戸惑うしかなかった。
「は、母を……ご存じだったんですか……?」
「……ええ。私と……陽奈がこうして楽しく元気に暮らせているのは、あなたのお母様、香澄さんのおかげなんだもの……」
驚愕する樹里とは反対に、葉子はやわらかな表情のまま遠くを見つめるような目をした。
「そ、それはいったい……どういうことですか……?」
視線を落とした葉子が、両手でそっとお腹に触れる。
「香澄さんは私の……、いえ、私と陽奈の命の恩人なの」
テレビのなかのお笑い芸人が何か面白いことを口にしたのか、スタジオがどっと湧いた。が、そんなもの今の樹里には何一つ耳に入ってこなかった。
「約十年前……まだあの子が……、陽奈がお腹にいたころだったわ」
葉子がスッと目を伏せる。
「そう……あの日、あのとき。私は……お腹の子と一緒に死ぬつもりだったの」
二人しかいない空間に、再び賑やかな笑い声が虚しく響いた。
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